2009年4月28日(火)「しんぶん赤旗」

抵抗の漁師、今も

60年代、沖縄・名護の軍港化阻止


 米軍新基地計画が進む沖縄県名護市辺野古崎。その北側、大浦湾では米軍占領下の一九六〇年代にも米軍による軍港、飛行場建設の動きがありました。建設断念に追い込んだのはウミンチュ(海人・沖縄方言で漁師)でした。「大事な漁場、大浦湾を米軍に渡せない」と今も基地反対を貫くウミンチュ。きょう二十八日はサンフランシスコ条約によって沖縄が本土から切り離され、米国の支配下に置かれてから五十七年、新基地建設反対の源流、「老人と海」を追いました。(山本眞直)


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(写真)「大浦湾は最高の漁場だよ」と太鼓判をおす安里文男さん=名護市の汀間漁港

 「アオブダイやイカなどが取れる豊かな漁場だよ」。大浦湾の汀間漁港が見渡せる自宅の庭先で、刺し網の手入れをする安里文男さん(82)。大浦湾では現役最高齢のベテラン漁師です。

□消えぬ記憶

 安里さんには消えない記憶があります。

 「ドカーン、ドカーン」。大音響とともにあがる水柱、押し寄せる大波。安里さんの乗ったくり舟は大きくゆれました。「あのときは転覆するかと思った。怖かったよ」と記憶をさぐる目が翳(かげ)ります。

 米軍は六二年四月と六九年七月の二回、大浦湾で爆破を強行しました。「演習をやるから出漁するな」と一方的に通告。しかしそれは口実で、キャンプシュワブの大浦湾奥深くに米軍艦船が自由に出入りできるように海底の障害物、サンゴ礁などを取り除くためだったのです。

 爆破で魚介類が大量死しました。漁獲高は大幅に減少しました。

 米軍は基地建設に向けて、ウミンチュなどの土地取り上げに動きだしました。米軍の測量部隊が六五年から六七年にかけて、久志村(当時)に対し測量を通告。対象は、嘉陽、安部、三原など六百四十一万平方メートル(約百九十四万坪)におよぶ広大な地域でした。

 しかし米軍は基地化を断念せざるを得ませんでした。ウミンチュなど県民の強い抵抗です。伊江島、昆布など沖縄県内各地での土地取り上げ反対闘争の高まり、なによりも島ぐるみの祖国復帰闘争による七二年五月十五日の沖縄の施政権返還がありました。

□新たな装い

 ところが米軍は、ウミンチュなどの抵抗で“お蔵入り”した計画を、「普天間移設」という新しい装いで再登場させたのです。

 絶滅寸前のジュゴンを守れ、と新基地計画に反対してアメリカで提訴したジュゴン裁判などで、それを裏付ける米側資料の存在が明らかになりました。同裁判の原告で建築家の真喜志好一さんが入手しました。

 それによると米軍は六六年に辺野古に海兵隊の飛行場計画、大浦湾の軍港化を計画していました。米海兵隊の普天間基地移設のための「運用構想」(九七年作成)は「六六年の調査に基づき」と一連の基地計画との連続性を隠しません。

 安里さんは今回の新基地建設でも、防衛省による環境調査のための作業船提供を「金は一時。大浦湾を壊す作業に協力できない」と拒否してきました。

 六〇年代のウミンチュの反対運動を当時、沖縄人民党(七二年に日本共産党と合流)の機関紙「人民」の記者として取材した知念忠二さん(74)=元日本共産党宜野湾市議=は指摘します。

 「アメリカは野蛮な米軍支配下でも大浦湾を軍港化、周辺一帯を基地化することができなかった。ところが二十一世紀初頭に同盟国(日本政府)の税金で辺野古とグアムに復活させようとしている。しかし長年のたたかいの伝統をもつ大浦湾周辺の漁民と住民、辺野古の海上基地建設を阻止した県民、内外世論はこの無謀を決して許さないだろう」

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