2006年6月12日(月)「しんぶん赤旗」

列島だより

被爆乗り越えちんちん電車が行く


 交通の障害になるとの理由で“ちんちん電車”の多くが廃止されましたが、定刻に走り、排ガスが出ず、環境にやさしいと、いま見直されています。超低床化やバリアフリー化がすすみ、復活・新設させる運動や、「路面電車サミット」(別項)も開かれています。被爆地の広島市と長崎市で、いまも元気よく走る路面電車を紹介します。


広島市

環境にやさしい

「あの日」伝え今も現役

 広島市に路面電車が走るようになったのは、一九一二年十一月。広島電鉄(広電)は現在、宮島対岸の廿日市市にまでいたる西日本最大の路面電車網を持っています。

大半が被災焼失

 広電は戦後、日本中で路面電車の撤去が始まったころに神戸、北九州、大阪、京都の電車を受け入れました。一方で新車も着々と整備し、ヨーロッパで省エネと環境クリーンを実現したLRT(ライト・レール・トランジット)に力を入れた軽快電車を開発。「動く市電博物館」と言われます。

 四五年八月六日の原爆投下で、広電が所有する百二十三両のうち百八両が被災して、その多くが焼失しました。爆心地から一・五キロを運行中の電車内で被爆した土岐龍一さん(81)=西区=は「男性がいないので、女学生が運転士や車掌をしていた。被爆直後、車掌の女学生が電車の後ろに倒れていて、後に亡くなったと聞いている。当時を忘れないためにも走り続けてほしい」と語ります。

 四二年に広電が製造した「650形」の五両のうち、被害が小さかった652号は、変電所が残ったおかげで三日後の八月九日には一部区間の運行を再開。廃虚の希望の象徴として「一番電車」と呼ばれ、多くの被爆者を勇気づけました。

「ありがとう」

 広島市民は電車を降りる時、運転士に「ありがとう」と声をかける習慣があります。被爆後三日でいち早く運行を再開し、復旧に懸命な市民を無料で乗せた広電への感謝の気持ちが、今に続いていると言われます。

 修復した五両のうち、一両が六七年に事故で廃車された後も四両が走り続け、「被爆電車」の愛称で、原爆投下の生き証人として、核兵器の恐ろしさを現代に語り続けています。

 原水爆禁止世界大会では二〇〇二年から、うごく分科会「被爆電車に乗って」が始まりました。主に親子を対象に、三両の「被爆電車」に分乗して車窓から被爆遺跡を見学し、被爆体験を聞きます。三十年ほど前から「被爆電車」を学校や民主団体で借り切って平和学習を積み重ねてきた広島教育研究所の高橋信雄事務局長は「被爆の実相を追体験する場として、非常に評価が高い」と言います。

 今年二月十九日、「春のダイヤ改定で四両のうち二両を営業運転から退かせる」と報道されましたが、高齢化した被爆者に代わって被爆の実相を後世に伝える遺跡や樹木は重要です。今のところ四両とも動いていますが、被爆から六十年をこえて電車にも耐用年数があり、引退後の保全や平和利用のあり方について議論を深める時期かもしれません。

(広島県・突田守生)


長崎市

安く 時刻確実

坂の街 どこへも100円

 「電車に乗るよ」といえば長崎市民の間では、JRでなく路面電車に乗ること。長崎の街を電車が走りはじめて九十年が過ぎました。

22年据え置き

 全長十一・五キロを走るのは(1)(3)(4)(5)と、電車前面に表示された主要四路線。路面電車を使えば、原爆資料館や平和公園がある浦上、グラバー園など、いま開催中の「さるく博」(まち歩き博覧会)でも人気の南山手や東山手、出島や中島川石橋群の中央地区など、主な観光地をまわれます。

 「すごいね、どこまで乗っても百円なんて!」と、ニコニコ顔で電車から降りてきた二人連れの観光客。民営とはいえ二十二年間、全線均一の百円運賃でがんばっています。浦上方面と大浦方面をつなぐ「築町」電停では「乗り継ぎ券」も発行してくれます。文字通り全国一安くお得、それでいて黒字経営です。

 「平地が少なくて坂ばっかり、道も狭かけん、電車が一番便利ですよ。ここでは軌道内を一般車両が走れんから渋滞もなかとです」―。出発前のひととき、車掌兼運転士が教えてくれました。百円均一なら両替機もいらないし、そのための設備投資も必要ないとか。

 観光客だけでなく、市民にとっても電車は渋滞知らずの定刻運転。通勤通学のもっとも信頼できる公共交通です。「一分一秒を争う緊急車両は軌道内を走れるから助かります」(消防局の職員さん)の声も。「観光客から道を尋ねられたとき、電車道を起点に教えると分かりやすいんです」と案内好きの女性の弁。

 仙台や福岡出身といった全国の中古車両を活用するなど、画一化されていない十数種類の車両と出合えるのも楽しみの一つです。「長崎は路面電車の博物館」というマニアもいます。

苦難の時代も

 長崎の街にぴったりの路面電車にも苦難の時代がありました。なかでも一九四五年八月九日の長崎原爆では、「従業員四百五十人中百二十人が死亡。変電所は吹き飛ばされ、軌道の三分の一にあたる枕木が焼け、レールは飴のように曲がり、車両の大半が焼失した」(長崎電気軌道五十年史)とあります。長崎大水害(八二年七月)で三日間動かなかったときもあります。

 「乗客本位」に徹し、数々の困難を市民の声と社内の従業員のアイデアで乗り越えてきたといいます。

 二年前には、乗降口の段差のない超低床車両もお目見え。イメージを一新したおしゃれな路面電車も走っています。

 市内の諸行事を盛り上げるのにも欠かせません。「花電車」や「納涼ビール電車」「原爆講話を聞く子どもの平和電車」も走ります。

 「北部住宅地への延長で渋滞緩和を」日本共産党がいま求めています。

(長崎県・田中康)


 路面電車サミット 一九九三年に札幌市で、市電愛好団体サミットが開催され、ほぼ二年に一回開かれています。今年は、十月に「第8回全国路面電車サミットin長崎2006」が予定されています。愛好支援団体や事業者、国、地方自治体の担当者などが現状を出し合い、公共交通全体について話し合います。


もどる
日本共産党ホーム「しんぶん赤旗」ご利用にあたって
(c)日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 TEL 03-3403-6111  FAX 03-5474-8358 Mail info@jcp.or.jp