2006年8月10日(木)「しんぶん赤旗」
長崎市平和式典
息子の命 放射線が奪った
被爆者代表 中村キクヨさん(82)
未来永劫 戦争いらない
あの日と同じような炎天下の九日、しめやかに開かれた長崎市の平和式典。長崎に原爆が投下された午前十一時二分、長崎の鐘とサイレン、「原爆を許すまじ」の音色が流れるなか、参列者が黙とう。被爆者代表として中村キクヨさん(82)が「平和への誓い」をのべました。
「この日を、人々はけっして忘れ去ってはなりません。『長崎を世界で最後の被爆地に!』との、核も戦争もない平和な世界をつくろうという切なる、そして強い意志が込められている」
凛(りん)とした声で語りはじめた中村さん。
女学校を卒業すると同時に軍需工場に動員され、日の丸の鉢巻きをしめて一日一食だけで働きました。夫は戦地に、新婚生活も青春時代の楽しみもなく働いていた、その日のことでした。
空襲警報解除の知らせを聞き、家で生後一カ月の長男を寝かしつけ物干しに洗濯物を広げていたときです。
少し暗くなったのにキラキラするような光を感じて、見上げた瞬間。ゴォーという地鳴りと、ものすごい強風で吹きとばされました。
爆心地から山越えした五・八キロも離れた旧小榊村での被爆でした。
中村さんはその日から息つく間もなく重傷者の救護に追われます。前途ある多くの学生が全身やけどに苦しみ、のどをかきむしりながら「水をください」と叫ぶ姿に「この世の地獄をみました」と静かに語りました。
三年前、五十五歳になった被爆二世の二男が白血病で亡くなりました。医師から「白血病は母体からもらったものです」といわれた衝撃。「放射線がまだ生きていたのです。この一言が忘れられず、いまも苦しんでいます」
六十一年前の記憶を語ること、書くことの苦痛から避けていた自分を反省している―中村さんはこうのべ、最後に次のように結びました。
「いま戦争のおろかさ、怖さ、むごたらしさを『伝えなければならない』との切羽詰まった思いがあります。戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が、戦争前の様子と重なりいてもたってもいられないからです。戦争がのこす国民や被爆者への“贈り物”は未来永劫(えいごう)にもういりません」