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2022年10月23日号

日本共産党 なぜ100年続いたか

記念講演の核心 志位さんが語る

 日本共産党の志位和夫委員長が9月に行った党創立100周年記念講演「日本共産党の100年の歴史と綱領を語る」。動画再生数も18万回を超えるなど反響を呼び、パンフレットも発売されました。日曜版の山本豊彦編集長と竹本恵子副編集長が読みどころをズバリ聞きました。


志位委員長

撮影・細川豊史記者

 竹本 記念講演に大きな反響がありますね。

 志位 市民と野党の共闘にともに取り組んできた方々、識者、ジャーナリストなどからも“不屈の歴史に感動した”という評価をいただきました。

 率直に言って、記念講演はいつもより長く、難しいところもあります。“最後まで読んでもらえるだろうか”という不安もありましたが、寄せられた感想をみると「読みだしたら止まらなくなった」「すごい歴史をもつ党に参加できて誇りを持った」など、若い方から年配の方まで受け止めていただいているのは、とてもうれしいことです。

先人たちのたたかいを敬意こめて未来に伝える

 竹本 今回の講演はどんな思いでまとめたのでしょうか。

 志位 今の日本共産党のたたかいは、今をたたかう私たちだけのものではありません。それはこの100年間の多くの先人たちのたたかい、支援してくださった多くの国民に支えられてのものです。この事業に生涯をささげて亡くなった多くの先人がいます。亡くなった方々はもう語ることができません。生きているものが未来に伝える責任があります。

 先人たちの思い、そのたたかいを、敬意をこめて未来に伝える。それが党史を語る意味ではないか。そういう思いで準備しました。

 竹本 講演を聞きながら、志位さんもそうでしょうが、私もいろんな先輩たちの顔が浮かび、ぐっときました。

 志位 私も多くの先人たちの顔を思い浮かべながら準備にあたりました。党創立100周年に、委員長の職責にあるものとして、講演を準備すればするほど未来につなぐ責任の重さを痛感しました。やるからには全力をあげて良いものにしなければという覚悟で取り組みました。

党史貫く「三つの特質」が意気軒高に頑張る秘訣

 竹本 講演は「なぜ日本共産党は100年続いたのか」という問いに答える形で「三つの特質」について語っています。

 志位 党創立100周年にさいして、いくつかのメディアから“なぜ100年続いたのか”と問われました。これは大切な問いです。確かに、一つの政党が100年間も続き、未来に向けて意気軒高に頑張っている。それ自体が値打ちがあることだと思います。

 竹本 日本では他にそういう政党はないですね。

 志位 その通りです。私は、この問いへの回答として、日本共産党は党史を貫く「三つの特質」をもっている、それが100年続いた秘訣(ひけつ)だとお答えしたんです。

 一つは、どんな困難があっても国民を裏切らず、社会進歩の大義を貫く「不屈性」です。二つ目は、科学的社会主義の立場でつねに「自己改革」に取り組んできたことです。三つ目は、「国民との共同=統一戦線」の立場で政治を変える立場です。この三つを貫いてきたからこそ100年間続き、元気で頑張っている。

 山本 そのやりとりが記念講演につながったと。

 志位 はい。党の時系列的な通史は、いま編さんを開始している「100年史」で明らかにするつもりです。通史は「100年史」にまかせて、記念講演では、「三つの特質」という整理で、思い切って自由に語ってみたいと考えました。

 山本 記念講演では、過去と現在を行き来して、縦横に語っているという感じがしますね。

 志位 「三つの特質」という整理をしますと、そのそれぞれで、過去の歴史を語りながら、それが現在のたたかいに生きていることを自由に話すことができます。過去と現在を自由に往復できる(笑い)。そして、未来に向けても、これらの特質はさらに発展させ、引き継いでいきたいと考えています。

不当な反共攻撃に対する総決算的な回答がここに

 竹本 志位さんは、記念講演の前の記者会見(9月15日)で、「記念講演では、不当な攻撃に対する私たちの回答も行うつもりだ」と語っています。

 志位 日本共産党の100年を、事実にそくして論じるというのではなく、使い古しの「反共」の“色メガネ”をかけて、あるいは「反共」の“型紙”にあわせて党を論じるものが数多くありました。メディアの報道や学術書の体裁をとった攻撃など、その形もさまざまです。

 記念講演は、この間行われてきた、党の歴史と綱領に対する事実に基づかない非難と中傷に対する総決算的な反撃を行うことを念頭に組み立てました。そのさい、いちいち個別の論者やメディアをとりあげるのではなく、党の歴史と綱領の真の姿を語ることで、根底的な反撃を行おう。こういう決意で記念講演を準備しました。

 山本 確かに痛快な反撃が各所にでてきますね。

 志位 そういう“設計”にしたつもりです。(笑い)

 戦前の日本共産党のたたかいでは、天皇絶対の専制政治と正面からたたかった歴史的意義を見ずに、あれこれの弱点をあげつらう攻撃があります。戦後のたたかいでいえば、米国の対日支配と正面から対決する日本共産党に、“日米安保条約容認に転換しなければいつまでも政権はとれない”といった“変節”をすすめる攻撃があります。「無謬(むびゅう)主義=誤りを認めない党」「上意下達の党」「暴力革命の党」といった攻撃もあります。

 どれも使い古された攻撃ですが、記念講演では、それらに対して、「三つの特質」にそくして党の生きた歴史を押し出しながら、私たちの断固たる回答をのべました。

 山本 これからは日本共産党を批判するときには、記念講演をよく読んだうえでといいたいですね。(笑い)

 志位 “色メガネ”はそろそろはずして(笑い)、事実にもとづく日本共産党論が広がることを期待したいと思います。

不屈性

宮本顕治・宮本百合子の互いに高め合った「12年」

顕治と百合子

1948年の顕治と百合子(『写真集宮本百合子』から)=田村茂撮影

 山本 記念講演は、壮大な叙事詩のような展開で語られています。1933年に逮捕され45年に解放されるまでの宮本顕治(元議長)と、その妻・宮本百合子(作家)の「12年」のたたかいについて、多くの共感の声が寄せられています。

 志位 宮本顕治さんは、私自身、ともに活動させていただき、多くのことを学んできた、深く尊敬している大先輩ですが、宮本百合子さんとの「12年」を「戦後の新しい社会を準備する豊かな営み」として紹介させていただきました。

十二年の手紙

宮本顕治・宮本百合子『十二年の手紙』

 ジェンダー平等にも情熱をもって取り組んでこられた弁護士の角田由紀子さんは、このくだりを読んで、「顕治と百合子の関係は、家父長制の社会にありながら憲法24条の対等・平等の夫婦関係の先取りであったと思う。…2人の敬意で結ばれた関係とその絶え間ない高め合いの実践が24条に結実していると私には思えてならない」(「赤旗」日刊紙、1日付)と評してくださいました。本当にうれしい、また私自身もハッと気づかされる指摘です。

 竹本 志位さんは、「人格を互いに尊重しあい、互いに支えあう2人の姿は、当時の時代的条件のもとで、抜きんでたものといえるのではないでしょうか」と語っていますね。

 志位 顕治と百合子の関係について、顕治の援助や助言を受け止めて百合子が大きく成長したという角度からの研究がたくさんあります。それはその通りだと思うんですが、同時に、百合子の援助・参加なくしては顕治の獄中闘争・法廷闘争はあり得なかった。この面も強調されるべきことです。2人の関係は、人格を互いに尊重しあう相互的なものだった。その両面をとらえてこそ、本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。

 竹本 よくわかります。相互的なものだったというとらえかたは、若い人にも響くと思います。

沖縄のたたかいは党史に太く書かれるべきもの

瀬長亀次郎さん

祖国復帰要求県民総決起集会での瀬長亀次郎さん=1966年4月28日

 山本 戦後のたたかいでいえば、今回、沖縄人民党(のちに日本共産党に合流)とそのリーダーだった瀬長亀次郎さん(日本共産党元副委員長)のたたかいに焦点をあてていますね。

 志位 私たちの党史において沖縄のたたかいをどう位置づけるかは、きわめて重要な問題です。二つの点を言いたい。

 一つは、異常な対米従属体制を変革するたたかいは、全国どこでもたたかわれてきましたが、その矛盾と苦しみの集中点に位置し、たたかいの最前線で苦闘してきたのが沖縄だということです。

 もう一つは、沖縄のたたかいは、祖国復帰を実現したという点では、歴史が一つの決着をつけたたたかいだということです。米軍基地の重圧はなお極めて重大な問題ですが、祖国復帰が実現したという点では、戦前の日本共産党のたたかいが戦後の日本国憲法に実ったのと同じように、歴史が一つの決着をつけたたたかいなのです。

 こうした意味で、沖縄のたたかいは、党史に太い文字で書かれる必要があると思います。

 竹本 瀬長亀次郎さんの姿が生き生きと描かれています。

 志位 入手可能な瀬長さんの著作をあらためて読んでみました。瀬長さんが、島ぐるみの団結の要になった「不屈」の政治家だったということは、よく知られていることです。その姿はいまなお、党派を超えて沖縄県民の深い尊敬を集めています。

 同時に、瀬長さんは、「科学の力」で沖縄と日本の前途を見通す「先駆性」を発揮した理論家だったということが、私の強い印象でした。(1)祖国復帰(2)沖縄を日本から永遠に分離するとしたサンフランシスコ平和条約3条の廃棄(3)日米安保条約の廃棄―これらはどれも沖縄人民党と瀬長さんが最初に言いだしたことです。それはやがて革新勢力の共同のスローガンとなり、本土復帰という歴史を動かす力となっていきました。

 山本 「不屈」であるとともに「先駆性」を発揮した。

 志位 そうです。それが沖縄人民党と瀬長亀次郎さんのたたかいであり、日本共産党との合流は必然的に起こったことでした。

自己改革

自主独立、党綱領路線の発展は“自己改革の壮大な連続ドラマ”

 山本 記念講演は、日本共産党に対する「無謬主義の党」という攻撃に対して、「これほど事実に反する、的外れの攻撃はない」として、さまざまな誤りや歴史的制約に誠実に正面から向き合って、つねに自己改革を続けてきたことにこそ、「最大の生命力」があると強調しています。

 志位 はい。自己改革の中でも最大のものは自主独立の路線を打ち立てたことです。1950年に旧ソ連のスターリンと中国によって武装闘争を押し付ける乱暴な干渉が行われ、党が分裂に陥りました。干渉に呼応してつくられた分派により、武装闘争方針の日本への流し込みが行われました。これを私たちは「50年問題」と呼んでいます。この時、干渉に反対し、党の分裂を克服して統一を実現するたたかいの先頭に立った宮本顕治さんは、のちに「日本共産党史上、最大の悲劇的な大事件だった」と言っています。

 そういう大きな誤りを克服していく過程で、わが党は、自主独立の路線―日本の党と運動の問題は、日本共産党自身がその責任で決定し、いかなる外国勢力の干渉も許さないという路線を確立していきます。

 竹本 「禍(わざわい)転じて福となす」ということわざ通りになっていった。

 志位 そうですね。党にとっての最大の禍から、世界でも他に類を見ないような自主独立の路線を引き出した。この自己改革ができなかったら、その後の日本共産党はなかったでしょう。私は、先人の勇気と理性に強い敬意を覚えます。

 日本共産党は、自主独立の路線を土台に、61年に党綱領をつくり、大きな発展を勝ち取っていきます。そこには“自己改革の壮大な連続ドラマ”があることをぜひ知ってほしいと思います。

 山本 “連続ドラマ”ですか。

 志位 そうですね。自主独立の路線と、61年綱領を決めたことを土台にして、その後の60年余、党は、いろいろな分野で綱領路線の大きな理論的・政治的発展をかちとっていくんです。それは国際的に「定説」とされたことを次々に乗り越えていく、目覚ましい自己改革のドラマチックな連続でした。

綱領路線は、生まれも育ちも「暴力革命」とはまったく無縁

記念講演

記念講演する志位和夫委員長=9月17日、党本部

 山本 記念講演では、“議会の多数を得ての革命”―選挙で国民の多数の支持を得て平和的に社会変革を進める路線が、どのように形成、発展してきたかを明らかにしていますね。

 志位 「50年問題」で引き起こされた最も深刻な誤りは、党を分裂させた分派が、干渉者のいうままに武装闘争方針を押し付けたことにありました。わが党は、この誤りを掘り下げて検討し、61年綱領で、議会の多数を得て平和的に社会変革をすすめるという大方針を打ち立てていきます。記念講演を準備する過程で、そこにいたるプロセスを、あらためてつぶさに調べてみました。

 わが党は、55年に「第6回全国協議会」を開きます。この会議は、まだ不正常な会議で、内容面でもさまざまな問題点がありましたが、ともかくも党の統一回復への一歩を踏み出した会議でした。この「6全協」から、党が全面的に統一を回復する58年の第7回党大会までの3年間は、混沌(こんとん)とした状況から、現在の党の路線の土台が形づくられていく、きわめて重要な「生成期」ともよべる時期だと思います。

 山本 記念講演では、56年6月の中央委員会総会(「6全協」・7中総)が重要な契機となったと言っています。

 志位 そうです。この中央委員会総会の決議で、「議会を通じて平和的に革命を行うことが可能になった」ことを明記するとともに、分派がつくった武装闘争の土台となった文書(「51年文書」)をきっぱり否定しました。そして、次の党大会に向けて新しい綱領をつくろう、そのための討議を始めようということを正式に決めるのです。この決議が出発点となって、足かけ6年間にわたって全党で綱領論争が行われ、61年の第8回大会で綱領が確定しました。このように、武装闘争方針の否定こそが、“議会の多数を得ての革命”という現在の綱領路線を確立する出発点だったのです。

 その後、“議会の多数を得ての革命”の路線は、武装闘争を押し付けようとした中国・毛沢東派との論争を通じて、豊かに発展させられていきます。わが党は、この路線が、マルクス・エンゲルスの革命論の大道に位置づけられていたことを明らかにして、中国の干渉攻撃を断固としてはねのけていきました。

 竹本 党の綱領路線は、生まれも育ちも「暴力革命」などとはまったく無縁だと。

 志位 その通りです。生まれも育ちも、です(笑い)。どんなに公安調査庁が妄想をたくましくしても(笑い)、「暴力革命」の証拠などは出てこようはずもありません。

ソ連の体制への徹底的批判が未来社会論の発展につながった

 山本 自己改革という点では、綱領の社会主義・共産主義論―未来社会論の発展史もたいへん印象的でした。

 志位 そうですね。それまで国際的な「定説」とされていたのは、「能力におうじてはたらき、労働におうじて受け取る」(社会主義段階)から、「能力におうじてはたらき、必要におうじて受け取る」(共産主義段階)に発展していくという生産物の分配方式を中心とする社会主義・共産主義論でした。でもこれでは社会主義・共産主義のもつ「人間の自由」「人間の解放」という壮大な魅力が伝わってこない。

 竹本 私も、生産物をありあまるほど受け取るのが理想社会では、ちょっと寂しいという感じがしていました。

 志位 そうですね。わが党は、2004年の第23回大会で行った綱領改定で、こうした議論を大胆に乗り越え、「生産手段の社会化」を社会主義的変革の要にしっかりとすえるとともに、「すべての人間の自由で全面的な発展」というマルクスの未来社会論の真の輝きを発掘し、綱領にすえました。

 それでは、この画期的な理論的発展をどうやってかちとっていったのか。

 その経過をあらためて調べてみますと、その出発点は、崩壊したソ連の体制の徹底的な批判的分析にありました。1994年の第20回党大会で、私たちは、崩壊したソ連の体制は、対外的な覇権主義だけでなく、国内体制としても社会主義とは無縁の人間抑圧型の社会だったという認識に到達します。

 そうなると、本来の社会主義とは何かが、より根源的に問われてくることになりますね。それをマルクスの『資本論』やその草稿の研究から明らかにしていくなかで、未来社会論の画期的な発展をかちとっていったんです。

 竹本 偶然、発掘に成功した(笑い)、というものではないんですね。

 志位 そうです。もちろん、この理論的発展を達成するうえで、不破哲三さん(前議長、現社会科学研究所所長)が果たした役割はたいへんに大きなものがあります。同時に、たまたま不破さんという優れた理論家がいたために発掘に成功したというだけではなく、ソ連の体制への徹底的批判が、未来社会論の発展につながっていった。そこには必然性が働いています。ソ連覇権主義との全党のたたかいが、未来社会論の豊かな発展を生みだしたということが言えると思います。

民主集中制は体験から生みだされ発展してきた「日本製」のもの

第28回党大会

第28回党大会(2020年1月)の議案は2カ月半にわたり全党で
討議され、大会(5日間)での討議(写真)を経て採択された

 山本 記念講演では、党の活動と組織のあり方でも、自己改革を重ねてきたことがのべられています。

 志位 この問題でも大きな自己改革を行ったのが「50年問題」でした。なぜソ連・中国による干渉によって、党の分裂という事態に陥ったのか。その根の一つに、一部の党幹部の独断専行でことを決めるという反民主的な気風がありました。

 その痛苦の経験を踏まえ“民主的な討論を尽くして決め、決めたことはみんなで統一して実践する”―民主集中制の原則がどんなに重要かを教訓として引き出したのです。わが党の民主集中制の原則は、外国のどこかから持ち込まれたものではなく、党自身の体験のなかでつくられ、発展してきた「日本製」のものなのです。

 2000年の第22回大会の規約改定では、日本共産党と日本社会の関係の新しい発展にそくして、党の組織と運営の民主主義的な性格をいっそう発展させました。それまでは民主集中制を「民主主義的中央集権制」とも表現しましたが、「中央集権制」という表現もこの時、削除しました。“「民主」というのは党内民主主義、「集中」というのは統一した党の力を集めること”とその意味もはっきりさせました。

 竹本 近代政党として当たり前のことですね。

 志位 そうです。記念講演では、政党の最高意思決定機関である党大会を、日本共産党が2カ月以上の全党討論を踏まえ、どんなに民主的に開いているかを、自民党の“たった2時間、討論なし”の党大会(笑い)と対比して紹介しました。

 「上意下達の党」「閉鎖的な党」などという日本共産党攻撃は、わが党の民主的運営の生きた姿を見ようとしない独断と偏見に満ちたものといわなければなりません。

国民との共同=統一戦線

三つの躍進の教訓ふまえ 党の実力をつけて躍進を

 山本 記念講演は、61年綱領確定後の60年余の「政治対決の弁証法」を大きなスケールで描いています。

 志位 この60年余を振り返りますと、日本共産党が躍進した三つの時期があります。この三つの躍進のなかでも「第一の躍進」―60年代末から70年代いっぱいまで続いた躍進は、60年代に全党が営々としてとりくんだ「強く大きな党」づくりの前進という強固な土台のうえに築いた躍進でした。いうならば「勝つべくして勝った」。これが「第一の躍進」だったということが言えると思います。

 それと比較した場合、90年代後半の「第二の躍進」、2010年中頃の「第三の躍進」は、それぞれ重要な意義をもつ躍進でしたが、残念ながら「強く大きな党」づくりという点では実力が伴っていませんでした。私自身、書記局長、委員長として、2回の躍進を経験しましたが、この時に実力をつける仕事をやり切れなかったことは、率直に言って大きな反省点なのです。

 そういう歴史的経験を踏まえて、もう一度、60年代の初心に立って、「強く大きな党をつくり、その力で選挙に勝ち、さらに強く大きな党をつくる」という法則的な発展―「第一の躍進」のような躍進を今度こそかちとろうというのが、記念講演の呼びかけなんです。

どういう状況でも条件に即したベストの統一戦線を探求していく

全国革新懇結成総会

全国革新懇の結成総会。意見発表する宮本顕治委
員長(当時)=1981年5月、東京・東急文化会館

 志位 もう一つ、記念講演でお話ししたのは、「国民との共同―統一戦線」に対する私たちの姿勢です。

 統一戦線というのは相手がある。攻撃もある。どうしても山あり谷ありになります。しかし、日本共産党はどんな難しい状況の中でも状況に即して、統一戦線を発展させてきました。

 たとえば、1980年、日本共産党排除の「社公合意」が交わされたさいには、革新懇運動にとりくんだ。2000年代には、「九条の会」など「一点共闘」にとりくんだ。こうした努力が、15年以降の市民と野党の共闘の土台になっていきました。

 いま私たちは、市民と野党の共闘の再構築のために努力しています。ぜひ成功させたいと思っていますが、相手がある話ですから、先がどうなるかはわかりません。しかし“どういう状況でも、与えられた条件のもとでベストの形で統一戦線を探求していく”―これが日本共産党の立場であり、この60年余、この立場を貫いてきたし、今後もそれはブレることなく貫く。この決意を記念講演に込めました。

「四つの巨大変化」生かす党建設の緊急性・可能性

 山本 記念講演では「強く大きな党」をつくる緊急性と可能性を力説しています。

 志位 はい。二つの点を強調したいと思います。

 一つは、今の日本の情勢は、大局的には、新しい政治を生み出す「夜明け前」だということです。この60年余、日本共産党が躍進するたびに、支配勢力は反共と反動のくわだてで対抗してきましたが、その一歩一歩が、暮らし、平和、民主主義を壊し、自らの支配基盤をもろく弱いものにしています。大局的・客観的に見るならば、日本の政治は新しい政治を生み出す「夜明け前」になっていると言ってもよいのではないか。

 もう一つ、記念講演では、わが党の党勢(党員、「しんぶん赤旗」読者)が60年代中頃の水準にあると率直に報告しつつ、60年代中頃と比較した場合、「四つの巨大な変化」があることを明らかにしました。

 ―綱領路線が豊かに発展していること。

 ―自民党政治がいよいよ行き詰まっていること。

 ―日本共産党の政治的影響力の大きさ。

 ―国際政治で、一握りの大国から、世界の多数の国ぐにの政府と市民社会へと“主役交代”が起こっていること。

 これらの「巨大な変化」を考えれば、「強く大きな党」をつくる条件は大いにあります。それに挑戦しようというのがこの記念講演の一番の呼びかけです。

 「赤旗」日曜版読者のみなさんにもぜひ、記念講演を読んでいただいてこの機会に日本共産党に入ってほしいし、「赤旗」を広げてほしいとお願いしたいと思います。

 山本・竹本 ありがとうございました。

記念講演パンフレット

 日本共産党創立100周年記念講演のパンフレット『日本共産党100年の歴史と綱領を語る』(日本共産党出版局)ができました。講演の全文は党のホームページでも読むことができ、講演の動画を見ることもできます。

記念講演パンフレット

B5判40ページ、税込み定価290円

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