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- とくほう・特報
- 2026.08.11
親子で語り継ぐ満蒙開拓の実相(上)
岐阜・池田町 北村栄美さん(92)証言
ソ連兵の性暴力 目の当たり
アジア・太平洋戦争終結から81年。戦争体験者が高齢化し、証言する機会が減る中、次世代が継承する取り組みが広がっています。戦前、満蒙開拓団で旧「満州国」(現・中国東北部)に渡り、命からがら引き揚げてきた北村栄美さん(92)=岐阜県揖斐郡池田町=は、80代半ばから本格的に語り部活動を始めました。いま、長男の北村彰夫さん(65)=同=と、長女の岡崎いづみさん(64)=東京都武蔵野市=が、引き継いでいます。(内藤真己子)

旧「満州国」の地図で開拓団のあった場所を探す北村栄美さん(左)と、娘の岡崎いづみさん=長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館
7月、北村栄美さんと岡崎いづみさんの姿は、長野県下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館にありました。記念館は、満蒙開拓の史実を残す拠点として2013年、開館しています。栄美さんは、東京都からやって来た医療関係者のグループに体験を話しました。
1934年、長野県下伊那郡大鹿村で生まれた栄美さんは41年、7歳の時、両親と兄妹の一家6人で中国東北部の旧「満州国」に渡ります。入植したのはハルビンから北東へ数百キロの、大河・松花江に面した大古洞(たいこどう)下伊那郷開拓団(現・黒竜江省大古洞)でした。
冬は零下30度を下回る厳しさ。父親が山仕事で大けがを負ったこともあり、生活は困窮しました。45年8月9日、ソ連軍の侵攻後に成人男子が「根こそぎ動員」で召集されます。障害のある父親も動員され、戦後、北朝鮮の収容所で死亡しました。
同年8月17日、敗戦が開拓団に伝えられます。何日か後、隣接する「小古洞(しょうこどう)開拓団」から火の手があがりました。「集団自決」を決めた団が、高齢者や子どもを集めて閉じ込めた家に、火を放ったのでした。死にきれなかった人たちが、大古洞にたどり着きました。
ほどなく松花江河畔の町「清河鎮(せいかちん)」にソ連軍が駐留します。ソ連兵は開拓団の各部落を見回りに来ては家財を強奪し、毎日のように「女漁(あさ)り」=強姦(ごうかん)=を繰り返しました。栄美さん自身もソ連兵を間近に見たことがあります。一家で避難していた場所に編み上げ靴を履いたソ連兵が、土足で突然ドカドカと上がってきたのです。「足元にオレンジ色の靴ひもが見え、顔を上げたら目の前にベルトのバックルがあった。ずっと上の方にビー玉のような目玉がギョロッと光っていました。あの光景はいまだに忘れない」
(1面のつづき)
“命の選択”母泣き崩れ

北村栄美さん
「メーゴウ、シャンゴウ、ダバイ!」。ソ連兵はこう叫び、隣に寝ていた二つ下の妹・千裕(ちひろ)さんの布団を蹴り上げました。百日ぜきで寝込んでいた千裕さんがせき込んで洗面器いっぱいに喀血(かっけつ)すると、ソ連兵は出ていきました。「女性と見れば高齢者でも構いなし。指を切って血を股にこすりつけ、生理中と装って逃れようとした人もいました。鉄砲を撃つだけが戦争じゃない。戦争はくらしの中で、戦後も続いたのです」。栄美さんは証言します。
子どもたちがソ連兵の襲撃を見張ることになりました。屋根に上り、馬を走らせ坂を越えて来るソ連兵が遠くに見えると、白旗を上げて知らせます。「今日も来る来るロモーズ(ソ連兵)が/大和坂を速(そく)で来る/女探しにくるのでしょ」。栄美さんは、当時子どもたちが歌っていたという替え歌を口ずさみます。母親は「ついてくるんじゃねえ!」と言って、一人でどこかへ逃げていきました。幼子を背負って雨の畑に逃れた女性の子が、避難中に死亡することもありました。
駐留ソ連軍は、開拓団に女性を差し出すよう要求してきました。栄美さんは、別の開拓団から身を寄せていた人が、「恩返しに」と名乗り出て「いけにえ」になったと聞かされてきました。しかし後年明らかになった証言で、開拓団幹部の強い指示で女性が選ばれ、差し出されたことが分かってきました。
生きられない
栄美さんが片時も忘れられないのは、一番下の妹・洋子さんの死です。避難生活する開拓団は、持ち寄ったトウモロコシの粉で薄い重湯をつくり、分け合って命をつないでいました。10月になると寒さが追い打ちとなり、感染症で命を落とす人が相次ぎました。9歳の千裕さんは百日ぜきで重体。生後10カ月の洋子さんも風邪で体調を崩しました。
ある日、母親が栄美さんを人気のない場所に呼び、低い声でこう告げました。「今日から洋子には水だけをやれ。私と洋子の重湯は千裕にやってくれ」。驚く栄美さんに、母親は声を潜めて言いました。「洋子は小さく、日本に帰るまで生きられない。せめて千裕だけは助けたい」。
栄美さんは母親の言いつけを守ります。洋子さんは痩せて青白い顔になり、泣き声もかすれていきました。見かねた栄美さんは、母に隠れて重湯を一さじ飲ませます。洋子さんはにっこり笑いました。「うれしくてね。血筋がツーと動きだして頬がピンク色になったの。まだ生きる力があるんだと思った」。栄美さんは頬に手をやり、厳しいまなざしで、昨日のことのように語ります。
洋子さんの血色が良くなったのを母親が見とがめました。「だれがやった。苦しませるな」。まもなく洋子さんは息を引き取ります。亡骸(なきがら)を葬ろうにも大地は凍り穴を掘ることもできません。新巻きザケの木箱に亡骸を横たえ原野に置き、土をかぶせるのがやっとでした。ふびんに思った栄美さんが翌日も墓地へ見に行くと、土が飛ばされ木箱があらわになっていました。
「おまえが行ったら洋子は成仏できない」。母親に厳しくとがめられました。しかし栄美さんが再びこっそり墓場を訪れると、母親が凍った洋子さんの亡骸を抱きしめ、一人泣き崩れていました。「かんにんな。かんにんな。今度生まれてくるときは、平和な時代に生まれてくるんやぞ」

開拓団の復元住居の前で、体験を語る北村栄美さん(右から2人目)と、娘の岡崎いづみさん(右端)=満蒙開拓平和記念館
小さな侵略者
46年10月、12歳になった栄美さんは、17歳の長兄と2人で引き揚げ船に乗り帰国します。母親と妹・弟は、敗戦後、現地人に託した三男を捜すために中国に残り、帰還を果たしたのは53年でした。大古洞開拓団員約970人のうち428人が死亡。その多くが女性と子どもです。
栄美さんは長野県飯田市の親戚の家に身を寄せますが、貧しく居場所がありません。兄は住み込みで働いています。栄美さんも親戚の家を出て住み込みで働き、中学には通えませんでした。やがて岐阜県内に職を得ます。そこで家族を奪った戦争が二度と起こらないよう、平和運動に足を踏み出すようになりました。24歳で日本共産党の専従職員だった北村修保(のぶやす)さん(故人、元党岐阜県大垣市議)と出会い結婚し、2人の子どもに恵まれました。彰夫さんと、いづみさんです。栄美さんは日本共産党員として、政治革新の事業に奮闘してきました。
栄美さんはこう結びました。「『国策』によって開拓団に駆り出され、財産も家族も奪われ、捨てられ人生を翻弄(ほんろう)された移民の苦しみに『終戦』はありません。そして私自身、その一端を担った“小さな侵略者”でした。いま再び日本は戦争に向かおうとしているように思いますが二度と繰り返してはいけない。侵略戦争の反省から生まれた憲法9条を守り抜かなければ」
この日、栄美さんの話を聞いたのは東京都立川市の立川相互病院の職員有志です。娘のいづみさんを招いて学習会を開き、準備してきました。栄美さんの証言を聞いた鈴木恒平さん(48)は「衝撃でした。性暴力はいまも戦争や紛争で繰り返されています。平和を築くためにも、戦争の実相を学ぶ必要がある」と話しました。(つづく)
満蒙開拓団 1931年、関東軍が「満州事変」を引き起こし、翌32年、かいらい国家「満州国」を設立しました。36年には100万戸の農業移民計画が「国策」となり、全国から約27万人が送られました。しかし「開拓」とは名ばかりで、多くの土地・家屋は現地住民からわずかなお金で買い取ったり、奪い取ったものでした。45年8月9日、ソ連軍が侵攻したとき、関東軍は、はるか南に撤退しており、青年男性の「根こそぎ動員」で、女性と子どもだけが残された開拓団は、武装した現地民やソ連兵に襲撃されました。終戦時、日本政府は居留民を現地にとどまらせる「棄民」方針を示し、帰還が遅れ、約8万人が死亡。多くの残留孤児・残留婦人を生み出しました。
(3面)

