2005年6月7日(火)「しんぶん赤旗」

ここまで来たか“靖国史観”


売られていた「大東亜戦争」礼賛の写真集

 靖国神社の「遊就館(ゆうしゅうかん)」。戦争史の展示を見おえて玄関ホールに向かうと、途中に売店の区画があり、そこに“靖国グッズ”が並んでいます。書籍もありますが、その多くは、“靖国史観”の宣伝書です。そのなかでひときわ目立つ「歴史パノラマ写真集」、『昭和の戦争記念館』全五冊(一九九九〜二〇〇二年刊)を手にとって、驚きました。戦争のさなかに軍の報道部が編集したものかと、思わず錯覚するような、「大東亜戦争」礼賛の写真集だったからです。

 それもそのはずです。

 第一回配本(一九九九年刊)の第3巻の巻頭にかかげられた「本シリーズの狙い」には、刊行者たちの意図が、あからさまに書かれています。

 この文章は、まず言います。

 「戦後日本では、全国各地に『平和』の名を冠した記念館が建設された。それらは我が国が『侵略国』であり、『加害国』であり、アジア諸国に迷惑をかけた、という謝罪的雰囲気が根底にある」。

 この状況を「見るに見かねた」のが、「本シリーズ」作成の動機だということです。おそらく、こんなことでは、「大東亜戦争」を戦った日本人の魂はどこに行ったのか、これが、刊行者たちの思いだったのでしょう。

 では、日本に建てられるべき「記念館」とは、どんなものであるべきか。この文章は、こう訴えます。

 「我々が戦争記念館を作るとしたら、昭和の動乱を生きた日本の国家的立場と、栄光と英雄の歩みを根底に置かねばならない。特に大東亜戦争の場合は、空前のスケールを持った民族体験であり、世界史上においても前例のない数々の遺産を残した。その積極的役割を謳(うた)いあげるとともに、『昨日の敵は今日の友』の精神をもって、敵国の立場も理解し、勇戦にも敬意を払う。

 すなわち『世界に開かれた昭和の戦争記念館』にしたいのである」。

 要するに、「大東亜戦争」を「世界史上においても前例のない」日本民族の一大偉業として意義づけ、その戦争を戦った「日本の国家的立場」、そこに刻まれた「栄光と英雄の歩み」をうたいあげる、そういう戦争礼賛記念館をつくりたい。しかし、いますぐ、その建設に取りかかる条件はないから、せめて「博物館風」に編集した「写真構成シリーズ」全五冊をつくる――ここに刊行の「狙い」があるというのですから、このシリーズが、ページを開くものを、あまりにも熱狂的な戦争礼賛ぶりで驚かせるのには、なんの不思議もありません。

「大東亜戦争」は「日本民族のクライマックス」だった…

 全五冊のなかでも、その熱狂が絶頂を見せるのは、第2巻『大東亜戦争と被占領時代』でしょう。巻頭のカラー・グラビア(写真左)は、金色の鵄(とび)を弓の先にとめた神武天皇の絵姿や、戦時下の一九四〇年、宮崎県に建てられた「八紘一宇」(はっこういちう)の塔の写真などが並び、「大東亜戦争は国史の総動員――神武創業の甦(よみがえ)り」と題して、次のような解説がつきます。

 「いかなる国でも、国家が危機に遭遇(そうぐう)すると、歴史が甦るものである。特に先の大東亜戦争は、我が国の歴史始まって以来のスケールをもった大戦争であった。緒戦の赫々(かくかく)たる大戦果から、玉砕・特攻と続く悪戦苦闘、そして惨憺(さんたん)たる敗戦という壮絶なる民族ドラマの中にあって、歴史体験が総動員されたといえる」。

 続いて、目次を開くと、「日本民族のクライマックス」だったと、この戦争を天まで持ち上げた第一部の大見出しが目に飛びこんできます。

 戦争の最中での軍部の戦争宣伝ならいざ知らず、戦後の日本で、あの侵略戦争を、最大限の形容句を総動員してここまで褒めたたえた文章を、私はほかに見た記憶がありません。戦争の美化・正当化につとめる文章は、いわゆる“右派”ジャーナリズムに、毎日のように登場しますが、神武東征や「八紘一宇」の“歴史”まで持ち出し、あの戦争を「日本民族のクライマックス」とまでたたえる文章は、“右派”ジャーナリズムの世界に持ち込んでも、希有(けう)な存在となるのではないでしょうか。

刊行会には靖国神社宮司が参加

 いったい、この空前の戦争礼賛の本を、誰が刊行したのでしょうか。

 本の巻末には、「昭和の戦争記念館」刊行会の役員名簿がのっています。

 会長は、板垣正氏。元参議院議員で、靖国神社への合祀(ごうし)が問題になっているA級戦犯・板垣征四郎陸軍大将の長男にあたる人です。

 編集長は、名越二荒之助(なごし・ふたらのすけ)氏。「元高千穂商科大学教授」の肩書で紹介されていますが、靖国神社が後援してつくったドキュメント映画「私たちは忘れない」の冒頭に出演して、日本の戦争は「欧米諸国の植民地勢力にたいする、アジアを代表する日本の抵抗」だったと、「アジア解放」戦争論を述べたてた人物です。

 それに続いて、刊行会顧問十二人の名簿がならびますが、なんと、そこには、靖国神社宮司・湯沢貞氏(当時)の名前があるではありませんか。

 「大東亜戦争」礼賛のこの写真集は、「遊就館」の売店で売られているというだけでなく、靖国神社がその刊行に参画している、靖国神社公認の「戦争写真集」だったのです。

政府の「反省」談話を「嘘と誤り」だと攻撃

 写真集のページを繰ってゆくと、「嘘(うそ)と誤りに満ちた村山談話」(第2巻、二〇〇一年刊)という見出しが、目に入りました。「村山談話」といえば、日本政府の公式見解で、いまでは、小泉首相も、この談話とほぼ同じ立場で、過去への反省の態度を表明しています。それを「嘘と誤りに満ちた」ものと非難するとは、“靖国史観”に立つ人たちの、日本政府の立場への公然たる挑戦にほかなりません。

 いったい、「村山談話」のどこが「嘘と誤り」なのか。“靖国”派の非難の論理は、簡単明瞭(めいりょう)です。この「談話」が反省した核心の部分――「植民地支配と侵略」が事実無根の「嘘と誤り」だというのです。

“侵略のために戦ったものは一人もいなかった”

 まず、「侵略」の問題について、“靖国”派の言い分はこうです。

 「そもそも大東亜戦争に参加した者で、侵略のために戦った者は一人もいなかった」。村山氏だって、陸軍軍曹として、大分県の郷里から入隊したとき、「侵略」のために出征したはずではなかったろう。自分の良心を裏切る大ウソをつくな。「どうしても日本に『侵略』のレッテルを貼(は)りたいのであったら、米・英・蘭や中国の国籍を取得してから言えばよい」。

 これが“靖国”派の侵略否定の論理ですが、これほど、恥知らずな、偽りの論理はないでしょう。侵略を計画し実行したのは、一部の戦争指導者たちであって、彼らに動員されて戦場に駆り出された、日本の一般国民ではないのです。“靖国”派の人たちは、日本の戦争指導者たちが、中国や東南アジアを日本の「領土」にすることをめざしていた明白な歴史の事実を知らないで、ものを言っているのでしょうか。それとも、事実を知りながら、「自分の良心」を裏切って、こんな暴論を吐いているのでしょうか。

 たとえば、一九三一年九月、日本は「満州事変」を起こして、中国の東北地方を侵略しました。これを実行したのは、この地方に駐屯していた日本の陸軍部隊・関東軍ですが、その首謀者の一人である高級参謀・板垣征四郎(当時)は、戦争を起こす四カ月前に、関東軍の上級将校の会議で講演「満蒙問題に就(つ)いて」をおこない、“自分たちの終局の目的は、満州〔中国・東北地方〕と蒙古〔現在の内モンゴル自治区〕を日本の領土とすることにある”と明言しています(『太平洋戦争への道――開戦外交史』資料編 朝日新聞社 一九六三年)。

 もう一つ事実をあげましょう。“靖国”派が、アジア解放の戦争だったといって口をきわめて賛美する「大東亜戦争」のさなか、一九四三年五月の大本営政府連絡会議は、占領した南方諸地域にたいする対策方針「大東亜政略指導大綱」を決めました。そこでは、東南アジアの扱いについて、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ〔カリマンタン〕、セレベスは帝国領土と決定」すると、明記されています。その他の地域についても、「満州国」なみの政府をつくらせて「独立」の形をとるが、日本の支配権は確保する、というのが方針でした。

 「帝国領土」とカイライ政府づくりとのこの仕分けそのものは、情勢の変動とともに変化しますが、あれこれの地域にどちらの支配形態を割り当てようと、東南アジアを日本の支配下に置くという「侵略」の方針は一貫していたのです。

“日本は、朝鮮・台湾を植民地にしたことはない”

 次は、「植民地支配」の問題です。“靖国”派は、この本のなかで、反省すべき植民地支配などなかったというために、前代未聞の議論を持ち出しています。

 「日本はアジア諸国を植民地にしたというが、台湾と朝鮮は植民地ではなく日本領であった。日本と同じレベルに高めるべく、同化政策を推進した。……当時の台湾人や朝鮮人は、進んで大東亜戦争に志願した。……そして双方で計五万人の戦死者を出し、靖国神社に合祀されている」。

 あきれて開いた口がふさがらないとは、このことです。日本の「侵略」を否定する人たちが、植民地支配の問題になると、これは「日本領」にしたのであって「植民地」ではない、と言い張るのですから。他国を併合して「日本領」にしたり、他国からその領土を奪って「日本領」にする、それこそまさに「侵略」であり、また「植民地支配」ではありませんか。

 しかも、この人たちの頭には、朝鮮や台湾を日本の「領土」にしたのは、朝鮮や台湾の人びとに恩恵をほどこしたものとして、映っているようです。“日本領にしたのだから、植民地支配などなかった”という開き直りの暴論にくわえて、朝鮮や台湾の人びとの魂を踏みにじった「同化政策」(日本式の名前や日本語教育の強要など)や、戦争の「人的資源」として強制・半強制のさまざまな手段を使っておこなわれた戦場への動員、さらにはその犠牲者たちの靖国神社への勝手な「合祀」までを、日本があたえた恩恵だったかのように言い立てる、これは、植民地支配者たちの思い上がりの再現以外のなにものでもありません。

靖国神社は、戦争礼賛論の最大の発信地

 “靖国史観”は、ここまで来ています。靖国神社は、“日本の戦争は正義の戦争だった”という自分の戦争観を、あらゆる手段を使って内外に発信する、“靖国史観”の日本最大の根拠地となっており、第二次世界大戦での侵略者たちへの世界の審判をくつがえそうとするきわめて危険な挑戦者という役割を、いよいよ強めてきています。

 しかも、少しでも、戦争や植民地支配を反省しようとするものには、たとえ、日本政府の公式の見解であっても、容赦なく攻撃をくわえてきます。こういうやり方にも、ヨーロッパにおけるネオ・ナチを思わせるものがあります。

 事態は、ここまで来ているのです。現状では、靖国神社のこの役割と、戦没者への慰霊とを、切り離して扱うことはできません。

 小泉首相が、靖国参拝の正当性を、戦没者への追悼という自分の心情から説明しても、その説明の無理はいよいよはっきりしてきました。日本政府の責任者として、その参拝行為によって、靖国神社の戦争礼賛の立場に公認の裏付けを与えることは、許されないからです。

 小泉首相が、戦没者への追悼の気持ちを表す場として、靖国神社に固執することは、現実には、“靖国史観”の宣伝者たちを励まし喜ばすだけのことであり、戦没者への追悼の気持ちそのものとも矛盾する結果となるのではないでしょうか。

 (北条 徹)


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