2007年4月9日(月)「しんぶん赤旗」

ゆうPress

希望の歌 届けたい

チェルノブイリ原発事故で奪われた故郷思って

被災者救援呼びかけるナターシャ・グジーさん


 透き通るような伸びやかな歌声――ウクライナ出身のナターシャ・グジーさん(27)は、日本を拠点に活動する歌手です。ウクライナの伝統的な弦楽器であるバンドゥーラの奏者でもあります。六歳のとき、チェルノブイリ原子力発電所事故で放射線を浴びました。歌手活動をしながら、原発事故の被災者救援を呼びかけています。歌に託す思いを聞きました。ナターシャさんは流ちょうな日本語で答えてくれました。(菊池友希子)


 ――バンドゥーラを弾きながらの歌、とても心に染みます。

 バンドゥーラの音色は、寂しげだけど、勇気づけられ元気にさせてくれます。子どものころは、悲しい気持ちになったときにバンドゥーラを弾くと、つらいことが忘れられました。聴いてくれる人たちにも希望が生まれたらと思って弾いています。

 ――事故当時のことを話していただけますか?

 私が六歳のときでした。事故は夜中に起きたのですが、私たち住民には何も知らされなかったので、次の日は普通に生活していました。子どもたちは学校に行き、外で遊んでいました。その次の日に「大した事は起きていないが、三日間だけ街を離れるように」と言われ、私たちは荷物を何も持たずに街を出ました。まずおばあさんの家へ。それからチェルノブイリから百キロメートル離れた首都のキエフへ移りました。私の楽しい子ども時代とふるさとが奪われてしまったと感じています。

被ばく者として

 ――コンサートでは原発事故のお話もされるんですね。

 原発事故の被ばく者の一人として、二度と同じようなことが起こらないように、事故から二十一年たったのに、いまも苦しむ人がいることを伝えなければと思っています。原発は人間が生活していくために必要だったとしても、事故が起きると犠牲が大きすぎます。取り返しのつかないことになるということを知らなければいけないと思います。

 原発で働き、事故処理にあたったため被ばくした父は病気で、父の同僚には亡くなった人もたくさんいます。被ばくした同年代の友達が重い病気になったり、亡くなった知り合いもたくさんいます。同年代の人たちは結婚して子どもを出産する年齢ですが、障害を持つ子どもも生まれています。

 ――音楽は小さいころから?

 音楽の勉強は子どものころからしていました。家族は音楽好きで、知り合いや友達、隣の家の人たちが来るとみんなで歌って、にぎやかであたたかい家族でしたね。

 私は四人姉妹の三番目です。姉がバンドゥーラを習っていて、すてきな音色だと思って自分も習い、その後、音楽学校に入りました。

 父は事故後も十三年間原発で働き続けたんですが、体調を崩し仕事ができなくなってしまいました。そのため家族の生活のために、私は音楽の道をあきらめて、一般の会社で勤めていたんです。

日本全国で演奏

 ――日本に来られた理由は?

 初めて日本に来たのは十六歳のときです。キエフで、被ばくした子どもが集まって歌ったり踊ったりして元気になりましょうというグループに入っていたんですね。そのグループが日本に呼ばれて各地で救援コンサートをしたんです。

 グループのメンバーとして二回来日しました。その後、音楽をあきらめてしまったことを知ったチェルノブイリ子ども基金の方から「一人で歌ってみませんか」と誘われたんです。三カ月間、全国で二十九回のコンサートをしました。日本がとても好きになりました。

 すごく日本に来たいと思っていたところ、十九歳のときに子ども基金の招きで来日することができ、語学学校に通いながら救援コンサートを始めました。日本語の難しさや漢字に自分の国の言葉にはないものを感じ、日本語にひかれました。それと、一度はあきらめた音楽の道だったんですが、もう一度音楽の勉強をするチャンスを与えられたと思いました。

 ――日本の印象はどうですか?

 日本に来て八年目になります。日本の好きなところは、自分のことより他人のことを思うところですね。チェルノブイリ原発事故のことにも目を向けてくれる人がたくさんいます。遠い国のことなのに、そういう他人のことを考える優しさ。また自然にあふれているところもいいですね。

 ――これからの夢は?

 歌を通してチェルノブイリ原発事故のことを知ってもらえたら、また忘れてしまった人には思い出してもらえたらと思っています。私の演奏がそのきっかけになればという思いで活動しています。もっと自分を磨き、バンドゥーラももっと勉強して、伝えたい思いをお客さんの心に届けられるようにできればいいですね。長く歌い続け、自分にできることをやっていこうと思っています。


 ナターシャ・グジー 8歳から音楽学校でバンドゥーラを学ぶ。96年と98年に「チェルノブイリ子ども基金」の招きで民族音楽団のメンバーとして来日し、全国で救援コンサートを行う。2000年から日本の語学学校で日本語を学びながら、声楽も学ぶ。同時に日本で本格的に音楽活動を開始。04年にCDアルバム「Nataliya(ナタリア)」、06年に「こころに咲く花」を発表。テレビ・ラジオなど多方面で活躍中。


地図

 チェルノブイリ原子力発電所事故 一九八六年四月二十六日、ウクライナ共和国(当時はソビエト連邦)のチェルノブイリ市近郊にあった原子力発電所の4号炉が爆発。原子炉内の放射性物質が上空に舞い上がり大気中に大量に放出。北半球全域に拡散しました。事故現場から三十キロメートル以内は居住が不可能になり、周辺の住民二十三万人が移住。現在も五百万人が放射能汚染地域に住んでいます。事故当時子どもや青少年だった四千人が甲状腺がんと診断されました。がんによる死者は数万人と予測されています。


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派遣6カ月超えたが有給休暇の話がない

  私は派遣社員です。仕事は三カ月更新ですが、気に入ってます。先日、二回目の更新を終えたところですが、有給休暇の話はありませんでした。確か、半年過ぎたら与えられると聞いているのですが…。こちらから言い出していいものでしょうか。(25歳、女性。埼玉県)

8割以上出勤で請求できる

  有給休暇は、派遣社員かパート、正社員という雇用形態にかかわりなく、一定の条件を満たした労働者に対して、雇用者が与えなければならないものです。一定の条件とは、雇用期間が六カ月以上継続した場合で、労働者が全労働日(出勤すべき日数)の八割以上出勤した場合です。

 有給休暇は、週三十時間以上働く者については一年に最低で十日間です。(週三十時間以下の短時間労働者も、労働時間・日数に比例した有給休暇がとれます)

 あなたは、雇用期間が六カ月を超えたのですから、八割以上出勤していれば有給休暇を請求できます。

 有給休暇は働く者の権利ですから、雇用者の承認はいりません。事前にいつとるかを届け出て休むことができます。

 派遣社員の場合、有給休暇を与える義務があるのは派遣元であって、派遣先は休むことを妨げることはできません。

 ただし、あなたがその日に休むことで、仕事上非常な不都合が生じる場合に限り、派遣元が別の日に休みをとってほしいと請求すること(「時季変更権」と言います)が可能です。

 ただ、実際には仕事をしている派遣先の理解も必要でしょうから、あらかじめ派遣先にも連絡しておいた方がいいでしょう。

 有給休暇を請求したことで不利益な扱いを受けた場合は、一人でも加入できる組合や労働基準監督署等に相談してください。


弁護士 岸 松江さん

 東京弁護士会所属、東京法律事務所勤務。派遣CADオペレーター、新聞記者などを経て弁護士に。好きな言葉は「真実の力」。


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