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2025年12月31日

不破哲三さん死去

日本共産党前中央委員会議長

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(写真)不破哲三・日本共産党前中央委員会議長

 日本共産党中央委員会名誉役員で前中央委員会議長の不破哲三(ふわ・てつぞう、本名・上田建二郎)氏は、30日午後1時20分、急性心不全のため東京都内の病院で死去しました。95歳。

 喪主は長女の上田千加子氏。葬儀は家族葬としておこなわれ、党としての葬儀は別途とりおこないます。

 1930年1月26日、東京野方町(現・東京都中野区野方)に生まれ、東京府立第六中学校を経て、46年9月、旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)に入学。翌47年1月に日本共産党に入党しました(第一高等学校学生細胞)。53年3月、東京大学理学部物理学科を卒業しました。

 日本鉄鋼産業労働組合連合会(鉄鋼労連)に本部書記として就職、同年3月、後町七加子さんと結婚。64年3月、党本部の専従職員となり理論政策委員会で活動を始め、66年の第10回党大会で中央委員に選出されました。70年の第11回党大会で党書記局長に選出、82年の第16回党大会で党委員長に選出。87年に心臓疾患で入院し、89年まで党副議長、同年に委員長に復帰、2000年まで党委員長の任にあたったのち、同年から06年まで党中央委員会議長をつとめました。同年から24年まで党中央委員会社会科学研究所所長をつとめました。

 1969年の衆院選で旧東京6区から出馬し初当選、衆議院議員を連続11期34年間にわたってつとめました。

 不破氏は、64年に開始されるソ連共産党からの干渉、66年に開始される中国・毛沢東派からの干渉という、二つの大国からの干渉攻撃に対して、相手の攻撃を打ち破る論戦を展開し、党の自主独立の路線を発展させるうえで重要な役割を果たしました。スターリンの覇権主義の誤りを批判した『スターリンと大国主義』(82年)、ソ連崩壊後、ソ連による日本共産党に対する干渉活動の全容を究明した、『日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から』(93年)は、英訳されて海外からも反響が寄せられました。

 不破氏は、自主独立の立場から、日本共産党の綱領路線と、科学的社会主義の理論を発展させるうえでも、重要な足跡を残しました。「マルクス・レーニン主義」の名で、スターリンなどによって歪曲(わいきょく)された理論を、マルクス・エンゲルスの本来の立場で根本的に見直し、刷新する活動の先頭に立ちました。それは「議会の多数を得ての革命」、「未来社会論」など、科学的社会主義の全分野におよび、その成果は、2004年の党綱領の全面改定に生かされました。

 若い時期から、マルクス・エンゲルスなどの古典研究に一貫して情熱的にとりくみ、マルクスの恐慌論・革命論を発展させるなど、新しい探究にとりくみました。新しい『マルクス・エンゲルス全集』(『新メガ』)の到達点を踏まえて、『新版 資本論』(19~21年)の刊行に大きな役割を果たしました。

 34年におよぶ衆議院議員として、国政を揺るがす多くの論戦にとりくんできました。1974年、米原子力潜水艦の日本寄港に関するデータ捏造(ねつぞう)をきびしく追及し、183日間にわたって米原潜の寄港を止め、日米軍事同盟の根幹をゆさぶった論戦など、暮らし、民主主義、平和を擁護する理性と正義の論陣の先頭にたって奮闘しました。