2009年11月2日(月)「しんぶん赤旗」
核密約の新資料
安保絶対外交の始まり
解説
核兵器持ち込み密約に反する日本政府の発言に対し、密約の確認を求める米政府の繰り返しの干渉(1面所報)は、どのような結果を生んだのでしょうか。
米側の干渉は、1963年の際も、64年の際も、米攻撃型原子力潜水艦の日本初寄港問題をめぐって起こりました。
63年4月4日に核密約の内容を再確認した大平正芳外相とライシャワー大使との会談の場合、米側が同年1月に原潜寄港を正式に申し入れた問題に関する、日本政府の国会答弁が発端でした。
池田勇人首相は、核積載原潜の寄港を認めないと言明。志賀健次郎防衛庁長官は、米艦船・航空機による核兵器の持ち込みは事前協議の対象になると、密約に反する見解を示します。ところが、大平・ライシャワー会談後の答弁は一変。原潜寄港は「事前協議の対象にならない」との言明が繰り返されます。(表の(1))
64年の場合も同じです。
日本政府が同年8月28日に寄港受け入れを正式決定した原潜には近い将来、対潜水艦核ミサイル・サブロックが搭載されることが判明。鈴木善幸官房長官や椎名悦三郎外相らがサブロック積載の原潜寄港は事前協議の対象と述べます。しかし、9月26日のライシャワー・大平会談後の国会答弁は大きな後退を見せるのです。(表の(2))
こうした一連の経過は、米政府の圧力に唯々諾々と言いなりになって国会答弁まで変えてしまう日本政府の対米追随ぶりを示すとともに、日米安保絶対の「思考停止」外交の始まりとなります。
日本政府の核持ち込みと事前協議をめぐる国会答弁はその後、日米の共謀で、米国との「信頼関係」を強調しつつ、“米側から事前協議の申し入れがないので核持ち込みはない。日本側からあえてただすつもりはない”というものに定着していくのです。
一方で、日本政府が核積載艦船の日本寄港が事前協議の対象になると、密約に反する答弁をせざるを得なかったのには、日本国民のたたかい、野党の徹底した追及がありました。
例えば、在日米大使館の機密電報(64年3月9日)は、野党議員が米艦船の核持ち込み問題で「大平(外相)を窮地に追い込むことに成功」したと指摘しています。
そこには、日本国民にウソをつき続けてひそかな核持ち込みを保証しようとした核密約の本質的矛盾が示されています。(榎本好孝)
(1)1963年
池田勇人首相「核弾頭を持った潜水艦は寄港を認めない」(3月6日、参院予算委員会)
志賀健次郎防衛庁長官「もし核弾頭を装着したものを持ってくる場合には必ず事前協議に付せられるべきだと信じているし、アメリカと固い約束をしている」(3月2日、衆院予算委員会)
【4月4日に大平・ライシャワー会談で核密約を確認後】
大平正芳外相「アメリカも日本の意向に反してそういう(核持ち込みの)要請をするつもりはないという約束になっているので、事前協議という場面が物理的に出てこない仕組みになっている」(5月14日、参院外務委員会)
(2)1964年
鈴木善幸官房長官「サブロックを積載した米原子力潜水艦の寄港は事前協議の対象であり、寄港は認められない」(9月2日、記者会見)
椎名悦三郎外相「サブロックが核弾頭のみに限定する方針に変わった。核兵器を積んでいる限りは事前協議の対象になる」(9月3日、参院外務委員会)
【9月26日の大平・ライシャワー会談後】
椎名外相「(原潜がサブロックを)積んでいないことがどうして分かるかという質問だが、これは両国の信頼関係である。日米安保条約を締結している以上、ことごとに猜疑(さいぎ)心を働かしていたら、この協約体制は一朝にして崩れる」(10月6日、衆院予算委員会)

