2006年7月24日(月)「しんぶん赤旗」

ゆうPress

難民と出会い 変わった私

クルド人家族を支援


 トルコ、イラン、イラクなどにまたがる地域で暮らすクルド人は、国を持たない世界最大の民族です。2004年の夏―。東京都渋谷区の国連ビル前でクルド人難民2家族=カザンキラン家、ドーガン家=が、72日間座り込みをして「難民と認めてほしい」と訴えた姿はマスコミでも伝えられました。その“座り込み”がきっかけで、難民問題にかかわるようになった青年たちがいます。2年たった今も、それぞれのスタイルで日本国内の難民問題に向き合っています。(伊藤悠希)


 東京の大学に勤務する周香織さん(32)。昨年の二月、「世界を視(み)るフォトジャーナリズム月刊誌 DAYS JAPAN」に彼女が撮った写真が載りました。ドーガン家の写真です。その家族との出会いは“座りこみ”でした。

 「外国人のホームレス?」。彼らを見たときの第一印象です。それから二週間後、家のポストに「助けてください。私たちは難民です」と書かれたチラシが入っていました。「あの(座り込む)人たちは難民なんだ」と気付きました。

 チラシを見て「行かなきゃ」と思ったといいます。「五歳、二歳の子どもも座り込みに参加している」と書いてあったからです。彼女の家は国連ビルの近く。「近くに大変な状況の子がいるのに何もしないのは人殺しと同じ」と思ったのです。

写真で記録に

 権力もお金もない。助けてと言われても何ができるんだろう。そう考えたとき、支援者の中に彼らの行動を写真に収めている人がいないことに気付きました。「下手でもいいから撮らなきゃ。記録に残しておこう」。ちょうど、一眼レフのデジタルカメラをその年の春に買っていました。

 写真を撮ろうと決めていた日は、品川の入国管理局前での抗議行動の日でした。しかし、入管に対する彼らの憎しみを目の当たりにし、彼らの言動の強烈さに「もしかしてこの人たち過激な集団なのかも」と心配になります。ここから逃げようか、と考えていたときです。「シュウヨウヲヤメロ(収容をやめろ)」というたどたどしい日本語が聞こえてきました。「このきれいな建物の中に難民が本当に閉じ込められているんだ」。そう実感したのです。

 周さんの行動を決定づけた言葉があります。「難民を苦しめているから怒ってるんだ。私の友達をひどい目に遭わせるな」との支援者の日本人女性の叫びです。「この人が言ってることを行動にすればいいんだ」。難民問題に出合って、いままで目を向けなかった問題にも視野が広がりました。「知ってしまったからやめられない」

 座り込みをしたカザンキラン家とドーガン家は、日本では難民として認められませんでした。ことしはじめ、カザンキラン家は第三国に難民として受け入れ日本を出国しました。ドーガン家はカナダへ難民申請中ですが、ドーガン家の一人が今月二十五日の出頭日で入管に収容されそうだといいます。

強制送還後も

 周さんはドーガン家が安心して暮らせるようになるまで、これからもずっと支援を続けます。「この二家族には最後まで責任を持ちたいんです」。昨年トルコに強制送還されたカザンキラン家の父と長男を心配しトルコに二度行った彼女の意志は強い。

メールで知って、一緒に座り込み

 派遣社員の織田朝日さん(33) 難民問題にかかわるようになったのは反戦運動の講演会で知り合った人からのメールがはじまりでした。「国連で難民が座り込みをしている。国連に集まって」とのメール。クルド人、在日難民については知りませんでした。ただ何か問題があると思い現場に行ったんです。現場に行ったのは二家族が座り込みを始めて十一日目でした。衣類が山積みで、座り込みではなく“住み込み”でした。

 参加した日から一緒に座り込みをしました。でも、何をやればいいかわからなかったんです。支援者が署名を持ってきて必死で集めました。早く解決したい気持ちで当時の法務大臣宅へ直談判に行きました。

 座り込みが強制撤去で終了してから、勉強しようと決めました。二家族にかかわって日本に収容所があることも知りました。難民にかかわって、自分が変わりました。前は他人の意見に流されるところがあったんです。いまは自分の頭で考えて行動に移せるようになりました。

“難民フットサル”スタッフに

 会社員の矢口貴大さん(24)=横浜市= 「世界難民の日」の六月二十日。その日だけでも笑顔になれる日をつくろうとフットサル大会をすることになり、スタッフとして参加しました。第一回目は二〇〇四年。優勝チームはクルド難民で、大成功でした。

 その半月後に国連ビル前で二家族の座り込みが始まったんです。大学が国連ビルの前で、なんだろうと思って見に行くとフットサル大会で優勝したクルド人がいました。はじめて難民の現実に直面しました。

 授業後は毎日見に行き、一緒に寝泊まりをしました。自分とは価値観が違う彼らの話を聞いて、日本を別の視点で見れました。自分にとって難民は友達であり、自分の在り方を模索させられる存在でした。難民フットサルが社会に認識され、多くの人が関心をもってくれればと思います。苦しむ難民たちに寄り添っていきたいと思います。


 クルド難民問題 クルド人の人口は2500万―3000万人。中世から近世にかけてオスマントルコ帝国の支配の下におかれました。第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国は解体しましたが、クルド独立は認められず、その居住地はトルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニアなどに分断。20世紀後半になるとトルコやイラクでは分離独立を求めるようになったため、迫害を受けるようになりました。

 日本は1981年に「難民の地位に関する条約」「難民の地位に関する議定書」に加入。82年から法務省が難民の認定手続きにあたっています。しかし、難民認定数は世界の主要国30カ国のうち最下位。日本には現在、約400人のクルド人がいるといわれていますが、難民の認定を受けた人はいません。日本がトルコとの友好関係を優先し、トルコ国内にクルド人迫害はないとしているからです。

 難民として認定されなければ「不法滞在者」とされ、収容所に入れられたり強制送還される危険にさらされます。日本では生活できず、他国へ難民申請することになります。収容を免れた人は「仮放免」になり、毎月入国管理局に出頭し延長手続きをとらねばなりません。


お悩みHunter

学力テスト多い中学教師の仕事がきつい

  私は中学の教師です。ここ数年、きついと感じることが多くなっています。学年末に県全体の学力テストがあり、業者テストも二回。評価を気にしてるのか、生徒が私の顔色をうかがうそぶりをするときがあり、はっとします。安定した仕事をと思ってなった教師。病気にならないうちにやめようかなと思っています。(28歳、男性)

生徒と共感し合えば元気わく

  これは「きつい」ですね。教師にとって一番つらいのは、子どもたちとの信頼関係にヒビが入ることです。生徒が教師の顔色をうかがうようになったら、信頼を築くことは困難です。それでも、自分に原因があるのなら改善もできます。

 しかし、今回は違います。文科省の全国一斉テスト(来年四月)や全県テスト。それらの準備のための業者テストが二回も。まるで「玉突き学力競争」です。これは明らかに文科省や県の施策が原因です。さらに実務上の仕事が多く、授業研究もできない。教師にとっては、授業は“命”ですから、どんなにか歯がゆいことでしょう。

 いかに苦悩が深くても、放課後の職員室で先輩教師や同僚とグチり合えれば、気持ちは軽くなるもの。ところが、それも許されぬ多忙感が職場を覆っていて「声をかけにくい」。これでは、「やめる」ことさえ考えてしまうあなたの気持ち、すごくわかります。でも生徒の様子に「はっ」とできる、若くてしなやかな感性の先生が学校から姿を消したら、子どもたちはどんなに息苦しくなることでしょう。

 「みんなもつらいよね」ともっとストレートに生徒に接してもいいと思います。共感してもらえる安心感から子どもたちはきっとあなたに元気をくれることでしょう。元気さえわけば同僚にも一声かけ職場を変える力がきっと出てきますよ。


教育評論家 尾木 直樹さん

 法政大学キャリアデザイン学部教授。中高二十二年間の教員経験を生かし、調査研究、全国での講演活動等に取り組む。著書多数。


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