2005年5月8日(日)「しんぶん赤旗」
日本原水協NPT代表団
米国各地で交流
原爆博物館や原子炉の町でも
【ニューヨーク=浜谷浩司】核兵器廃絶を訴えて訪米した原水爆禁止日本協議会(日本原水協)代表団は、核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた要請と並んで、米国民との交流を深める新たな試みを各地で展開しました。
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「歓迎します」
「展示に被爆者がいない」。今年二月、ネバダ州ラスベガスに開館した原爆実験博物館。その展示は、核兵器開発を科学技術の発展として描き出したものでした。核兵器の模型やネバダ核実験場の写真、実験装置、さらに核爆発の威力を「体験」するシミュレーターはあっても、被爆の影響を伝えるものは見当たりません。
「あなたがたを歓迎します」。代表団はウィリアム・ジョンソン館長の言葉を、やや意外に受け止めました。「展示内容を高めたい」と館長。代表団が広島市の秋葉市長から預かった写真パネル二十四枚を手渡すと、館長は「博物館の所蔵品にします」と応じました。
博物館がパネルを実際に展示するか、疑問がないわけではありません。ただ、米国でも核兵器はないほうがいいとする意見が66%と多数派を占めている現実が、館長の発言にも反映しているのではないか―。代表団は館長の言葉をそう受け止めています。
「核兵器はいまも彼女の人生に影響を及ぼしている」。代表団に加わった被爆二世の女性の発言を、地元紙は一面で報じました。「広島、長崎で起きたことを見さえすれば、核兵器をなぜ廃絶しなければならないかが分かる」との団員の声とともに。
被爆者の訴え
「私の姿を見てしまったあなたたちは、目をそらさないでもう一度見てほしい。奇跡的に生き延びたが、私たち被爆者の全身には原爆ののろうべきつめあとがあります」
長崎で被爆した谷口稜曄(すみてる)さんはサンフランシスコの高校で、さらに地元のラジオで語りかけました。「私を最後の被爆者とするため、核兵器廃絶の声を全世界に」。谷口さんは発言をこう結びました。
サンフランシスコ市中央図書館でのパネル討論には、三十人を超える市民が姿を見せました。
「やけどの後遺症で夜も眠れず、苦しさのあまり自殺を考えました」と谷口さん。どうして思いとどまったのかという問いに、「この状況を後世に伝えていくことが、生き残った者の使命だと思った」と答えました。
青年を中心とした代表グループは、カリフォルニア大学バークレー校を訪ねて、キャンパスで署名を訴えました。「いっしょに呼びかけてあげる」との女子学生の申し出で、がぜん力がわきました。一時間余で百七十四人分が集まりました。
そればかりではありません。署名に応じた別の大学の日系人教授から、授業に招かれました。大学のラジオ局を運営する学生に出会ったことから、ラジオ番組にも出演し、署名を訴えました。
ただ、署名の呼びかけに対し、核兵器は重要だと主張し、米国内で署名をとることに抗議する人がいたことも事実です。「米国での平和運動の難しさと対話の重要性を実感した」との声が代表団から出ました。
非核神戸と連帯
西海岸のワシントン州シアトル市。日本との関係が深いこの町で、「ヒロシマ・デー」の市民行動が三十周年を迎えました。
神戸市と姉妹都市。「入港の外国艦船に非核証明書の提出を義務付ける非核神戸方式を、シアトル港に」と要求してきた運動があります。
シアトル湾内にあって、現役配備された核兵器が世界で最も多い核基地がバンゴーです。基地撤去運動のさなか、逆に基地が増強される事態が、非核神戸方式への関心を一段と強めています。
原潜の廃棄処分地となっているハンフォード。長崎原爆のプルトニウムを抽出した原子炉をはじめとして、核兵器工場群が配置された「死の町」でもあります。
交流集会には、ハンフォードで初めて反核運動を組織したという学者らも出席。被爆二世の発言に、地元市民からは「被爆者と私たちは兄弟だ」との発言が出ました。
被爆六十周年の今年、ハンフォードからバンゴーまでの約三百キロを三週間で歩く平和行進が計画されています。