2005年8月15日(月)「しんぶん赤旗」

ゆうPress

「平和、最高!」熱く、激しく

フジ・ロック

メッセージ 音楽にのせて


 夏恒例のイベントとして定着してきた屋外型ロック・フェスティバル。七月末に新潟・苗場で開かれたフジ・ロック・フェスティバルは、三日間で十二万五千人、過去最高の観客動員数を記録しました。今年で九回目を迎え、数ある「夏フェス」のなかでも先駆け的存在である同フェスティバルを取材しました。(金子 徹)

■荒天のなか12万5000人

 午前十一時半、新幹線で越後湯沢駅に着くと、駅構内には長蛇の列ができていました。平日ながら、会場へ向かうシャトルバスは一時間待ち。入場前から例年以上の盛況を予感させました。

 会場は苗場スキー場。初日から雨が降り、二日目は何度も豪雨に。期間中、雷・大雨・洪水警報が五回も発令されました。それでも会場は通勤ラッシュ並みの混雑。お目当てのステージにたどりつくには、お金と時間と多くの労力を要します。

 大阪から友達と二人で来た会社員の女性(28)は、節約のため特急の自由席を乗り継ぎ来場。それでも一日券(一万六千円)と宿泊費(一泊)と合わせて五万円になり、「安月給の身には大変」と苦笑い。「本当はもっと見たいのですが、大好きなバンドを見てお祭り気分で盛り上がれたので、一日でも大満足です。ロックで熱くなりストレスが発散できたので、帰って仕事もがんばろう」

 出演バンドは約百五十組。ステージだけで六カ所あり、すべてを見るのは不可能ですが、体力があれば一日十数組のステージが楽しめます。

 石川県からひとりで来た会社員の男性(29)は、「これがこの夏一番の楽しみです。ロックは他人に合わせずひとりでも楽しめるところがいい。地元ではあまりライブを見る機会がないのが残念です」と語りました。

 大阪から来たフリーターの泉政幸さん(30)は、「ロックの魅力? みんなで楽しめ盛り上がれるところです。目には見えないエネルギーが生まれ、感動がある。それと反骨精神でしょう。いま世界で広がっている、平和を求める思いとロックは結びついていると思う」と話していました。

■環境保全へ啓発活動も

 「自然と音楽の共生」を掲げるフジ・ロックは、環境保全に力を入れているのが特徴です。国際青年環境団体「A SEED JAPAN」を中心に、ボランティアによるゴミの分別回収をすすめ、ペットボトルをリサイクルしたごみ袋の配布などを実施。今年はステージのひとつをバイオディーゼルや太陽光などの「ソフトエネルギー」でまかない「もっと環境のことを考えて」と啓発活動もおこないました。

 会場の一隅には、今年もNGO(非政府組織)のテント村を設置。今年は統一テーマに「平和のための行動」を選び、さらに「災害、貧困、自然エネルギー」を個別テーマにしました。

 中越地震の写真展をおこなっていた「中越元気村」の田井登さん(29)は、「ほかのイベントにも参加しましたが、ここはとてもメッセージ力がある重要なイベントだと思う」と話していました。

■流されずに時代を撃つ

 今年のフジ・ロックには、忌野清志郎などのベテランから無名の新人、そしてフー・ファイターズやベック、コールドプレイなどの旬の大物まで多彩な顔ぶれがそろいました。そんななか、出演者のピース・メッセージは今年も健在でした。

 「戦争はなくなりません。でもそれに逆らい続けていこうという思いをこめて歌をつくりました。聞いてください」

 激しい音楽に鋭いメッセージをのせた作品が持ち味のハワイアン6は、演奏の合間にこんなトークをはさみました。

 人気上昇中のサンボマスターは、超満員の観衆を前に熱いステージを披露。「愛と平和」をひたむきに歌う彼らならではの、汗と絶叫の熱狂ライブとなりました。ボーカルの山口隆は、「ありがとうございます、ありがとうございます、平和、最高、平和、最高」と、声をからして連呼。圧倒的な盛り上がりを見せたステージに、涙をぬぐう若い女性もいました。

 「過激」だったのはエイジアン・ダブ・ファウンデーション。手のこんだ機械音による斬新な音作りが光るバンドです。ステージではメンバーが顔を布で覆い怪しげな格好をして見せたりと挑発的。耳を切り裂く音にのせ、「ナンバーワン・テロリスト・イズ・ブッシュ」と告発しました。

 ポップでノリのいい社会派のソウル・フラワー・ユニオンは、ロック調にアレンジした「インターナショナル」でライブを締めくくりました。

 流されず、時代を撃つメッセージを発するアーティストたちの心意気が伝わる三日間でした。


■お悩みHunter

■有名企業追うだけの就職活動でいいのか

 Q いま就職活動をしています。私もそうですが、みんなも有名企業を追って右往左往しています。「一流」「安定」志向が働くのかもしれません。ほんとうは、自分が将来、これで生きるんだという職業を目指すべきだと思うのですが…。小林さんは大学を出られたのに、なぜ豆腐づくりの仕事を選んだのですか。(大学三年、男性。大阪市)

■どんな仕事でも一生懸命に

 A 私は豆腐屋の家に生まれました。そのため、仕事とはどういうものか、身近に見ることができました。でも、親が外で働いている家庭では、仕事を知る機会がないかもしれません。

 私は小さいときから店の手伝いをしていましたから、豆腐屋の仕事の大変さは十分にわかっていました。それで、中学、高校のころは、豆腐屋になりたいとはあまり思っていませんでした。豆腐屋という仕事が、どれだけ社会に貢献しているのかわからず、ただ労働条件の良しあしで仕事を考えていました。

 大学のときは宇宙開発の仕事に就きたいと考え、そのための勉強をしていました。しかし、店の経営が厳しくなりました。そこで両親は、従業員に辞めてもらったり、毎日夜中の一時から夜の九時まで働く状況でした。私も朝四時に起きて、手伝ってから大学に行っていました。

 そのころ、「自分が豆腐屋をやらないと両親が倒れるか店がつぶれてしまうだろう」と思い、豆腐屋になることを決めました。もし両親が、仕事に対して一生懸命でなかったら、私は継がなかったと思います。

 豆腐屋の生活は厳しく不安定です。しかし、一生懸命やれば、乗り越えられると思っています。逆に安定した職に就いてもこの時代、がんばらないと何があるかわかりません。楽な仕事なんてないですから―。

 第41代日本ウエルター級チャンピオン 小林 秀一さん 東京工業大学卒。家業の豆腐屋を継ぎながらボクシングでプロデビュー。99年新人王。03年第41代日本ウエルター級チャンピオン。


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