2006年4月4日(火)「しんぶん赤旗」

「平和のバス」1年

カシミール地方

急斜面の停戦ライン越え家族往来

“私たちは一つ”


 インドとパキスタンが領有権を主張しあうカシミール地方。戦争による分断から約六十年がたちました。いまは停戦ラインが両国の境界線です。離散家族を中心に住民はこういいます。「私たちは一つ」(ムザファラバード=豊田栄光 写真も)


地図

 昨年四月七日、停戦ラインをまたぐバスの運行が始まりました。「平和のバス」と呼ばれ、パキスタン側ムザファラバードとインド側スリナガルを結びます。それから一年がたちました。

 昨年十月のパキスタン地震を受け、いまバスは走っていません。「乗客」は各自、停戦ラインまでやって来て、手続き終了後に歩いて越境します。三月三十日がその日でした。

 パキスタン側から十五人、インド側から四人(帰路の者含まず)が越境しました。

 「何としても今日中に停戦ラインを越えましょう。手を貸しますよ」。「乗客」の一人ナシール・アバースさん(48)は、仲間を激励します。日用品から自動車部品まで扱う会社の社長で、リードするのはお手のものです。

 前夜、大規模ながけ崩れが発生し、パキスタン側の停戦ラインの村チャコティに向かう道路が通行不能となりました。そのため約二百メートルの斜面を歩いて上り、下らなければ先へ進めません。もしできなければ、次回の「運行日」四月十三日まで待たなければなりません。

写真

(写真)がけ崩れで道路封鎖。急斜面を下りてくる平和のバスの乗客ら=3月30日、パキスタン側カシミール

「母がまだ途中」

 急斜面。道なき道。大きな荷物…。男性が荷物を持たずに歩いても四十分はかかります。記者(豊田)は一時間かかり、ひざはガクガクでした。

 途中、休息をとっていたのはハビブラ・ガナイさん。九十歳の男性です。二時間半かけて斜面を越えたといいます。みやげ品の入ったバッグ六個は地元の人が運んでくれました。

 ガナイさんはインド側に住んでいます。パキスタン側の兄と姉の墓参りを終えて帰るところです。「兄たちと離れ離れになったのは一九四七年。死んだ兄や姉にそっくりのおいとめいがたくさんいた。一分でも早く家に戻り、家族に報告したい」。涙を流しています。

 女子学生のピルザさん(19)は、イスラム教の聖典コーランを泣きながら読んでいました。「母がまだ途中です。兄たちが手助けしています。私は先に越え、母が無事到着できるように、お祈りしているのです」

 母ジャハーンさん(50)は二時間かかって斜面を越えました。「家族七人そろってインド側に行くことに意味があるの。夫の姉妹に全員の顔をみせるのよ」

ネクタイ締めて

 バーバル・メフードさん(44)は、パキスタン側カシミールの生まれですが、二十年以上、海外で生活しています。仕事は世界的ホテルチェーンの食料品調達係です。

 旅券を持ち裕福です。親せきに会うためなら、停戦ラインではなく、画定している国境を越える方が容易です。停戦ライン越えは、半年以上も前に申請しなくてはなりません。

 「私は一年前に申し込んだ。別ルートでは意味がない。停戦ライン越えはカシミール人にしか認められない。分断されても私たちは一つ。カシミールは一つだ」。メフードさんはネクタイを締めたまま斜面を越えました。常にきぜんとしていました。

 「乗客」は午後四時、予定より四時間遅れで停戦ラインを越えました。インド側へ帰る主婦のザヒナさん(30)がいいました。

 「どちらも似たような土地です。パキスタン側のリンゴが少し大きかったかな」

 インド側からの越境者がやって来ました。ポーターがカートで荷物を運んできます。

 国境画定にはまだ時間がかかるでしょう。

 印パ両国は、カシミールの領有権を争い三度戦争に訴えました。現在、紛争の平和的解決を目指し粘り強く交渉しています。停戦ラインはアジアの平和の流れを象徴する場所です。


 平和のバス 昨年四月七日、開設されました。現在まで二十一回運行。利用者数は、パキスタン側からは四百四十五人、逆は三百三十四人。費用(パキスタン側からの往復価格)は一人二千ルピー(約四千三百円)。


もどる
日本共産党ホーム「しんぶん赤旗」ご利用にあたって
(c)日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 TEL 03-3403-6111  FAX 03-5474-8358 Mail info@jcp.or.jp