2006年4月7日(金)「しんぶん赤旗」

“原爆症と認めて”

被爆者が一斉申請

長年苦しんだ 悲惨さ知って


 「私の病気を原爆のせいだと認めてほしい」と6日、北海道、東京、長崎、熊本の被爆者26人が、各自治体の窓口を通じ、原爆症の認定を厚生労働省に一斉に申請しました。3月14日に5都府県で30人が申請したのに続き2回目。「毎月6日か9日に申請を続けていこう」という日本原水爆被害者団体協議会の呼びかけにこたえたものです。

 厚生労働省は、被爆者が、がんなどの病気に苦しんでいても、全被爆者の0.8%の2千人ていどしか原爆症と認定しません。

 こうした実態とかけ離れた原爆症認定制度を変えていこうと現在、被爆者169人が、全国12地裁で認定を求める訴訟をおこしています。さらに世論を大きく広げ、政治を動かしていこうと、日本被団協は第2次の大量申請を呼びかけていました。

 次回の一斉申請は、5月9日におこないます。


北海道 “心臓病の原因”

 北海道内の被爆者三人が六日、原爆症認定を求め、道の保健福祉部に申請しました。

 当時長崎市の中学二年だった札幌市厚別区の男性(74)は、爆心地から二・五キロ(実際は二キロ)の長崎市平戸で、山の中腹にあった防空ごうから昼の弁当をとりに下りる途中に被爆。せん光を浴び、爆風でとばされて側溝にたたきつけられました。被爆後一週間(十四―二十日)佐賀県に疎開しただけで、被爆地に居住し、会社の保安係をしていた父親と遺体の回収などの作業をしました。

 会社勤めに従事しても年三、四回、原因不明の高熱が出たり、低血圧、不整脈が起こるなどの症状が続き、心房細動と狭心症で入院もしています。

 男性は「認定は、がんでないとだめで、心臓病では認めてもらえないと思っていたが、二年前に『被爆者は、がんだけでなく心臓病にもなる』というアメリカの学者の見解もあり、被爆者協会とも相談し、申請してもいいだろうと思った」と語りました。

 道被爆者協会の服部十郎さん、道非核の政府を求める会の小野内信義さんが同席し、入院中の男性(79)と、匿名の男性の申請書を提出しました。道保健医療局健康推進課の松田茂実参事は「すみやかに厚生労働省に提出します」と受理しました。


東京 核兵器なくすため

 東京では、がんや脳梗塞(こうそく)に苦しむ十四人が申請しました。約二十人の被爆者らが都庁を訪れ、鹿内弘実・被爆者援護係長に申請書類を手渡しました。

 江戸川区の男性(76)はバセドー病で申請しました。「男性には少ない病気。発病して七キロもやせ、いまは薬を飲んでいますが、全身がだるくて…」と訴えます。

 原爆投下直後の一九四五年八月九日、当時十五歳だったこの男性は、陸軍士官学校の試験のため、司令部のあった広島市に入り、爆心地近くを歩きました。ぶすぶすと火が燃え、あらゆるものが「びしゃんとつぶれていた」。市電もびっしりと人が乗ったままつぶれていました。子どもがひきずっているのはぼろ布だと思ったら、背中の皮でした。「原爆の悲惨さを少しでも多くの人に知ってもらいたい。私の経験が核兵器をなくす運動に百分の一でも、千分の一でも役立つならと思い申請しました」と言います。

 杉並区の男性(78)は、心筋梗塞、狭心症、前立腺がんで申請しました。被爆当時は、広島工業専門学校の十七歳の学生でした。市電を降り、学校に入る階段をのぼろうとしたところ、せん光をあび、もうもうとした白いほこりに包まれました。「広島の原爆よりもさらに強力な核兵器が世界中にある。人類を真っ黒こげにしないよう早く核兵器をなくさなくては」と語っていました。


長崎 毎日の不安訴え

 長崎市在住の二人が六日、同市役所を訪れ、原爆症認定の申請書類を提出しました。三月十四日に続き二回目です。

 申請したのは、十七歳のときに同市中川町(爆心地から三・四キロ)の屋外で被爆した男性(78)=肺がん=と、十歳のときに同市水ノ浦(同三キロ)の自宅で被爆した女性(69)=甲状腺がん=です。

 二人とも、被爆から四日目に爆心地付近に入りました。

 男性の場合、爆風に飛ばされ、体に無数のガラスが突き刺さりました。翌年には「肺門リンパ」に異常が表れ、さらに肝臓肥大と、ずっとけん怠感に苦しみ続けてきました。六年前に肺がんを手術した後も甲状腺に腫瘍(しゅよう)が見つかっています。「いつまで声が出るのか、次はどこにがんが出るか、毎日不安でたまりません。入市被爆の場合も、体内の放射能の影響が大きいのに、国がそれを認めないのはおかしい。私の長年の苦しみを原爆のせいと認めてほしい」と、申請への思いを語りました。

 第二次原爆症認定集団申請に参加した長崎県内の被爆者は五人になりました。


熊本 入市被爆女性も

 熊本県では六日、七人の被爆者が県に原爆症認定申請をしました。広島や長崎で被爆した男性四人と女性三人です。胃がん、核白内障、甲状腺がん術後などの病名で申請しています。

 三年前、ぼうこうがんで原爆症認定申請したものの却下され、二回目の申請となった男性(76)は、今回は前立腺がんで申請しました。次々とがんが発生していることをのべ、認定するよう訴えました。

 熊本県八代市で長崎の原爆投下を知り、その日の夜行列車で、おじいちゃんを探しに長崎市内に入った女性(70)は「翌朝(十日)着いたが、おじいちゃんはやけどがひどかった。川の水でタオルを湿らせ、頭に乗せてやったりしたが、痛い痛いというばかりで十二日に亡くなった。私は終戦で八代市に帰ったが、下痢、発熱が続いた。二十年ほど前、甲状腺がんの治療もしたが、今年二月の検診でも腫瘍(しゅよう)があると言われ、五月には再検査することになっています」と話します。

 今回の申請者の中に原爆投下直後の入市者もいることについて、熊本市原爆被害者の会の深堀弘泰事務局長は、現在審理されている原爆症認定裁判でも、残留放射能の影響が大きいことが示されている、とのべました。


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