日米両政府が1996年4月に米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の「5年ないし7年以内の全面返還」に合意してから、12日で30年となります。住宅密集地に位置する同基地は、歴代政権が「一日も早い危険性の除去」を定型句のように繰り返しながらも、今なお宜野湾市の中心部に鎮座し続けています。基地を押しつける日米安保の不条理に抗(あらが)い続ける2人の証言から、普天間の現状と沖縄が翻弄(ほんろう)された30年の軌跡を追います。(沖縄県・平良暁志)
(写真)普天間基地(沖縄県提供)
宜野湾市の北側にある喜友名地域、基地のフェンスからわずか50メートルの場所に住む新垣清涼さん(75)は、普天間基地爆音訴訟団の団長として、静かな空を取り戻すための先頭に立っています。かつて自治会長や市議・県議を歴任した新垣さん。30年たっても一向に改善されない現状に対し、「日米安保条約は国民の生活を守らない」と強い憤りを隠しません。
2002年に404人の住民が立ち上がり結成された同訴訟団は現在、原告数が5800人を超える規模に膨れ上がっています。特筆すべきは、第3次訴訟から若い母親や子どもたちの参加が圧倒的に増えたことだと新垣さんは話します。
背景には、米海兵隊の欠陥機オスプレイが同基地に配備されて以降、深刻さを増す騒音被害が挙げられます。普天間第二小学校への窓落下事故や、基地内から住宅地への流出が強く疑われるPFAS(有機フッ素化合物)の汚染など、命と健康に直結する新たな脅威もあるといいます。
住民が長年苦しめられてきたのは、日常的な爆音による睡眠妨害や子どもの学習阻害です。基地被害は数値だけで表せない精神的苦痛を伴うものであると強調する新垣さん。特にオスプレイの不快な低周波音や、住宅地上空でのジェット戦闘機によるタッチアンドゴーは、大きな影響を及ぼしています。住民に「心臓が止まる思い」をさせ、日常会話や一家団らんを引き裂いています。
基地なき島へ 不屈の歩み
犠牲強いられない平和求めて
(写真)普天間基地のフェンス近くで米軍機の爆音被害などについて語る新垣清涼さん=6日、沖縄県宜野湾市
新垣さんは、かつて来賓に招かれた普天間第二小学校の卒業式での一幕を回想します。卒業生の名前を読み上げる声が米軍機の爆音にかき消され、式が何度も中断される光景を目の当たりにしました。
基地に隣接する普天間第二小学校は、フェンス一枚を隔てて米軍滑走路と向き合うという、極めて特異な立地環境にあります。オスプレイやヘリが通過するたび、激しい爆音で授業も日常的に中断させられ、子どもたちの学習保障が著しく阻害されています。
17年12月13日には、米軍機の窓が同校の校庭に落下する事故が発生。生命に直結する危険が現実のものとなりました。
落下事故を受けて同校の運動場には、沖縄防衛局によって二つのコンクリート製シェルター(避難施設)が設置されました。運動場での体育の授業中などに米軍機が接近すると子どもたちは運動を中断し、そのつどシェルターに避難を強いられるという異常事態が今も続いています。
新垣さんら原告がたたかう爆音訴訟で、司法はこれまで普天間基地から生じる爆音を「違法」と認め、日本政府に賠償を命じてきました。しかし、訴訟団がもう一つ請求している米軍機の飛行差し止めについては、「日本政府にコントロールする権限がない」として棄却し続けています。
新垣さんは「私たちの目的は賠償金ではなく、爆音をなくすことだ」と話します。司法の不当な判断にも、「これ以上、犠牲を強いられない社会」を求めるために裁判での闘いを続けていくと力を込めました。
“100年先”
(写真)美術館の来場者に説明する佐喜眞道夫館長=6日、沖縄県宜野湾市
普天間基地の北側に接し、まるで基地のフェンスを押し返すようにして建つ「佐喜眞美術館」。この場所は、館長の佐喜眞道夫さん(79)が先祖から受け継いできた土地です。戦後、米軍が住民の土地を奪って普天間基地を造ったため、1994年まで基地の中にありました。
佐喜眞さんは先祖代々の土地を取り戻すため、当時の那覇防衛施設局へ3年以上も通い詰めました。門前払いを繰り返される日々でしたが、諦めることなく市役所や県庁へも足を運び、突破口を模索しました。
当時宜野湾市長だった故・桃原正賢氏や企画部長の比嘉盛光氏の協力で米軍の不動産管理部門の所長、ポール・ギノザ氏との交渉ルートが切りひらかれ、92年2月、ついに基地の「一部返還」が決定、94年11月23日に開館しました。日米の返還合意に先んじた異例ともいえる措置でした。「日米安保は日本全体の問題。人の不幸の上に幸せはつくれない」という信念で開館した美術館は、戦争の本質と人間の尊厳を問い続けています。
沖縄の風水にこだわった建物は、沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」(6月23日)の日没線に合わせた6段と23段の階段が設計され、屋上に登ると普天間基地を一望できます。そこは過去の惨禍と、いまなお日常生活に爆音が響く現在が重なり合う場所であり、全国から学生が訪れる平和学習の拠点となっています。
佐喜眞さんは「アートを通して平和を発信していますが、沖縄戦の実相を描いた作品群を通して、100年先の沖縄を見据えた人間と戦争の真実を考える『もの想う場』をつくっていきたい」と語ります。
対米従属
(写真)市街地のど真ん中に居座り続ける米海兵隊普天間基地=3日、沖縄県宜野湾市
なぜ合意から30年たっても普天間基地は閉鎖・撤去されないのか―。根本的要因は、普天間の代わりに名護市辺野古へ新たな基地を建設しない限り、返還しないという“移設条件付き”の合意だからです。
その上、米側は辺野古新基地建設のほかにも「長い滑走路」が確保されなければ普天間は返さないなど計8項目の条件を付けています。県民の土地を無法に奪い建設した基地を返すのにさえ、移設条件をのむよう迫る横暴極まりない米国。言われるがままに付き従う日本政府の屈辱的な姿勢も問題の根底にあります。
(写真)低空飛行する米軍ヘリ=沖縄県宜野湾市
他方、辺野古新基地建設は、大浦湾の軟弱地盤改良に伴う前例のない難工事に直面。少なくとも完成の時期すら見通せない状況になっています。
日本共産党の田村智子委員長は3月9日の衆院予算委員会で、30年前の合意が普天間基地の返還を「5年ないし7年以内」としたことに言及。「いつ返還されるのか」と追及したのに対し、政府は返還期日を示すことができませんでした。
返還が遅れるほど、基地の危険性と周辺住民の苦しみを日本政府は放置し続けることになります。田村委員長は、破綻した辺野古新基地建設を断念し、普天間の即時運用停止と無条件返還を米国に求めるよう迫りました。
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沖縄県の玉城デニー知事も10日の記者会見で、辺野古新基地建設について「さらなる工期の延伸も懸念され、危険性の除去につながらない」と強調。辺野古「移設」と切り離して普天間基地を早期閉鎖・返還するよう日米両政府に粘り強く求めていくと語りました。

