2006年10月24日(火)「しんぶん赤旗」

中越大震災

悲しく苦しい2年

合同追悼式 復興へ決意新た


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(写真)中越大震災2年 中越大震災の発生した時刻に集い、犠牲になった人々を追悼、復興への決意を新たにする遺族や関係者=23日、新潟・長岡市妙見の土砂崩壊現場

 死者六十七人、負傷者約四千八百人を出した新潟県中越大震災から二十三日で二年を迎えました。長岡市では同日、県と七市町による合同追悼式が行われました。遺族ら関係者約千人が参列し、復興への誓いを新たにしました。

 合同追悼式では、二千本の白い菊で作られた祭壇の中央には、亡くなった人の数と同じ六十七本のろうそくが飾られました。亡くなった人に黙とうし、仮設校舎や避難先の小中学校に通う旧山古志村(現長岡市)や太田地区の子どもたちが童謡「ふるさと」を合唱しました。

 旧山古志村で妻と長男を失った畔上(あぜがみ)守二さん(77)が、「この二年間は悲しくもあり、苦しくもあり、さまざまな気持ちが交錯するなか、時には無力感すら感じることもありましたが、私たちは着実に復興してきています。亡くなられた方々の分まで未来に向けて力強く歩んでいくことを、あらためてここに誓いたい」と遺族を代表してあいさつしました。

 子どもたちの合唱に目を赤く腫らしたのは、魚沼市の女性(71)。夫=当時六十八歳=を、地震の一週間後にエコノミー症候群で亡くしました。「歌が大好きで明るい人だった。思い出して寂しくなった」と語りました。

 山古志村の職員だった星野恵治さん=当時三十二歳=は、地震直後、「ふるさと」の復興を信じ、毎日数時間かけて村に入り、水道管の点検に奔走していました。二カ月後の十二月二十二日、帰宅途中に交通事故で亡くなりました。父(64)は「過労だった。非の打ちどころのない息子で、農業についてすべて伝えていた」としのんでいました。

 追悼式には日本共産党の地方議員も参列しました。

優太君救出現場追悼式に遺族ら

 皆川優太くん(4っ)が奇跡的に救出された長岡市妙見町のがけ崩れ現場では夕方、県主催の「追悼と復興への誓い」が行われました。優太くんの祖父の敏雄さん(70)ら遺族や県関係者など三十六人が出席しました。

 参列者が地震で亡くなった人と同じ数のキャンドルを点灯。地震発生時刻の午後五時五十六分には、出席者全員で一分間の黙とうをしました。優太くんが救出された現場に向けて作られた献花台には、「新潟県中越大震災犠牲者名簿」が置かれ、遺族らが献花し手を合わせていました。


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