2006年10月31日(火)「しんぶん赤旗」

第39回 赤旗まつり

青空寄席に最多出演 林家正雀さんに聞く

お客と演者の一体感


 毎回熱心なファンが集まる赤旗まつりの青空寄席。最も長く出演しているのは、最終日(五日)のトリを務める落語家、林家正雀(はやしや・しょうじゃく)さんです。青空寄席の思い出や、今回の意気込みを聞きました。


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 ――正雀さんと赤旗まつりとのかかわりはいつごろからなんですか。

 わたしが赤旗まつりに初めて行ったのは、もう三十年以上も前になりますかねぇ。人情噺(ばなし)系統が好きなんで、高校生のときから目指すところとしていた師匠、林家正蔵(のち彦六、故人)に入門したのが一九七四年の二月でした。その年の秋に、第十六回赤旗まつりの青空寄席にお供で行ったんです。次の年は出演させていただいて、それから毎回です。

 ――当時の青空寄席の印象は?

 わぁーっという熱狂的な歓声ですね。うちの師匠が登場すると、お客様が興奮なさる。師匠も、「お客さんがオレを拍手と歓声で待ってるんだ」という期待でね、楽しみだったんでしょう。演者とお客様とが、同じ思いで一体化していたんですよ。

 うちの師匠は、赤旗まつりには特別な思いがあったんでしょうねぇ。青空寄席の始まった第四回赤旗まつり(六二年十一月)から出演してましてね。それから、亡くなる前年の第二十二回赤旗まつり(八一年五月)まで、都合がつかなかった一回を除いてずっと出演していたんです。

 あの一体感はいまも引き継がれていますね。歓声で、演者を出迎えるのは変わらない。後を引き継いで青空寄席を支えてきた柳家小三治師匠や入船亭扇橋師匠が出ると、やっぱりおんなじだと思うんですよ。

怠けると負ける青空寄席

 ――現在出演されている方々の中では、正雀さんが一番長い出演歴です。その間にはいろいろなことがありましたね。

 楽屋を会場にしたときのことを覚えてますよ。第三十回(九〇年)ですか。えらい嵐でね。でも、中止にするのはもったいない。聞きたいお客様もいらっしゃる。何人かでも楽屋用のテントに入ってもらってやろうと思ったんですよ。われわれの休む場所なんていらないよと。

 そしたら大勢来てくださり、ぎゅうぎゅう詰めだった。条件が悪いなかで最善の努力をさせてもらいました。枕(本題に入る前の小話)の一言目は、「落語はテントに限ります」でした。あれは実に、いい雰囲気でした。

 ――第三十五回(九七年)では、扇橋さんが人情噺の「文七元結(ぶんしちもっとい)」を演じ話題になりました。

 あの噺は長くて骨が折れますからねぇ。よっぽど集中しないとやれません。野外でなんてぇのは普通はない。それが気がついたら話し始めていたんでしょう。演者の腕ももちろんですが、なんといってもお客様の雰囲気がやらせてくれたんでしょうねぇ。

 ――正雀さんから見た青空寄席とは?

 こわいですね。自分の力を存分に発揮しないとお客様が満足してくれない。「あっ、ちょっとくたびれているな」とかね。お客様は噺家の一挙手一投足までをみている感じです。青空寄席は野外だし、広いのに、狭い会場のような怖さがあるんですよね。

 それから、青空寄席は、構成が「本寸法(ほんすんぽう)」です。噺家ばかりじゃなくて、「色物(いろもの)」と呼ばれる漫才や曲芸などがちゃんと入っているんですね。落語ばかりじゃ、肩がこる。計算され、よくできた番組です。種類の違う笑いがちりばめられているのがいいじゃないですか。

 ――今回の抱負と読者へのよびかけを一言。

 とくにあの会場はほんとにお客様と演者の戦(いくさ)みたいなもんですから。怠けると負けてしまいます。また、青空寄席でたたかいたいなと。

 うちの師匠が、「新しいことに挑戦していれば、世の中が変わっても怖くない」という言葉を遺(のこ)したんですね。亡くなる前年ごろから折に触れては申していました。いま新しい試みとして、新内の岡本宮之助さんと共演する作品を年に一作つくるのを自分の枷(かせ)にしているんですが、その根底にも師匠の言葉があります。それを常に思ってわたしは駆りたてられているんです。

 最近はとくに噺に夢中になっていましてね。燃えているんです。まぁ、まつり最終日の五日までは、きっとこの夢中さは続いているでしょう。ですから、ぜひ聴いていただきたい、ご期待いただきたいとの思いです。


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