2007年4月1日(日)「しんぶん赤旗」

ワールドリポート

建設進む ホーチミン国道(全長3167キロメートル)

戦争から平和の動脈へ


写真

(写真)ホーチミン国道=クアンビン省

 うっそうと樹木が生い茂り、野鳥がさえずるチョンソン山脈の間をぬって真新しい舗装道路が走っています。ベトナムが二十一世紀最初の大型プロジェクトとして二〇〇〇年に着手したホーチミン国道です。中部クアンビン省のミークオンからハティン省のミンソンまで約二百キロを車で走りました。(ベトナム中部ハティン省=鈴木勝比古 写真も)

 ホーチミン国道は完成まで二十年を予定。第一段階(二〇〇〇―〇七年)はハノイに隣接するハタイ省から中部高原のコンツム省までの開通。第二段階(〇七―一〇年)は中越国境のカオバン省から南端のカマウ省まで全線開通。第三段階(一〇―二〇年)は全線の高速道路化です。全長三千百六十七キロになります。

 ランソン省からカマウ省まで主に海岸地帯を走る1号国道と山岳・丘陵地帯を走るホーチミン国道は南北に長い地形のベトナムの大動脈となります。要所では二つを結ぶ道路を建設・補強します。

 1号国道は急速な経済発展による交通・輸送量の増加で飽和状態にあり、台風の襲来でしばしば切断されます。二つの幹線道路が並行して走れば、安定的な輸送・交通が保障できます。

高い山なみ続く

写真

(写真)フォンニャー鍾乳 洞=クアンビン省

 クアンビン省のラオス国境地帯。手前には石灰岩の切り立った低い山々がつながり、その後方にチョンソンの高い山なみが続きます。所々に「国境検問所」の標識。ラオス国境を越える貨物運搬車をチェックしています。この区間は開通したばかりで、自動車の通行はまばらです。

 舗装はすばらしく、時速百キロ走行も可能ですが、牛や水牛が道路の真ん中をゆっくりと歩いているので速度をゆるめ、よけながら通ります。原始林がびっしりと山肌を覆っており、人がわけいるすき間がありません。ガソリンスタンドも、修理店もレストランもありません。「車が故障したら、お手上げです」と運転手のズンさんが語りました。

 ミークオンから約三十キロ北のスアンソン橋の近くにだけレストランが立ち並んでいます。ユネスコ世界遺産のフォンニャー・ケーバン国立公園の起点です。大小約三百の鍾乳洞があります。東南アジア最大級のフォンニャー鍾乳洞観光は船を使って、二時間と四時間の参観コースがあります。貧しいクアンビン省の貴重な観光資源です。

 レストランを経営するマイ・スアン・ヒエンさん(62)は、かつてベトナム戦争中の南北を結ぶ補給路ホーチミン・ルートの建設・維持・管理にあたった名高い「五五九部隊」の兵士でした。一九五九年五月に編成された部隊です。「米軍機の爆撃でどれだけ仲間が死んだかわかりません。私も頭を負傷しました。今も痛みます」とけがのあとを見せました。「戦争中は武器や弾薬を隠した鍾乳洞が観光に役立つとは!」と感慨もひとしおの様子でした。

戦争犠牲者の碑

 ミンソンでホーチミン国道と海岸沿いの1号国道に向かう15号国道に入りました。この15号国道もかつてのホーチミン・ルートの一つです。その中ほどに「ドンロック三差路」があります。一九六八年七月二十四日午後四時、米軍機の爆撃で青年突撃隊の女性分隊の十人全員が犠牲となりました。

 分隊長のボー・ティ・タンさんが最年長の二十四歳。最年少は十八歳でした。十人が犠牲になった爆弾の穴が今も残っています。記念碑が建ち、十人のお墓もあります。記念館は当時の隊員たちの写真、使った道具や資料を展示していました。

 記念碑の前で若者たちが写真を撮っていました。ハノイやハイフォンから来たといいます。ハノイの郵便専門学校を卒業したばかりのドアン君(18)は「僕たちと同じ年ごろの青年たちが勇敢にたたかって犠牲になったことにすごく感動しています」と語りました。

 戦士や青年たちが多大な犠牲を払って切り開いたホーチミン・ルートが今、平和の時代のベトナムの発展を支えるホーチミン国道として再登場しています。


表

もどる
日本共産党ホーム「しんぶん赤旗」ご利用にあたって
(c)日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 TEL 03-3403-6111  FAX 03-5474-8358 Mail info@jcp.or.jp