2006年5月24日(水)「しんぶん赤旗」

「戦死せる教え児よ」の作者はどんな方ですか?


 〈問い〉 「戦死せる教え児よ」の作者はどんな方ですか?(埼玉・一読者)

 〈答え〉 教育基本法改悪反対の運動の中で竹本源治さんの詩「戦死せる教え児よ」が再度注目されています。竹本さんが、この詩を発表したのは高知県教員組合の雑誌『るねさんす』44号(1952年1月発行)です。

 逝(ゆ)いて還(かえ)らぬ教え児よ

 私の手は血まみれだ!

 君を縊(くび)つたその綱の

 端(はし)を私も持つていた

 しかも人の子の師の名におい て

 嗚呼(ああ)!

 「お互いにだまされていた」

 の言訳が

 なんでできよう

 慚愧(ざんき) 悔恨 懺悔(ざんげ)を重ねても

 それがなんの償いになろう

 逝つた君はもう還らない

 今ぞ私は汚濁の手をすすぎ

 涙をはらつて君の墓標に誓う

 「繰り返さぬぞ絶対に!」

 当時は、高知県池川町(現・仁淀川町)の池川中学校の教諭でした。

 同誌42号(1951年11月発行)にも「送らじなこの身裂くとも教へ児を/理(ことわり)もなき戦(いくさ)のにはに」「ひたぶるに吾を信じて倚(よ)る子らに/国の行手を語りかねつも」などの短歌を発表しています。

 竹本さんは、1919年1月28日、池川町生まれ。池川青年学校を出て、44年、地元の瓜生野国民学校で教壇に立ちましたが、45年6月、応召し陸軍歩兵二等兵に。幼いときから頭に入った皇国史観のまま「神州不滅」と日本の勝利を信じていました。戦友が「戦艦陸奥が海に爆沈した。この目で見た」といっても「陸奥は、どこかに温存されている」と思っていました。

 そうした太平洋戦争中のみずからへの反省が、この詩、短歌を生みました。

 53年7月、ウィーンで開かれた第一回世界教員会議で、日本代表団が、この詩が紹介したとき会場には拍手がまき起こりました。ウィーン放送局が、ドイツ語訳で、この詩を放送したとき、局員たちがハンカチで顔をおおっていたといいます。

 竹本さんは、その後、県下の小、中学校で、おもに社会科、国語を教えました。越知町の片岡小学校校長を最後に78年3月、退職。80年5月24日に死去。90年6月、高知市の城西公園西側に、高知県管理職教員組合結成25周年を記念して、「戦死せる教え児よ」の詩碑が建立されました。

 竹本さんの友人だった日本共産党の山原健二郎衆院議員は衆議院本会議の代表質問(90年12月10日)でこの詩を朗読。「これは戦前の誤りを反省した戦後教育の原点であり、不戦を誓ったわが国の歩むべき大道であります」と訴えました。(義)

 〔2006・5・24(水)〕


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