2008年8月23日(土)「しんぶん赤旗」

近衛兵の反乱、竹橋事件とは?


 〈問い〉 明治時代に起きた竹橋事件とはどんな事件だったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 いまから130年前のきょう、1878年(明治11年)8月23日夜、天皇を護衛する近衛砲兵大隊の兵士ら300人余が蜂起(ほうき)、竹橋の兵営から、天皇に強訴するため、仮皇居になっていた赤坂離宮に迫りました。日本陸軍史上ただ一つの兵士の反乱でした。反乱は短時間で鎮圧され、2カ月後、関係者全員の取り調べも終わらないのに軍事裁判で53人に死刑判決、即日、越中島(現在の東京・江東区)の練兵場で銃殺されました。処刑された兵士の平均年齢は24歳でした。

 以後、事件は無知な兵士たちが起こした暴動として、権力によって歪曲(わいきょく)され、真相が覆いかくされてきました。しかし、事件は、西南戦争の恩賞への不満を直接のきっかけとしながらも、それにとどまらない広がりがあったことが戦後、研究がすすむなかでしだいに明らかになってきています。1987年には、東京・青山霊園にある旧近衛鎮台砲兵之墓の隣に事件殉難者の鎮魂のための「碑」もつくられました。澤地久枝さんが書いた「碑文」には次のように記されています。

 「…兵士たちは徴兵によって陸軍にとられ、その多くは、前年の西南戦争の戦火をくぐりぬけて命をひろっている。徴兵制度への根本的疑問、明治維新以後の政治に対する不満が、天皇への直訴をふくむ行動へと兵士たちを駆りたてていった。生まれ在所の百姓一揆の伝統、のちの自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる。…たたかい、かつ踏みにじられた明治の青春の記念としていまここに碑を建て、『竹橋事件』が後世につたえられるべき火となることを願う。この碑は、遺族をはじめ事件にかかわったわれら一同の反戦平和への悲願の証しでもある」

 蜂起した兵士たちは、近衛砲兵大隊の内山定吾少尉(無期流刑から後に大赦)の「革命とは、政府の不善なるを、他より起ちて改革するものにて、不良の事にあらず。たとえば王政維新の如きものなり。…故に革命は可なり」という言葉に共感、合言葉や旗印などを決めていたといわれます。これが明治政府に与えた衝撃は大きく、以後、参謀本部の政府からの独立、憲兵の設置、「軍人勅諭」の制定など天皇絶対の軍隊づくりが急ピッチですすめられます。(喜)

 〈参考〉竹橋事件百周年記念出版編集委員会『竹橋事件の兵士たち』(現代史出版会)、麻生三郎『竜の軌跡』(ラテイス)、澤地久枝『火はわが胸中にあり』(角川書店)

 〔2008・8・23(土)〕


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