2006年7月6日(木)「しんぶん赤旗」

日中全面戦争のきっかけ、盧溝橋事件とは?


 〈問い〉 日中全面戦争の契機となった盧溝橋事件について、中国に責任をなすりつける主張を耳にしますが、どんな事件だったのですか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 明日7日は盧溝橋事件69周年にあたります。北京の南西郊外にある盧溝橋付近で1937年(昭和12年)7月7日夜、日本軍が、夜間軍事演習中に中国軍から発砲があったとして、攻撃した事件です。日本は、すでにその6年前、鉄道爆破の謀略事件(柳条湖事件)を起こし侵略を開始し(「満州事変」)、中国東北部にかいらい政権の「満州国」を建国していましたが、盧溝橋事件を口実に、中国への全面侵略を開始します。

 靖国神社は、盧溝橋事件から日中が全面戦争となった「背景」について、「日中和平を拒否する中国側の意志があった」とし、全面戦争にいたったのも「日本軍を疲弊させる道を選んだ蒋介石(国民党指導者)」に責任があるなど(『靖国神社 遊就館図録』)、まるで、日本は平和を望んでいるのに、中国が戦争をしかけたように描いています。

 しかし事件がおきたのは、日本の国内でも日中の国境地帯でもなく、北京の近郊、いわば中国の中心部です。当時、中国は義和団事件(1900年、中国侵略に抗議した民衆運動を、日本など8カ国の軍が鎮圧をはかったもの)の「最終議定書」によって国内への外国軍の“駐兵権”をのまされていました。日本は、これを盾に、盧溝橋事件の前年には「支那駐屯軍」を1800人から5800人に増強。中国の強い抗議を無視し、増強部隊を北京近郊の豊台に駐屯させました。ここは北京の守備の要で、すでに中国軍がおり、両軍はわずか300メートルで対峙(たいじ)するかたちになりました。それが、いかに挑発的なことであったか。

 当時、陸軍参謀本部第一部長だった石原莞爾(「満州事変」を起こした中心の一人)は「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変(「支那事変」)の直接動機になつたと思ひます」(「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)と証言しています。

 しかも、現地では事件後まもなく停戦協定が成立し戦火の拡大を防ぐ条件がありました。ところが、近衛内閣は、大軍派遣を決定し、翌8月、「支那軍の暴戻(ぼうれい=乱暴で道理がない)を膺懲(ようちょう=こらしめる)し…」と政府声明、昭和天皇も「中華民国深く帝国の真意を解せず濫(みだり)に事を構へ遂に今次の事変を見るに至る」と中国側に戦争の責任を押しつけ、「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」するための武力行使だと強弁(37年9月)したのです。

 こうして始められた侵略がどれだけ多くの犠牲をだしたのか。「7月7日」は、私たちが忘れてはならない日です。(喜)〔2006・7・6(木)〕


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