2006年4月20日(木)「しんぶん赤旗」

「白バラ」の学生とナチの裁判官はどうなったの?


 〈問い〉 映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」をみて胸がつぶれる思いでした。「白バラ」グループの学生は戦後、「裏切り者扱い」で判決が取り消されたのはずっとあとだったというのは本当ですか? 死刑判決をくだした裁判官らは戦後どうなったのですか?(千葉・一読者)

 〈答え〉 ナチ抵抗グループ「白バラ」の学生たちは、ミュンヘン、ウルム、ハンブルク、フライブルクなどで活動。このうちミュンヘンのルードウィヒ・マキシミリアン大学の学生6人が処刑されました。

 ゾフィー・ショルなど数百人に過酷な死刑判決を下した裁判官ローラント・フライスラーは、1945年2月3日、ベルリン空爆で死亡しました。しかし、同僚のハンス・ヨアヒム・レーゼは1968年12月、「国民裁判所(ナチの政治裁判所)の裁判官としての職務を法と良心に基づいて正常に果たした」として無罪判決を受けます。

 戦後、多くのナチの裁判官が職に残り、殺人や組織的拷問にも「上官の命令に従っただけだ」と減刑されたり、「反ユダヤ主義の狂気にとりつかれたのであり、罪はそのように教育した者にある」と免責されたりしました。

 背景にはドイツでの不十分な非ナチ化があります。

 ドイツでも戦後、労組や労働者政党が反ファシズムの声をあげました。しかし、米国などは西独をソ連と敵対させるため、元ナチスのエリートを復権させます。アデナウアー政権がナチ高官受け入れを決定し、その後、西独政府は1965年までに100人の将校、828人の検察や裁判官など法関係者、21人の高級官僚、245人の外交官、297人の高級警察官僚を復職させます。

 雰囲気を変えたのが63年からのアウシュビッツ裁判など一連のホロコースト裁判や68年前後の学生たちの運動でした。

 学生たちは「祖父や父はナチの時代に何をしたのか」「ドイツの過去の責任を認めよう」と父親世代に問いかけました。

 レジスタンスの闘士だったブラント首相が69年に首相になったことは抵抗闘争への評価にとって決定的でした。80年代にはナチの被害にあったレジスタンス活動家に補償金が支給されました。

 法的には戦後「白バラ」の関係者にはナチの裁判結果が有効とされ、大学への復学も許されませんでした。

 しかし、82年に映画「白バラは死なず」(ミハエル・フェルヘーベン監督)が公開され、抵抗運動活動家に対する有罪判決がいまだに有効であると訴えたことが反響を呼びました。

 連邦議会議員と結んだ粘り強い市民運動で95年に判決は無効とされました。(片)

 〔2006・4・20(木)〕


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