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- くらし家庭
- 2025.12.03
伝統工芸を生きる(6)有田焼陶工 14代目・李参平 金ケ江三兵衛さん
朝鮮からの技術に敬意込め 佐賀県有田町 2025年12月2日付【くらし】
高い技術を誇り、ドイツのツヴィンガー宮殿や、フランスのベルサイユ宮殿にも飾られている有田焼(伊万里焼とも)。その陶祖・李参平の子孫として陶工の道を歩む、金ケ江(かながえ)三兵衛さん(64)を佐賀県有田町に訪ねました。(手島陽子)
白い素地に鮮明な赤や淡い青、金色などを施した美しい有田焼。日本最初の磁器でもあります。
豊臣秀吉の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)に加わった鍋島藩主が、陶工たちを李氏朝鮮から連れてきたことから、日本の磁器は始まりました。陶工らのリーダー・李参平は、現在の佐賀県多久市で陶器を焼き始めました。

14代李参平 金ヶ江三兵衛さん
「李参平という名は、明治期の学者によってつけられたんです。史料が焼失し、実際の朝鮮名はわかっていません」と語るのは、14代目・李参平こと、金ケ江三兵衛さん。「金ケ江」は、鍋島藩から与えられた姓です。李参平は金ケ江三兵衛という日本名を名乗り、子孫も代々、金ケ江姓で日本人として暮らしてきました。
日本初の磁器
初代・李参平は、磁器を焼きたいと考え、鍋島藩内で、原料となる陶石を探し回りました。ついに泉山磁石場(国指定史跡)で発見し、日本初の磁器が焼けるようになったのです。これが有田焼の興りとなりました。
李参平は登り窯を造り、磁器土を作る人、陶磁器の形を作る人、絵付けをする人、窯を焚(た)く人など、大勢が関わる分業体制をつくりました。
当時、ヨーロッパは磁器を中国から輸入していましたが、内乱により景徳鎮からの入手が難しくなりました。このため、オランダ東インド会社は、有田焼に着目し、ヨーロッパに輸出するようになったのです。
一方、李参平の子孫は、4代目で窯元としての生業(なりわい)が途絶えてしまいます。金ケ江家は長い年月、窯元以外で生計を立てることとなりました。金ケ江三兵衛さんの父も、最初は国鉄職員でした。「このままでは先祖にも子孫にも申し訳ない」と定年後、13代・金ケ江三兵衛として陶工の道に踏み出したのです。
韓国との交流
そして、いまの金ケ江三兵衛さんの代で、李参平を襲名しました。「昔は、朝鮮への差別があったと

登り窯で焼いた瓶
聞きますが、有田の人たちは李参平が来たことで町が栄えた、という敬意の念を持ってきました。約100年前に李参平碑を建立し、陶祖祭を行い、20年ほど前からは韓国の陶芸関係者も大勢参列しています」と金ケ江さん。この夏は、民団(在日本大韓民国民団)の招待で韓国大統領との会食に列席するなど、韓国との交流も盛んに行っています。
若い頃、「初代と同じ韓国の土で作ってみたい」と3カ月間、韓国で陶作にふけったこともありました。その後も各地におもむき、「国境なき陶工」として技術に磨きをかけてきました。絵付けは、妻の金ケ江美里さんが担っています。
有田焼の多くの窯元が熊本の天草陶石を使っていますが、金ケ江さんは、泉山の陶石を使っています。「泉山陶石は粘り気がないので作りにくいのです。鉄分も少し混じるので、真っ白にはならず、少し青みがあったり、黒い点が入ったりします」
有田焼は、古伊万里様式、柿右衛門様式、鍋島藩窯様式の三つの様式が知られています。「ここには技術の高い窯元や、柿右衛門などの高い技術を受け継いだ名のある家系の窯元がいます。その中で私は、初代がどのように泉山陶石で焼いたのかを探求していきたいのです」。いまも年2回、登り窯で焼成します。
「有田焼の伝統は、技術を伝えた朝鮮からの陶工がおり、先人陶工たちが技術を磨き、作られてきたものなんです」。400年の時を超え、朝鮮から技術を継承した人々に敬意を込めて、李参平の名は復活したのです。(月1回掲載)

