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敗戦時、「性接待」強いた旧黒川村「満蒙開拓団」 岐阜・白川町黒川の遺族会 
乙女の犠牲 繰り返さないため語る

地蔵菩薩の「乙女の碑」と「碑文」(右端)を背に証言する安江菊美さん(左端)と、見守る藤井湯美子さん=岐阜県白川村黒川

「乙女の命と引き替えに 団の自決を止める為(ため) 若き娘の人柱 捧(ささ)げて守る開拓団」―。谷を曲がり下る渓流沿いに人家が点在する岐阜県白川町黒川。集落の中心にある佐久良太神社の境内に、この「詩」が記された「乙女の碑」の碑文が立っています。戦前、旧黒川村から旧満州(中国東北部)に満蒙開拓団が渡りました。敗戦後、現地民の襲撃やソ連兵の略奪・強姦(ごうかん)から逃れるため、団は未婚の女性をソ連兵の「性接待」に差し出しました。「詩」は犠牲者がつづったものです。戦後81年、いま引き継ぐべきものは―。(内藤真己子)

「戦争になれば、いつだって犠牲になるのは、声の小さな女であり子どもなんです。あんな思いはもう、誰にもさせてはいけない。戦争に向かわせないことが一番。とにかく戦争に向かわせないようにお願いします」。同集落で暮らす元開拓団員の安江菊美さん(91)は、取材に万感の思いを込めこう語りました。

旧日本軍が侵略戦争でつくったかいらい国家「満州」。そこに国策として27万人の「満蒙開拓団」が送られました。入植すれば関東軍に守られ20町歩の土地がもらえるとされましたが、土地や家屋は現地民から奪ったも同然のものでした。

旧黒川村では、1942年から44年にかけ吉林省陶頼昭(とうらいしょう)へ662人が渡ります。45年8月、ソ連が侵攻。関東軍は主力部隊がすでに南下しており、開拓団は置き去りにされました。男性は同年、根こそぎ現地召集され、残っていたのは一部を除き女性と子ども、高齢者だけでした。

15日敗戦。その2日後、熊本県から入植した近隣の来民(くたみ)開拓団二百数十人が、現地住民の一斉蜂起を前に集団自決します。黒川開拓団も一部の集落が襲われました。9月下旬には避難場所も包囲され、集団自決の瀬戸際に立たされます。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」の教えがありました。

そのなか黒川開拓団では「どうかして日本へ帰らなければ」という声が上がります。10代の青年が馬で現地人の包囲を突破、駐留するソ連軍に警護を頼みました。ソ連兵が来て現地人を追い払ってくれました。ところが今度はソ連兵が散発的に団を襲い、略奪や強姦を繰り返すようになったのです。団幹部はソ連軍将校と交渉し、安全と食料確保の見返りに、女性を性の相手として「接待」に差し出すことを決めました。

当時10歳だった菊美さんは証言します。「ある日、母親から『お風呂をたきなさい』と言われたんです。私は、久しぶりに自分たちが入れるのだと思って、本当に喜んで一生懸命にたきました。でも、そうじゃなかった。それは、ソ連兵の元へ行く娘さんたちが、身を清めるためのお風呂だったんです」

18年に建立された「乙女の碑」の碑文パネル

命落とした人も

犠牲を強いられたのは、数えで18歳から21歳の15人の未婚女性です。出征兵士の妻は、「夫に悪いから出せない」と外されました。性接待は9月下旬から11月ごろまで続きました。菊美さんは、その時の光景が今も目に焼き付いています。「ソ連兵は体がすごく大きくて、日本の女性は小さいから、本当に抱えるようにして門の外へ連れていきました。お姉さんたちはただただ黙っていました」

寒くなると避難場所の一画で「接待」が行われるようになりました。ベニヤ板で囲まれた部屋に10枚ほどの布団が敷き詰められ、仕切りもないなか一度に3、4人が犠牲になりました。終わると女性たちは隣接する「医務室」で「消毒薬」を薄めた液体を膣(ちつ)に流し入れられ、「洗浄」を受けたと言います。衛生兵と、犠牲を免れた17歳未満の女性がその係でした。

「女性たちは逃げたかったが『嫌だ』と言えず、交代でソ連兵の相手をさせられました。次々と性病に感染しても治療する十分な医薬品がない中、4人が性病や引き揚げの途中で命を落とされました」。旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会長の藤井宏之さん(73)は語ります。藤井さんは、2011年会長に就任するまで性接待の事実や、団幹部だった父親の三郎さん(故人)が「接待」に出る女性の呼び出し係だったことを知らされていませんでした。

「開拓団を守る」という「大義」のもと団幹部が性暴力の犠牲を強いた性接待。極限状態だったとはいえ、女性が男性の所有物のように扱われた戦前の家父長制のもと行われた犯罪的行為と言わざるを得ません。

映画「黒川の女たち」の上映後、観客と語り合う藤井宏之さん=東京都北区田端

差別と誹謗中傷

戦後、開拓団は451人が帰還します。しかし被害女性を待ち受けていたのは差別や誹謗(ひぼう)中傷でした。「ロスケ(ソ連兵)にやられた女」とレッテルを貼られたうえ、元幹部から「おまえたちは、ええことしたでええじゃないか」と心無い言葉が投げつけられたこともあったと言います。一方、厳しい箝口令(かんこうれい)が敷かれ性接待は秘密にされてきました。被害女性は定期的に集まって交流し励まし合ってきました。取材を受け告発を続けて来た人もいます。

4代目遺族会会長に就任した藤井さんは、いとこの菊美さんから「乙女の碑」と題した「詩集」のコピーを見せられます。犠牲者の一人、安江善子さん(故人)が1990年に記したものでした。記事冒頭の詩には、「ベニヤ板でかこまれた元本部の一部屋は悲しい部屋であった 泣いてもさけんでも誰も助けてくれない お母さん々の声が聞こえる」と、赤ペンで書き込みがされていました。

「消してはならぬ灯火を この世に命ある限り 語りて伝えよ戦争の 悲惨さ辛(つら)さ哀れさを」。苛烈な体験を率直に綴り加害の伝承や平和を願う詩の数々。藤井さんは「この詩を掲げる場所が必要だ」との思いを強くしていきます。犠牲者の一人で、交流があった水野たづさん(故人)からも「あの詩をみれば全部わかる」と聞かされました。

加害を明記して

13年、長野県下伊那郡阿智村に開館した「満蒙開拓平和記念館」の「語り部」講演で、佐藤ハルエさん(故人)と、安江善子さん(同)が相次いで被害を実名で告発、多くのメディアに取り上げられるようになっていきます。実は佐久良太神社には、性接待で性感染症にり患し、現地で命を落とした4人の女性を悼む地蔵菩薩(ぼさつ)・「乙女の碑」が1982年に建立されていました。しかし由来を示すものはありませんでした。

詩を綴った安江善子さんは2016年帰らぬ人となります。藤井さんは、前会長の強い反対を押し切って碑文の建立を決意し、18年11月に成し遂げます。団幹部が女性に「『接待役』を強いた」と明記。満州事変を「武力侵略」とし、開拓団の入植地は武力を背景に強制接収されたものと加害の側面も明示しました。

藤井さんは除幕式で被害女性や遺族に謝罪します。「若き女性たちの取り戻すことができない奪われた青春と、引き揚げ後の誹謗中傷された長い年月に、第四代遺族会会長として誠に罪深い思いをさせてしまったと深くおわび申し上げる」

藤井さんは振り返って語ります。「黒川開拓団は性暴力をさせた方なので、被害者の気持ちを考えれば謝罪が一番先だと思いました。それをぼかすから被害者を追い詰めていく」。除幕式に出席した善子さんの夫の慎吾さんから「やっと胸のつかえが取れた」と言われました。「そう言っていただいたのは一番の喜び。間違いじゃなかったなと思った瞬間だった」。

昨年は回復に歩み出した女性の姿を描いた映画「黒川の女たち」(松原文枝監督)が話題を呼びました。

藤井さんは白川町の町議会議長を務めます。自民党員です。「この悲劇を忘れてしまうと、再び戦争が勃発するかわからない。平和について、学び伝えることが必要です。国際緊張も、人の幸せを祈る気持ちで話し合いをすることがすごく大事だと思います」と訴えます。