普天間基地問題の原点は何なのか。「オール沖縄」・日本共産党の赤嶺政賢前衆院議員に話を聞きました。
返還阻む条件
1995年9月に発生した米兵による少女暴行事件で、日米安保体制の危機に直面した日米両政府は、「基地負担軽減」のためとして「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)を設置し、普天間基地の「全面返還」を合意しました。「5年ないし7年以内の返還」と発表されましたが、今も実現していません。移設条件付きだったからです。
その後、「返還時期」は、「2014年度」、「22年度又はその後」と後退していきました。「移設先」の名護市辺野古の米軍新基地建設は、埋め立て区域北側の大浦湾に広がる軟弱地盤改良でさらに遅れ、今や政府の誰も普天間基地の返還時期を示せない状況です。辺野古新基地建設はすでに破綻しています。
先月26日には、宜野湾市議会で「返還時期」の見通しが立っていないことを批判し、普天間基地の一日も早い閉鎖・返還を求める決議が全会一致で可決しました。現宜野湾市長は辺野古の推進派ですが、市民の怒りは高まっています。
SACO合意当時から米側は、別に長い滑走路が用意できない場合、普天間基地を使い続けることを狙っていたと見られますが、最近、米国防総省が米政府監査院(GAO)に提出した公式回答で、新基地が完成しても別の長い滑走路を用意できない場合、普天間基地は返還されないとの見解を示していたことがわかり、その狙いが鮮明になっています。県民に基地は返ってこないのではないかという不安が広がっています。
伊波洋一参院議員は宜野湾市長当時、移設条件付きでは基地問題が解決するはずがなく、普天間基地は永遠に返ってこないと指摘していましたが、その通りになっています。
団結した県民
普天間基地の「移設先」として浮上した名護市では、1996年7月、「代替ヘリポート建設反対市民総決起大会」が開かれました。大会は名護市、市議会、市区長会、市教育委員会、市商工会、教育団体、青年団体を含む「オール名護」で実施されました。当時の比嘉鉄也市長は、97年の名護市民投票の結果を裏切るかたちで基地受け入れを表明しますが、当初は基地建設に「反対」が名護市と市民の総意でした。
その後、2010年、「辺野古の海にも陸にも基地をつくらせない」と公約に掲げた稲嶺進さんが名護市長に当選。13年1月には、県内全41市町村長・議会議長らがオスプレイ配備撤回と普天間基地閉鎖・撤去、県内移設断念を求める「建白書」を安倍首相に提出し、保守・革新を超えた県民の総意を突き付けました。
そもそも普天間基地を含む沖縄の広大な基地は、米軍が国際法に違反して住民の土地を一方的に囲い込み、「銃剣とブルドーザー」で強奪してつくられたものです。米軍の横暴への県民の屈辱、人間として許せない怒りの気持ちが地下水脈のように県民を結びつけたのが「建白書」であり、それが「オール沖縄」のたたかいの原点です。
「オール沖縄」は、政府との激しいたたかいを頑張り抜いてきました。13年に仲井真弘多知事(当時)が辺野古の埋め立て申請を承認しますが、翌14年の県知事選で翁長雄志さんが圧勝。翁長さんが道半ばで亡くなった18年には、新基地建設反対の立場を引き継ぐ玉城デニー県政が誕生しました。
1995年の事件で少女の人権が蹂躙(じゅうりん)され、県民の尊厳がふみにじられているのに、新基地を造らなければ普天間基地を返さないという政府の要求を、なぜ受け入れなければならないのか。9月の県知事選は、米国追随で基地を押し付ける政府と、県民との激しいたたかいとなります。県民の思いをさらに広げることが勝利への第一歩です。
基地ある限り
そうした中、辺野古沖での船の転覆事故で未来のある高校生と、船長の2人が亡くなったことは本当に痛ましいことです。船を運航していたヘリ基地反対協議会は謝罪を表明し、捜査に全面的に協力しています。一方で、事故を口実に平和学習や新基地反対運動を攻撃する誹謗(ひぼう)中傷は許されません。
沖縄に米軍基地がある限り、平和を希求する県民との矛盾は絶対になくなりません。必ずその矛盾に対する県民の抵抗が起こります。翁長知事はかつて「自分が負けたら必ず次の翁長雄志が出てくる」と訴えていました。瀬長亀次郎さんも那覇市長を辞めさせられたとき「瀬長が負けても次の瀬長が生まれる」と訴えていました。たたかいには前進もあれば後退もあります。しかし、今の沖縄の現状は絶対に子や孫の時代に引き継いではなりません。
米軍基地をなくし、南西諸島の軍事要塞(ようさい)化など沖縄を戦場にする自衛隊基地の強化をやめ、本当に基地のない平和で豊かな島をつくるという原点に立った県民の団結が必要です。私もそのために全力で頑張ります。

