2006年1月15日(日)「しんぶん赤旗」

第24回党大会

不破哲三前議長の発言


■議長退任の問題について

 いま、浜野同志から紹介がありましたが、私が議長職から退く問題は、私自身、わが党の現在と将来をよく考えて提起したことであります。

 そこには、わが党の指導部の人事交代のあり方にかかわる問題もあります。

 わが党には、派閥もなければ、基本路線の上での対立もありません。意見の違いは活動のなかでもちろんいろいろ生まれますが、これを討論のなかで発展的に解決してゆくルールも確立しています。こういう団結は、多くの先輩たちの苦闘をふくめ、全党の長期にわたる活動を通じてかちとってきたものであって、党の巨大な成果をなすものですし、日本共産党の力の大きな源泉ともなっています。

 しかし、そこには、注意しなければならない問題もあります。その一つに人事の問題があるのです。指導部の構成について、より若い世代を吸収し、その力を発展させるという点で、とくに意識的な努力をおこなわないと、必要な時期になっても中心幹部の交代を避けるといった現状安住の保守的な傾向におちいりかねない、という問題があります。

 この党大会に先立つ時期に、私が議長職を退く問題を常任幹部会に提起したのは、大きく言えば、この点を考えてのことでした。

 私が、書記局長として、党の指導部の中枢に参加したのは、一九七〇年の第十一回党大会でした。以来、書記局長、委員長、議長など、ポストは変わりましたが、三十六年近くにわたって、指導部の一人として活動してきました。

 しかし、年齢や健康の状態もあり、現在では、国会活動から退いただけではなく、選挙戦をはじめ、各分野の党活動の現場で全党の先頭にたつことはなかなかできなくなっています。その私が、党の議長として、最終的な責任者の任務を担いつづけるということは、党の指導体制として合理的なことではありません。また、そういう状態をこのまま続けるということは、より若い世代――若いといっても私より若いという意味ですが(笑い)――より若い世代の幹部のみなさんの力を思いきって発揮することや、その能力を全面的に発展させることをさまたげる要因にさえなりかねません。ここに、議長から退くことを提起した一番直接の理由があります。

 同時に、私が考えたのは、知力と体力が存在している限り、党の発展のために、しかるべき場所でその力をつくすことは、共産主義者としての義務であり責任であるということです。それで常任幹部会の諸同志と相談したうえで、新しい中央委員会が認めてくれるならば、常任幹部会の一員として、党中央の活動に参加したい、と考えました。今日、新しい中央委員会の第一回総会でそのことが承認されましたので、喜んで、その任務を引き続き果たしてゆくつもりであります。(拍手)

 議長の任にあったものが、常任幹部会の一員として活動を続けるという前例は、過去にはありません。しかし、そもそも党のポストというものは、力量・資質についての集団的な評価と諸条件に応じての任務の分担です。ですから、いったんその職務についたら党中央から身を退くまで職務は終身変わらない、といった“終身制”は、どんなポストにかんしても、党の規約にもなければ、組織原則にもありません。今回、中央委員会で決めた人事の配置は、そのことを具体的な形で明らかにしたものであって、私としては、このことが、今後の党の人事政策の弾力性を増し、選択の幅を広げる役割を果たすことを、希望するものであります。

■三十六年間の政治史をふりかえって

 なお、この機会に、過去三十六年間をふりかえって、もう一つ、話しておきたいことがあります。それは、日本の政治における日本共産党の位置というか、日本共産党をめぐる政治闘争の性格の問題です。

 私は昨年、思わぬ事情から、自分が活動してきた、この三十六年間の政治史をたどり直す機会がありました。

■七〇年代前半――日本共産党躍進の衝撃

 先ほどいいましたように、私が書記局長になったのは、一九七〇年の第十一回党大会においてでした。政治的には、前年一九六九年の総選挙で日本共産党が十四議席に前進し、私自身が国会議員としての活動を始めた年で、続く七二年総選挙ではさらに三十八議席へ、革新共同や沖縄人民党の議席をあわせれば四十議席へと躍進をし、社会党に次ぐ野党第二党の地位をしめる、そういう時代でした。いまその時代の状況を、私の記憶だけでなく、当時のマスメディアにどう描き出されたかをふくめてふりかえってみますと、日本共産党の躍進が、日本の政治に文字通り衝撃的な影響を及ぼしたことが、よく分かります。

 言論・出版の自由の擁護、人民的議会主義、自主独立路線、「大企業本位の政治」との闘争宣言、本土復帰した沖縄の米軍基地の徹底調査、与野党の“なれ合い政治”への反対、革新自治体の運動など、党綱領の路線を具体化した共産党の方針や活動の一つひとつが、政治に大きな影響を与え、マスメディアにも大きくとりあげられました。こうして、日本共産党が、「革新」だといえば社会党だとした旧来型の状況――いわゆる「五五年体制」とはまったく違う、新しい革新政治勢力の登場として、社会の注目を浴びたのです。

 現実の情勢でも、共産党・社会党にくわえて、労働組合の最大の組織だった総評、この三者の共同戦線が、平和・民主運動だけでなく、地方政治でも大発展をし、七〇年代半ばには革新自治体が日本の総人口の43%を占める地方にまで広がり、国政でも革新統一戦線の問題が政治の具体的な課題として検討されるようになりました。私たちが、「七〇年代に民主連合政府を」という政治スローガンをかかげたのは、こういう時代背景のもとでしたが、実際、多くの人びとが、自民党政治にかわる革新政治への展望を現実に実感し、多くの人の胸に未来への希望が大きく膨らむ、こうした政治状況が展開しました。それがマスメディアにも色濃く反映して、現在からはおそらく想像もできないことですが、週刊誌などでもそういう可能性を探る企画や特集がひんぱんにおこなわれ、わが党にエールがおくられたものでした。

■“共産党封じ込め”の体制戦略         

 おそらく、この政治状況は、当時の支配勢力にとっては、「想定外」のことだったろうし、このままでは自分たちの体制が根底からゆらぐという深刻な危機感がひきおこされたであろうことは、間違いないと思います。

 だいたい体制側のそれまでの見方では、日本共産党は、一九五〇年代初頭のアメリカ占領下での弾圧とそのもとで起こった党の分裂などですっかり片付いたものであって、破防法と公安調査庁などの弾圧対策の対象ではあっても、真剣に政治的対応を考えるべき相手とはされていませんでした。

 しかし、私たちの党は、弾圧と分裂、さらには外国からの干渉で混迷した五〇年当時の党ではもはやありませんでした。科学的な綱領路線をもち、いかなる外国勢力の干渉も許さない自主独立の立場を確立した政党として、歴史的な再出発をした日本共産党でした。この党の二つの総選挙での躍進が、わずか数年で政治の様相を一気に変えてしまったのでした。

 この時から、支配勢力は、当面、あらゆる手段をつくして政治状況の反動的な逆転に力をつくすとともに、将来的にも、七〇年代前半のような危険な状況を二度とつくりださない、このことを至上任務にして、日本共産党の“封じ込め”、あるいは“共産党つぶし”を、体制維持の最大の中心柱とする、この政治戦略に全面的にのりだしたのです。

 それは、まず一九七三年、自民党が「自由社会を守れ」、つまり日本共産党を暴力・独裁・自由抑圧の政党として描き出し、それから日本を守るというキャンペーンを大々的に開始したことに始まりました。このキャンペーンが七六年には、戦前の歴史を偽造して共産党を「殺人者」よばわりする激烈な反共集中攻撃に拡大しました。私は、ここに、日本の政治の大きな転換点があったとふりかえっています。

 この時期、マスメディアをこの政治戦略に組み込むための策謀が系統的に始められたことも重要でありました。日本共産党の前進を、政治の転換への期待に結びつけるような報道や特集は、マスメディアから急速に姿を消し始めました。

 その後今日までほぼ三十年にわたる政治の推移を、ごく大ざっぱにふりかえってみましょう。

 ――一九八〇年代には、社会党と公明党が反共の立場で結んだ「社公合意」の協定――これは八〇年一月のものです――、これが引き金となって、国政では共産党排除の「オール与党」体制が支配的になりました。革新自治体も民主・平和運動での共闘も、みるみる姿を消していきました。

 ――九〇年代になると、自民党政治の矛盾とともに、この「オール与党」体制そのものが危機にひんしてきました。それを切り抜けるために、与野党の垣根をこえた「非自民」連合が企てられ、細川政権がうまれ、そのもとで小選挙区制が強行されました。

 ――さらには、二〇〇〇年代、最近の財界総出の応援のもとでの「二大政党制」づくりのキャンペーンであります。

 ――マスメディアでも、“黙殺の壁”とでもいいましょうか、共産党やそれにかかわる運動はできるだけ報道の対象にしないという異常な“壁”が年ごとに分厚いものになっていることも、ご承知の通りであります。

 これらすべてに、“共産党封じ込め”の作戦意図がつらぬいているということを、私たちはよく見る必要があります。

■歴史をひらく者への名誉ある試練       

 この作戦こそ、この三十年来、支配勢力の最大の政治戦略、体制戦略となってきたものです。支配勢力がこれだけの体制を構え、これだけの力とエネルギーを集中して、共産党封じ込め作戦にあたっているという国は、現在、世界のどこにあるでしょうか。おそらく、世界の資本主義国のなかでも日本以外には存在しないだろうと思います。大会決議が指摘した三つの異常に、もう一つ、加えなければいけないかもしれません。(笑い)

 なぜ、日本の体制派が、ここまで“共産党封じ込め”に力をつくすのか。それには、大きく言って三つの理由があると思います。

 一つは、日本共産党が、日本社会をおさえつけている二つの当面の害悪、アメリカへの国家的従属と大企業・財界の横暴な支配という二つの害悪を正面から告発し、この害悪をとりのぞいて、国民の利益、日本の主権と平和を守る新しい政治の実現を、本気で追求している政党である――このことを、支配勢力がよく知っているからであります。

 もう一つは、日本共産党が、将来の真剣な展望として、資本主義の害悪そのものを乗り越えようという旗、本当の意味で人間が主人公となる未来社会の旗をかかげている政党であって、しかも、その事業を、社会の段階的発展と多数者革命という道理ある段取りで実現しようとしている政党であること――このことを、彼らが、これまたよく知っているからであります。

 最後にもう一ついえば、日本共産党が、どんな迫害や攻撃にも負けず、どんな困難にも負けず、ましてや懐柔や買収などの裏工作のいっさい通用しない政党であること、その初心を貫く点において、不屈の政党であること、そしてやがては国民の支持をかちとってその目標に接近し、これを達成する真剣な意欲と現実の可能性をもった政党であること――このことを彼ら自身が、戦前・戦後の無数の歴史を通じて知っているからであります。

 私たちの政治戦が、いつも、他党には存在しない大きな困難や逆風に立ち向かってのたたかいとなる大きな根拠はこの点にあります。私たちは、これまでもどんな困難もおそれずに活動してきましたし、これからもどんな逆風が吹こうと顔を正面に向けて堂々とたたかいつづけるでしょう。

 だいたい、私たちの党が、支配勢力の攻撃の最大の標的となっているということは、社会進歩の大きな流れのなかでみれば、たいへん名誉なことではありませんか(拍手)。ここにあるのは、反動的な現状に固執する勢力と、社会進歩の未来を切り開こうとする勢力との対決にほかならないのであります。

■日本共産党の党名には、私たちの事業の歴史と未来とが刻みこまれている

 私たちは、一九九七年の第二十一回党大会で、「二十一世紀の早い時期に民主連合政府の実現を」という目標に設定しました。この目標の達成にいたる一歩一歩は、支配勢力の“封じ込め”戦略との正面からのたたかいを通じてかちとられるものであり、その道のりが長期で困難な、曲折の多い過程となることは、当然、予想されます。

 しかし、日本社会の現実は、新たな民主的政権による政治の転換を、切実な必要としています。そのことは、大会決議が事実をもって鋭く告発した自民党政治の“三つの異常さ”――みなさんの討論のなかで、それを裏付ける無数の事実が報告されました――、そのことをみれば明白であります。その道行きの途上にどんな困難があろうと、日本の政治の民主的な転換の事業は、最後には国民多数の支持・共感をかちとり、民主的な連合政府を実現できる――私たちが、この展望に確信をもつなによりの根拠は、まさにこの点にあります。

 私たちは、日本と世界の情勢の科学的な分析をもとに、その現状とあわせて前途を長期的な視野で見とおした羅針盤――新しい党綱領をもっています。

 私たちはまた、草の根で国民と結ぶ二万四千の党支部を、全国の多くの地域・職場・学園にもっています。

 さらに私たちは、真実と道理に立つ報道によって党と国民を結び、民主的な世論の発展に貢献する「しんぶん赤旗」をもっています。

 これらはすべて、他の党はもたない、日本共産党のかけがえのない“宝”であります。これらの“宝”を、全党の努力でさらに発展・充実させ、規模も活力もさらに大きいものにし、大目標の実現への道を着実に前進しようではありませんか(拍手)。そのためにも、当面する二〇〇七年の二つの選挙の勝利をはじめ、その時々の任務と課題をしっかりと果たしてゆこうではありませんか。(拍手)

 私たちの党・日本共産党の党名には、社会の進歩と国民の利益、日本と世界の平和のためにたたかいぬいた戦前・戦後八十四年にわたる党の不屈の歴史が刻み込まれています。そこにはまた、いかなる搾取も抑圧もなくした、もっとも人間的な人間社会――社会主義・共産主義の未来社会をめざす壮大な理想が、高らかに表現されています。

 この党の旗のもとに全党がかたく団結し、不屈の気概をもって、党とその事業の大きな前進をめざし、奮闘しようではありませんか(拍手)。私も、その党の一員として、知恵と力をつくすつもりであることを、かさねて申し上げて発言を終わります。(大きな拍手)


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