2005年6月15日(水)「しんぶん赤旗」

これが靖国神社「遊就館」の実態だ

徹底ルポ――“靖国史観”の現場をゆく

A級戦犯を「神」と展示


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ガイド本の出版元は…

 「遊就館」の玄関ホールは、ガラスから差しこむ陽光で明るさいっぱい。「戦争」の悲惨なイメージはいっさいぬぐい取られた現代的な装いです。

 左手には「零戦」の現物をきれいに化粧直しをして陳列。奥には、“靖国史観”満載の『遊就館図録』や『歴史パノラマ写真集 昭和の戦争記念館』全五巻などが海軍帽やプラモデルといったグッズといっしょに並ぶ売店があります。書籍のなかには、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書の出版元・扶桑社が販売する『遊就館の世界』というガイド本から『正論』『諸君』といった右派雑誌までありました。

 靖国神社が「高度な展示技法」と誇るだけあって、館内の展示は映像、音響、パネルと工夫がこらされています。最初に驚くのが、二階映像コーナーの「私たちは忘れない」のビデオ上映。「極東の小さな国だった日本が生き残ったのは、欧米列強の脅威にひるむことなく、命をかけて立ち向か(った)」(ナレーション)からだとする解説が強烈な印象を残します。出口のビデオ「君にめぐりあいたい」は、首相ら「三権の長」の参拝、天皇「親拝」の実現にむけてつくられたものです。

 「侵略戦争だったという人がいます。虐殺をしたという人もいます。それは大東亜戦争というものを正しく理解していうのではなく、戦後、日本弱体化の占領政策を推し進めたアメリカの言い分を、今日まで信じ込んでいる…ことに、大きな原因がある」

 露骨な侵略戦争正当化論です。

流れてきたのは軍歌

 館内の展示は、こうした“靖国史観”を映像、音響、パネルでみせる仕掛けです。

 たとえば、日露戦争パノラマ館では、室内のスクリーン三面に戦闘風景の写真が映像で映し出され、ナレーションが流されます。「アジアの小国日本が国家の存亡をかけた戦い」として、「プロジェクトX」(NHK)ばりの演出で日露戦争(一九〇四―〇五年)が紹介されます。

 そこでは、兵士の雄たけび、とどろく大砲と軍靴の効果音にまじって軍歌が流れてきます。右翼の宣伝カーなどでしか聞かないような「軍艦マーチ」や軍歌調の「君が代」が自然なBGMとして流れる異常さ。身構えなければ、「靖国の世界」に引き込まれるかのよう。

 日中戦争(一九三七年―四五)では、中国の「排日運動」や蒋介石の戦術などが戦争の原因とされ、中国側の「在留日本人殺害」などの暴虐が強調されます。ちょうど、当時の政府が「暴戻(ぼうれい=乱暴で道理にはずれている)支那を膺懲(ようちょう=こらしめる)する」として、中国侵略の拡大を正当化していたのと同じ論理です。

 もっとも力をいれているのが太平洋戦争。日清戦争(一八九四―九五年)から「支那事変」までの約半世紀の展示スペースと同じ五室があてられています。そこでは開戦の責任は開戦時の米大統領ルーズベルトの“陰謀”にあるとされます。終戦が遅れたことさえ、天皇制「護持」に固執した政府や軍部のせいではなく、日本の無条件降伏を求めたルーズベルトにあったとします。

 それを補強するかのように、ABCD包囲網(米、英、中、オランダによる経済的制裁網)の詳細な年表や地図。米国がいかに開戦準備を整えていったかを示す「日米交渉」の年表のタイトルは「和平を模索する日本の行動」。中国侵略の権益を絶対に手放さないとする立場の「和平」をこうして正当化していきます。

 責任転嫁の一方で、「わが生命線である韓国」「満州の権益」など、他国領土を「生命線」とする立場が平然と記され、北太平洋からニューギニア、ビルマに連なる線を「絶対国防圏」とする領土拡大の過程を当然のこととして描いています。

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東条英機の遺影

 展示室の最後には、壁を埋め尽くした四千枚を超える戦没者の遺影。その中に、次の名前がありました。

 「陸軍大将 東条英機命(みこと) 昭和23年12月23日 東京都巣鴨拘置所にて法務死 東京都」

 太平洋戦争開戦時の首相として、東京裁判で絞首刑の判決がくだされたA級戦犯。その人物の写真が「靖国の神々」として堂々と展示してあったのです。はがき大より一回り大きい写真は、七段八列にびっしりとならんだ写真の右下方にありました。

 靖国神社が合祀(ごうし)するA級戦犯十四人のうち、写真が展示されているのは、東条元首相のほか、永野修身海軍軍令部総長、木村兵太郎陸軍大将の三人。

 A級戦犯が出てくるのは、ここだけではありません。第十五展示室の「大東亜戦争5・終戦 日本再建への道」には、東条元首相ら二十五人のA級戦犯全員の署名が入った「日の丸」が展示されています。解説のタイトルは「日はまた昇る」。

 靖国神社はA級戦犯を「形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた」方(「やすくに大百科」)と説明しています。

「日本心配」と英文感想

 ここにあるのは、戦争を起こした側が、あの戦争は正しかったという自己正当化の視点から組み立てた、偽りの「近代史」です。

 館内の最後にある感想文コーナーでは、「日本は戦うしかなかったのです。戦わなければ他のアジア、アフリカの国々のように植民地にされていました。それがよく分かりました」(二十八歳)などという文章もつづられています。

 感想文コーナーでは、英語やハングルで書かれた感想もあり、そのなかにはこんな英文の感想もありました。

 「私はとても悲しく、日本を心配します。日本の多くの人の歴史観にです。軍国主義の歴史の美化は、永久的な平和をもたらしません」(J・D)

 日本の総理大臣の行為によって、「遊就館」のような「歴史観」に市民権を与えることは、絶対にあってはならないことです。(藤田健)


豆知識――「遊就館」の変身

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靖国神社の遊就館

 「遊就館」は一八八二年、「日本初の軍事博物館」(「やすくに大百科」靖国神社社務所)として開館しました。一九三三年発行の「遊就館要覧」は設立趣旨に「国防思想の普及」を挙げています。

 敗戦直後、国家補助を打ちきられた靖国神社は財力もなく、「遊就館を修理したものに、建物および周囲の土地を貸与してもよい」との意向を表明。本社屋を米軍に接収された富国生命保険相互会社(フコク生命、前身は富国徴兵保険相互会社)が四六年に月額五万円(当時)でこれを借り受け、以後、一九八〇年まで同社の「九段本社」となりました(『富国生命五十五年史』などから)。

 その間、靖国神社は遊就館に隣接する「靖国会館」の一部を「宝物遺品館」として、六一年から戦没者の遺品などを細々と展示していました。

 同社が立ち退くにあたり、当時の社長は靖国神社の経営の窮状を財界有力者に訴えました。これをきっかけに「靖国神社奉賛会」が発足。八六年の「遊就館」再開を支えました。

 奉賛会は九八年に「靖国神社崇敬奉賛会」に再組織され、二〇〇二年の大増築の事業費集めに協力しています。


記者の目

被害者の記憶は消せない

 遊就館の展示「大東亜戦争」を見て、日本軍が東南アジア、太平洋を舞台にいかに激しい戦争を繰り広げたか、よく分かりました。激しい攻撃にどれだけ多くの人が巻き込まれ亡くなったか、想像にかたくありません。

 しかし、遊就館には英霊の写真はあっても、日本が攻め入った国の人々の姿はありませんでした。加害の事実を無視し、戦争を一方的な美談に仕立て上げています。そればかりか日本の植民地支配への抵抗を「排日」「テロ」だと表現していました。

 韓国、中国の歴史記念館を訪れたことを思い出しました。ソウルの西大門刑務所歴史館では、抵抗運動を続けた朝鮮人へ徹底した弾圧が繰り広げられたことが分かりました。

 南京大虐殺記念館では、土に埋まった数々の人骨が保存されていました。日本軍に数十カ所刺され流産しながらも生き残った李秀英さん(2004年死去)にも出会いました。北京・盧溝橋の抗日戦争記念館では、日本の侵略とのたたかいが新中国建国にとってどれほど重要なものであったかが理解できました。暗く重い気持ちになりました。植民地支配、領土拡大を推し進める側は、徹底的に残虐だったのですから。

 被害を受けた国々は、そのことをしっかり記憶しています。一方的に消し去ることのできない歴史の事実です。

(鎌塚由美)

血のにおいしない「戦争」

 遊就館を見学するには、想像力が必要です。

◇   ◇

 日中戦争での日本軍の戦いぶりを紹介するビデオ映像。タイトルは「支那事変 総攻撃」。画面上の中国の地図の上、日本軍が爆撃した各都市に爆弾のマークが一つ一つ増えていく。上海、杭州、南京…。映像は「壮挙だ」と屈託なく説明します。

 想像しましょう、この爆弾マーク一つひとつの下に、どれだけの人が暮らしているのか。爆弾が破裂する家の中にいる子どもや父、母の顔を。

 ニューギニア作戦に従事した日本軍第18軍。食糧などの補給を受けられず、死者の9割は餓死と推定されています。遊就館の解説パネルは、18軍が「人間の限界をこえた苦闘」を戦いぬくなかで「崇高な人間性」が発揮され「多くの逸話を残した」と語って終わります。「餓死」の文字すら出てきません。

 大展示室には特攻機「桜花一一型」があります。小さな飛行機のような形で、先端には1.2トンの爆薬をさく裂させる信管。母機の爆弾倉につり下げて出撃し、敵艦船の手前で切り離されて操縦士もろとも突っ込みます。車輪など着陸用の装備はなく、回避も帰還も不可能です。

 この重さ約2トンの金属の塊に乗りこむ時の、絶望感を想像します。上空で、切り離される瞬間を待つ恐怖を想像します。想像しないと、展示からは何も伝わってきません。

 以前訪れた「ひめゆり平和祈念資料館」(沖縄県糸満市)には、艦砲射撃で手足を飛ばされた女子学生や自決に失敗した兵士らの苦しむ姿を伝える証言があふれていました。

 遊就館の戦争展示に全く欠けているものの一つは「血のにおい」。戦争の血生臭さ、そしてアジアと日本の2千万を超える人々が払った犠牲のいたましさです。(安川崇)

東南アジアとのギャップ

 10年前、マニラ特派員だった私は、東南アジア各国の歴史・戦争博物館を訪ね歩きました。「自存自衛」という日本の身勝手な理屈で、侵略、占領された側の痛苦の思いが伝わってきました。

 遊就館に足を一歩踏み入れた次の瞬間から、そのギャップのすさまじさに驚かされました。

 遊就館玄関ホール。そこに堂々と展示されているのは泰緬(たいめん)鉄道を走った機関車―「恥知らずな…」との思いがこみあげました。

 泰緬鉄道は戦前、日本軍がタイとビルマ(ミャンマー)の間に建設した415キロの線区です。インドへの侵攻作戦に必要な軍需物資の輸送路を確保するためでした。映画「戦場に架ける橋」の舞台にもなりました。

 過酷な労働に栄養不足、マラリアなどの病気、連合軍の攻撃…。連合軍捕虜数万人、アジア人数十万人が亡くなったとされます。

 「英国統治下の時も計画されたが、難路にて着工されなかった」、それが「1年3カ月という驚異的な速さで完成した」と、誇らしげに紹介しているのが遊就館です。

 タイの博物館には、やせ細った男たちが腰巻き一つで、まくら木を担がされている人形が展示されていました。

 インドネシアから泰緬鉄道の建設現場に連れて来られた人を取材したとき、彼はいいました。

 「生き残れたことがいまでも不思議だ。人の生き血を吸って完成した鉄道だな」

 遊就館にくると、東南アジアの博物館とはまるで違う歴史観に戸惑い、日本軍に人間の尊厳を踏みにじられた人たちの憤る声が聞こえてきそうでした。(豊田栄光)

遺族の心に沿った神社か

 戦没者の遺族は靖国神社をどのような思いで見ているのでしょうか。

 愛知県の安間妙子さん(60)は先月、知り合いに誘われて初めて遊就館に入りました。「軍歌を流したり戦争中のビデオを見せたりするコーナーは軍国主義時代に戻ったようで、逃げるように通り過ぎた」と言います。

 父親は戦争末期、人間魚雷「回天」を潜水艦で沖縄へ輸送中に撃沈されました。そのとき生後4カ月だった妙子さんに父の記憶はありません。

 大展示室の「回天」の実物と、父親の乗っていた潜水艦の写真の前で思わず足が止まりました。「でも戦死した無名の人を手厚く葬っている感じはしませんでした」

 安間さんはマスコミの記者に「父親は無駄死にだったと思うか」と聞かれて悲しくなったことがあります。

 「その後で父は平和の礎になったんだと気づきました。遊就館はそれとは反対の作りになっています」

 一方、「行く気がしない」という遺族が多いのも事実です。東京都の白井克雄さん(62)もその一人。父はニューギニアで戦死しました。靖国神社は子どもの時に一度、母に連れられて行ったきりです。

 「戦死といってもマラリアと飢えで死んだと、戦友から母は聞いたようです。そんな死に方をさせてなにが聖戦ですか。靖国は戦争を美化していると聞きますが、また戦争をする国にするためとしか思えません」

 肉親の死を戦争宣伝の道具に使う靖国神社が遺族の心に沿うものとは思えません。(北村隆志)


靖国神社と遊就館年表

 1869(明治2) 戊辰戦争での官軍の戦死者を祭るため東京招魂社をつくる

 1879(同12) 靖国神社に改称。内務・陸軍・海軍の管理下に

 1882(同15) 軍人勅諭制定。日本初の軍事博物館「遊就館」開館

 1887(同20) 陸軍省・海軍省の管轄に

 1917(大正6) 春の例大祭を日露戦争後の陸軍凱旋観兵式の日である4月30日に、秋の例大祭を同じく海軍凱旋観艦式の日である10月23日に定める

 1934(昭和9) 靖国神社内に「国防館」を開館

 1939(同14) 地方招魂社を護国神社に改編。靖国神社を頂点とする神社体系に

 1945(同20) ポツダム宣言受諾し終戦(8月)。遊就館令廃止(9月)。GHQが神道指令発令(12月)

 1946(同21) 天皇の「人間宣言」(1月)。靖国神社、宗教法人として登記(9月)。富国生命と「遊就館」の賃貸契約(11月)

 1948(同23) 極東国際軍事裁判(東京裁判)判決、東条元首相ら絞首刑に

 1951(同26) 宗教法人令廃止、宗教法人法施行(翌年に宗教法人靖国神社設立)。戦後初の例大祭、吉田首相初参拝

 1952(同27) 初の全国戦没者追悼式

 1953(同28) 日本遺族会設立

 1969(同44) 靖国神社国家護持国民協議会発足。自民党が靖国神社法案初提出(以後5回すべて廃案)

 1975(同50) 国家護持への段階的提案として「公式参拝」路線登場。三木首相が「私人として」参拝。天皇夫妻参拝(以後参拝なし)

 1976(同51) 「英霊にこたえる会」結成

 1978(同53) 靖国神社がA級戦犯を合祀

 1979(同54) 元号法成立

 1981(同56) 「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」結成。改憲団体「日本を守る国民会議」結成

 1985(同60) 中曽根首相が公式参拝、アジア各国から批判(翌年から中止)

 1986(同61) 「遊就館」再開

 1993(平成5) 細川首相が記者会見で日本がおこなった戦争を「侵略戦争」と表明。自民党靖国三協議会が抗議の申し入れ

 1995(同7) 村山首相が終戦50年の「談話」で「植民地支配と侵略」に反省とおわび。自民党「歴史・検討委員会」が『大東亜戦争の総括』を発表

 1997(同9) 改憲団体が合流して「日本会議」発足。憲法調査委員会設置推進議員連盟発足

 1999(同11) 「英霊にこたえる会」などが「三権の長」の靖国参拝を求める請願書提出、請願行進

 2000(同12) 森内閣発足。日本遺族会などが首相参拝求め「総決起大会」。「英霊にこたえる会」がビデオ「君にめぐりあいたい」制作

 2001(同13) 小泉首相が靖国参拝を公約し実行(8月。以後毎年参拝)

 2002(同14) 「遊就館」が大増築後、開館式


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