2011年8月5日(金)「しんぶん赤旗」
50年代、米の「原子力平和利用」宣伝
核持ち込みへ地ならし 米解禁文書で判明
1950年代半ばに米政府などが日本で大々的に展開した「原子力の平和利用」キャンペーンには、日本の反核世論を変質させ、日本本土への核兵器持ち込み・配備を可能にする狙いがあったことが、国際問題研究者の新原(にいはら)昭治氏が入手した米解禁文書(写真)で判明しました。
「原子力の平和利用」キャンペーンの狙いがビキニ水爆実験(54年3月)で広がった日本の反核・反米世論の沈静化にあったことが本紙連載などで明らかになりましたが、加えて核持ち込みの実現を目的にしていたことが明らかになるのは初めて。
ロバートソン国防副長官の書簡に対するフーバー国務次官の返書(55年11月18日付)によると、米統合参謀本部は当時、「日本への原子兵器用核コンポーネントの配備」を方針としていましたが、日本の反核世論を背景に、それを即実行に移すのは「多分不可能」と判断していました。
このためロバートソン副長官は「日本人が米国の原子力平和利用計画の可能性を称賛すればするほど、現に存在する心理的障害を小さなものにすることや、軍用原子計画の実態をより高く評価することを促すのに有効である」とし、国務・国防両省が共同して、米原子力政策を「好意的に理解するよう」宣伝することを提示しています。
また、56年12月3日付のスミス国務長官特別補佐官からグレイ国防次官補あて書簡などによると、その後も米政府内で「日本での核兵器貯蔵への政治的障害を弱めるための方策」について協議。「短期的には、原子力の平和利用問題に専念することによって…最善の結果がもたらされる」、つまり「原子兵器の有用性を受け入れる」と結論付けています。
アイゼンハワー米大統領は対ソ核戦略の柱として海外への核兵器恒常配備政策を採用すると同時に、53年12月に国連で「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」演説を行い、米国主導で友好国での原子力の産業的利用を広めようとしていました。
日本での「原子力の平和利用」キャンペーンは、広島、長崎への原爆投下の惨禍を被った日本人に核兵器を受け入れさせる重大な心理作戦であったことを示しています。