2006年2月23日(木)「しんぶん赤旗」

「3・1ビキニデー」目前

もっと知って知らせたい

青年が「第五福竜丸」見学


 太平洋のビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験で日本漁船や現地住民が被ばくした日、三月一日の「3・1ビキニデー」の催しが目前に迫りました。今年の「ビキニデー」に参加する青年たちが、被災したマグロはえ縄漁船「第五福竜丸」の元乗組員、大石又七さん(72)の案内で、「第五福竜丸展示館」を訪れました。(内野健太郎)


元乗組員に体験聞く

 「あのあたりで寝ていたんですよ」―。

 大石さんが指さす「第五福竜丸」の甲板に、青年たちの視線が集まります。一九五四年のビキニ水爆実験で「死の灰」を浴びた大石さんの話に、青年の目が真剣です。

空が消えた

 話を聴くのは、「ビキニデー」に初めて参加する大学生、中村俊明さん(26)=仮名=、三回目という大学生の田中友里さん(22)、そして諸行事の準備をすすめる日本原水協事務局の大内響さん(23)と前川史郎さん(26)の四人です。

 「足もとからダーッと地鳴りがし、夕方のような空の色が三、四分消えなかった」と大石さん。三月一日の夜明け前、二十歳の漁師だった大石さんは、船室の入り口近くで仮眠中、光とごう音に飛び起きました。現場を離れるとき、無線長が「船や飛行機が見えたら知らせろ」と指示しました。“米軍に見つかれば、証拠隠滅のために沈められる”と恐れたのです。

 降ってくる白い灰で皮膚が水ぶくれとなり、髪の毛が抜け落ちたと大石さん。被ばくしたことを知られたくないと東京に逃れ、ひっそりと暮らしました。子どもの死産や仲間の死に、「このまま事実を埋もらせていいのか」の思いをつのらせたと半生を語ります。

 「広島、長崎の原爆投下と比べて、ビキニ事件は知られてないような気がします」と青年たち。中村さんは、昨夏の原水爆禁止世界大会に友だちに誘われて初めて参加しましたが、「ビキニ事件は知らなかった」といいます。大内さんは「友だちにビキニデーといったら、水着のことかと聞き返された」と笑います。

 大石さんがいいます。

 「私自身はビキニで核実験に遭遇したとき、広島、長崎のことは『なんだか新型爆弾が落ちた』ていどの知識しかなかった。米軍が戦後ずっと原爆投下は報道規制してきたからです。だから私は、髪の毛が抜けても少しも怖くなかった。それは知らなかったから…。だけど、ビキニ水爆実験で日本中のマグロが汚染されているとわかったとき、“人ごとでない”とみんなが立ち上がったんです」

 水爆実験は、ビキニ環礁から三千キロ離れたミッドウェー海域で操業していた漁船も、一万カウントの放射能で汚染していました。放射能の混じった雨が、日本中に降りました。全国各地で「原水爆禁止署名」の運動がおこり、一年間で三千二百万人が署名しました。一九五五年には、第一回原水爆禁止世界大会が開かれ、その翌年には広島、長崎の被爆者が日本被団協を結成しました。

 「ところが、ビキニ事件は、日本とアメリカによって、決着ずみとされた。そして乗組員も差別を恐れ、被ばくの事実を隠してきました」と大石さん。ビキニ事件は、米側が二百万ドルの慰謝料を支払うことで政治決着しました。しかし、ビキニ事件は忘れられることなく、科学者の調査や高校生の聞き取りと、さまざまな形で語り継がれてきました。六八年ごろからは「第五福竜丸」保存の大きな運動がおきました。大石さん自身も、保存運動の報道をきっかけに証言を始めました。

何をするか

 聴いていた大内さんがいいます。「ふつうに二十歳の漁師として働いていたのに、突然、核実験とか、アメリカの核政策とかに巻き込まれて、日常が壊されていったんですね。誰だって、核兵器が使用されれば、被害にあっていく。人ごとではないんですね」

 「知らないということは怖いんですよ」と大石さん。「いまもブッシュ政権は、小型核兵器の開発をすすめ、核武装すべきだという日本の政治家もたくさんいます。核兵器の本当の怖さ、被爆者の苦しみをぜひ聴いて、伝えていってください。そうして“人ごとではないんだ”と思ったとき、本当にすごい運動がおきると思います」

 「知っているのと、知らないのでは生き方が変わると思う。自分がこれから何をしたらいいのかを考えるきっかけになりました」と中村さん。

 田中さんは「核兵器をなくしたいと本気で思えるのは、被爆者のおかげです。もっともっと知って、知らせていきたい」


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