2011年4月10日(日)「しんぶん赤旗」

原発事故 そこが知りたい

スリーマイル島の場合 国際評価レベル5

1979年 炉心溶融・水素爆発

事故調査委 「安全神話」との決別強調


Q どんな事故だったの?

 A 1979年、米国ペンシルベニア州のスリーマイル島原発2号機で、周囲に放射性物質が放出される事故が起こりました。営業運転を始めてから3カ月後のことでした。国際原子力機関(IAEA)などの国際原子力事象評価尺度(0〜7)でレベル5とされる世界の原発史上でも重大な事故とされます。

 福島第1原発(沸騰水型)とは異なる、加圧水型軽水炉を採用している同原発で、同年3月28日午前4時、2次冷却水の主給水ポンプが停止したことが事故の発端でした。

 加圧水型原子炉は、原子炉内を循環する水(1次冷却水)が沸騰しないよう高圧にし、蒸気発生器を通して相対的に圧力の低い2次冷却水を加熱、沸騰させます。その蒸気でタービンを回し発電する仕組みです。(図)

 スリーマイル島原発事故では、主給水ポンプの停止とともに、補助給水ポンプが動き出しました。しかし、補助給水ポンプの弁が閉じたままになっていたので機能せず熱交換ができなくなって、原子炉内の温度と圧力が上昇。このため、圧力を逃がす弁が開いて原子炉が緊急停止しました。しかし、このとき圧力逃し弁が開いたままになってしまい1次冷却水の蒸気と高温水の流出が続きました。

 運転員がこのことに気づかずに、非常時に原子炉へ水を大量に注入する非常用炉心冷却装置や1次冷却水ポンプを停止するミスをおかすなどしたため、原子炉の水位が低下。原子炉が空だき状態になってしまいました。

 事故発生から、3時間半後に非常用炉心冷却装置を起動させ炉心は再冠水しましたが、この間、炉心の3分の2程度が露出し、炉心の一部が溶融します。また、燃料被覆管と蒸気が反応し大量の水素が発生し、炉心の冷却を制御することが困難になってしまいました。格納容器内に水素の一部を放出し、事故から16時間後に1次冷却水ポンプの運転にようやく成功しました。しかし、この間に建屋内で水素爆発が発生します。

 その後も1次冷却水中に大量の水素が残っていたため、水素除去の努力が続けられます。水素ガスがほぼ除去され、危機回避が宣言されたのは4月2日でした。

 事故から数年後原子炉を解体して様子を調べた結果では、炉心の45%が溶融していました。また、後の解析で、再冠水の際に、水素が大量に発生したことがわかりました。

Q 住民被害は?

 A 事故発生から約3時間後、1次冷却水の放射能が上昇し、核燃料の破損が明らかになります。その後、各地の放射線量が上昇、一般市民に対する緊急事態が発令されます。

 この事故による放射能は、原発から26キロ離れた地点でも検出されました。

 しかし、州知事が原発から8キロ以内の妊婦と学齢前の乳幼児の避難を勧告したのは、事故発生から2日後の30日でした。

 すでに一部の世帯が避難をしており、これを受け妊婦や乳幼児以外のかなりの数の住民も避難。混乱が生じました。この日の夜までに、10万人の住民が退避したともいわれています。

 核燃料の多くが損傷し、大量の放射性物質が冷却水に溶け出ました。冷却水から放出された放射性ガスが環境へ漏れでました。放出された放射性希ガスは約250万キュリー(1キュリーは370億ベクレル)、放射性ヨウ素131は約15キュリーと推定されています。

Q 事故の教訓は?

 A 事故後、米国では大統領命令で事故調査委員会が設置され、詳細な報告書が出されます。これは委員長の名前をとって、ケメニー報告書と呼ばれています。

 この報告書では、「原子力発電所は十分安全だという考えがいつか確たる信念として根を下ろすにいたったという事実がある。この事実を認識してはじめて、今回の事故を防止し得たはずの多くの重要な措置がなぜとられなかったのかを理解することができる」「こうした態度を改め、原子力は本来危険をはらんでいる、と口に出していう態度に変えなければならないと、当委員会は確信する」と述べています。

 安全だという「思い込み」、「安全神話」を改めることが、ケメニー報告書が強調した事故の最大の教訓でした。

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