2005年8月12日(金)「しんぶん赤旗」

元兵士が語る

「大東亜戦争」の真相

敗戦直前“ここを掘れ”


 「自存自衛」「アジア解放」のためとして当時の日本政府が名付けた「大東亜戦争」――。その実態はアジア太平洋地域の各国に二千万人以上、日本でも三百十万人を超す犠牲者を出した侵略戦争でした。戦後六十年、この戦争を「正しかった」とする「靖国史観」が教科書、改憲にもつらなる大きな問題になっています。「大東亜戦争」の真の姿はどうだったか。戦地の元兵士やその遺族を取材しました。(このシリーズは随時掲載します)

 浜辺清さん(80)=東京江東区在住=は、一九四五年八月十五日の終戦を中国の南京で迎えました。前年の四四年十二月、十九歳で召集され、中支那派遣軍防疫給水部・登一六四四部隊の衛生兵でした。関東軍防疫給水部の七三一部隊と兄弟関係にあった部隊です。

 七三一部隊は、石井四郎軍医中将が三六年ハルピン近郊に創設。ペスト菌などをばらまく細菌戦を研究し、実際に遂行しました。捕虜に生体実験を行い、三千人ともいわれる人びとが殺されました。

 七三一部隊の支隊が北京、南京などに置かれました。南京の一六四四部隊は四〇年から四二年にかけて七三一部隊と共同で飛行機からぺスト菌、チフス菌、コレラ菌をばらまく作戦を実施したことがさまざまな証言で確認されています。

■遺体掘り出す

 一六四四部隊の本部は南京城内の接収した大きな病院に置かれていました。浜辺さんは三カ月の初年兵教育、三カ月の衛生兵教育を受け、終戦間際の七月から、何百という石油かんでネズミを飼う係に。

 捕虜はマルタと呼び、一本、二本と数えるのは、七三一部隊と同じでした。元マルタ監視係の証言によれば、軍医によって生菌を注射されたマルタは、時期を見計らって、最後の一滴まで血をしぼりとる「全採血」をされました。そんなマルタは十カ月で四、五十人にのぼったといいます。生体実験については口外を禁じられ、隊内でも秘匿されつづけました。

 終戦間際の八月十日ころ、古参兵から日本は負けたという話が伝わってきました。その翌日の十一日か十二日に、営庭の隅に埋めた遺体を掘り出すよう浜辺さんらは命令されました。「三十人くらいが幾つかグループに分かれて三日間、寝ずに穴を掘りました」

 下士官が図面を見ながら「ここら辺りだ」と掘る場所を指定しました。

 「殺害された遺体は、包帯で全身を巻かれて埋められていました。二メートルほどの穴です。粘土質の土を掘るのは大変な労力でした。私たちグループは十数体を掘り出しました。掘ると水がしみだして泥水になり、遺体もぶくぶくにふくれていました。殺されて数カ月以内のものだと思いました」

 浜辺さんは、「この作業で、この部隊が何をしていたのかが初めてわかった」といいます。

 遺体はまきの上に乗せ、重油をかけて焼き始め、すさまじい悪臭がたちこめました。

 「しかし、うまく焼けないのです。これでは間に合わないと、かます(穀物や石炭を入れる麻の袋)に詰めた遺体をトラックで運び出し真夜中に揚子江(長江)に沈めることになりました。揚子江の底に沈めれば泥の中に入って浮いてこないというのです」

 檻(おり)に入れられていた捕虜は「全部始末した」と終戦後、捕虜の監視係だった同期の戦友が浜辺さんに話しました。檻のあった部屋は、わからないようにペンキで塗り替えたといいます。

■「氷山の一角」

 必死の証拠隠滅作業にもかかわらず残された遺体のあったことが九八年、一六四四部隊跡地の工事現場から判明します。林信誠・元「しんぶん赤旗」特派員の報道(二〇〇〇年三月五日付)によると、頭がい骨ばかりが詰まった木箱と大腿(たい)骨ばかりの木箱が見つかり、遺骨などからコレラ菌の遺伝子が検出され、生体実験の犠牲者と認定されました。

 浜辺さんはいま、振り返っていいます。

 「私でも公にするとなると勇気がいります。戦友も私にさえ事実をいいません。ですから戦後六十年たっても、明らかになった日本軍の蛮行はまさに氷山の一角だと思います。しかし、いくら隠しても歴史の事実を消すことはできません。それに向き合うことが大事だと思い、機会があれば話すことにしているのです」(松橋隆司)


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