2008年11月15日(土)「しんぶん赤旗」

廃仏毀釈とは? その後の神道と仏教の関係は?


 〈問い〉 奈良の山辺の道沿いに、法隆寺に匹敵するお寺が明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で壊されたという跡がありました。廃仏毀釈とはどんなものだったのですか? その後、神道と仏教の関係は?(埼玉・一読者)

 〈答え〉 廃仏毀釈(棄釈)とは、明治維新政府の神道国教化政策にともなっておきた仏教の抑圧・排斥をさします。

 1868(明治元)年3月、新政府が「祭政一致」の立場から神道の国教化をはかり、一連の神仏分離令をだしたのを契機に、政府が設置した神祇官(じんぎかん)や各地の神職に扇動された勢力が寺院を襲撃し、僧侶資格を奪うなど、仏教にたいする排撃運動がおこりました。寺院の廃止や仏像の破壊、仏事の禁止などもおこなわれました。奈良の興福寺では、五重塔を解体し薪(まき)として売却しようとする企てもすすめられました。それまで神仏習合(神と仏教とが混ざり合っていること)だった多くの神社では、仏教的なものをひきはがす動きがひろがりました。

 こうした仏教排斥にたいして、真宗門徒などの廃仏反対運動が起こり、政府も廃仏毀釈は朝廷の望むところではないと弁解するなど、政策的な手直しにつとめ、この騒動は鎮静化にむかいました。こうして神道国教化政策は変転しますが、政府は1872(明治5)年4月には、通達で仏教寺院に神道の布教を命ずるにいたります。

 その後、明治政府は、軍人勅諭(82年)、明治憲法(89年)、教育勅語(90年)によって、全国民に神格化された天皇への崇拝と神社参拝を強要しました。国家神道体制のもとで格付けされた神社の上級神職は公務員化しました。

 僧侶の多くは、仏教の教えとともに天皇への忠誠を説きながら、旧檀家(だんか)制度に依拠して寺院と教団を維持しました。国家神道体制のもとで、日本は軍国主義と侵略戦争の道を歩み、戦時体制下では「皇道仏教」も主張されました。

 国家神道体制は第2次大戦の敗北で破たんします。祭政一致と専制的天皇制の否定にたち、内心・信教の自由と政教分離の原則が明記された現憲法が成立しました。国家から分離された多くの神社は、神社本庁を結成し、仏教寺院と対等の宗教法人となって現在にいたります。神社本庁指導部は神道国教化をふくむ改憲運動を推進しています。

 神道の束縛から解放された仏教では今日、靖国神社への首相の公式参拝に反対し、平和の声をあげている伝統仏教教団が少なくありません。(平)

 〔参考〕藤谷俊雄「国家神道の成立」(『日本宗教史講座』第一巻所収)三一書房、安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書

 〔2008・11・15(土)〕


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