2006年9月24日(日)「しんぶん赤旗」

日本の戦争―領土拡張主義の歴史

不破哲三さんに聞く

第4回 南進作戦と日米交渉


新たな野望の実現をめざして

 ――それで、一九四一年が、いよいよ新たな侵略的野望の実行の年になったわけですか。

 不破 いや、南進作戦が国策となると、戦争の準備はただちに始まるのです。海軍は、一九四〇(昭和十五)年の九月段階に、対米戦争をふくめ南方作戦の準備をほぼ完了したと言っています。陸軍は、それまで新たな戦線としては北進(対ソ戦)を想定していたわけですから、切り替えに時間がかかるのですが、陸軍も、作戦計画の研究・立案から始めて、その年のうちには、具体的な手を次々と打ちはじめます。

 その当面の大目標は、フランス領インドシナ(仏印)に日本軍を進出させて、南方作戦の足場を確保することでした。陸軍の南方作戦は、まず英領マレー半島を攻略し、続いてジャワ、スマトラ、ボルネオなど、蘭領東インドに進撃する、というものでしたから、どうしても、仏印を日本軍の前進基地として手に入れる必要があったのです。

 仏印の確保は、まず北部仏印、ついで南部仏印と段階的におこなわれましたが、そのための対フランスの外交交渉を四〇(昭和十五)年六月からはじめて、四〇年九月、一応は「平和的進駐」に成功しました。「平和的交渉」といっても、「仏印側が抵抗した場合においては武力を行使して目的を貫徹する」と政府方針に最初から明記したうえでの交渉で、まさに“武力の威嚇”による交渉でした。名目は、蒋介石政権への援助ルートの遮断などが目的だと説明されましたが、実質は明らかに南進のための布石でした。

「武力を以て貫徹」うたう

 不破 次は、いよいよ本命の南部仏印の獲得です。四〇年の十一月に仏印とタイのあいだに国境紛争が起こったのを見て、日本はその「調停」にのりだしましたが、その狙いは見え見えでした。タイには恩を売ってここを日本の軍事的な勢力圏に組み込み、フランスにたいしては南部仏印への日本軍の進出を認めさせることでした。

 この時も、最終段階で政府・軍部が決めた方針には、「仏国政府または仏印当局者にして我が要求に応ぜざる場合には武力を以て我が目的を貫徹す」ることを、はっきりうたっていました(大本営政府連絡会議〔六月二十五日〕「南方施策促進に関する件」『主要文書』)。フランス側はふたたび威圧に屈して、七月二十八日、日本軍は南部仏印に進出しはじめます。

 こうして手に入れた南部仏印は、四一(昭和十六)年十二月八日の開戦の時、日本軍の予定の計画どおり、マレー半島作戦のための前線航空基地として働きました。

真剣な問題意識なしで始めた日米交渉

 ――こういう作戦と並行して、日米交渉が始まるわけですよね。

 不破 日本側の文書を読んで、これぐらい奇妙な交渉はないのです。

 日米関係の悪化の根源は、日本の中国侵略にありました。しかも、その日本が、ヨーロッパでの侵略国ドイツと軍事同盟を結び、自分は南方にさらに侵略戦争を拡大しようとしている。こういう状況を見て、これまでは輸出制限などの経済制裁を「かなり手控えて」いた(四〇〔昭和十五〕年九月の御前会議での原嘉道枢密院議長の表現)アメリカが、“これ以上侵略国への経済支援はできない”といって、禁輸などの措置を強化してきた、これが、日本がぶつかった“日米関係悪化”の現実でした。

 ですから、日米関係をまじめに打開しようと思ったら、中国侵略の戦争や次の南方進出について、日本として、なんらかの再検討の努力をすることが必要だったはずですが、そういう真剣な問題意識などなにもなしの日米交渉でした。

米側は侵略政策の再検討求める

 不破 四一(昭和十六)年一月、松岡外相は、野村吉三郎元外相を大使としてアメリカに送りましたが、出発にあたって松岡が与えた訓令は、“日本にとっての大東亜圏の必要性をよく説明し、大東亜建設への協力を求めてこい”という程度のことで、まったく現実ばなれしたものでした。

 ところが、アメリカの国務長官ハルは、四月の野村との会談で、今後の日米協議の基礎として、(1)領土保全・主権尊重、(2)内政不干渉、(3)機会均等、(4)太平洋現状維持の四原則を提起しました。これは、これまでの侵略政策の根本的な再検討を日本に求めたものでした。

 その後の五月―六月の交渉でも、ハルは、より具体的に、「日本は太平洋の西南区域で征服のための武力行使はしないことを保証する用意があるか」「日本政府の心中に中国からの軍隊撤退の時期についてなんらかの決定的な計画はあるか、その撤兵の実際の保証はあるか」「『防共』を名目として日本軍を無期限に駐留させる政策は極度に重大な点だ」など、日米協議の核心にかかわる問題を、次々と提起しました。

 しかし、日本の政府・軍部の側には、これらの問題提起に対応する用意はありませんでした。

対米英戦を決めた四回の御前会議

交渉序の口での「対英米戦辞せず」の決定

 不破 それどころか、七月二日、日米交渉がまだ序の口ともいうべきこの時点で、日本は、南方の資源獲得のためには「対英米戦を辞せず」という重大決定をおこなったのです。

 それが、七月二日の御前会議での次の決定でした。

 「帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し、その他各般の施策を促進す。

 これがため対英米戦準備を整え、まず『対仏印、タイ施策要綱』〔四一〔昭和十六〕年一月三十日連絡会議決定〕および『南方施策促進に関する件』(六月二十五日連絡会議決定)により、仏印およびタイに対する諸方策を完遂し、以て南方進出の態勢を強化す。

 帝国は本号目的達成のため対英米戦を辞せず」(「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」 『主要文書』)。

 この御前会議は、六月二十二日、ドイツが突如、全線にわたるソ連攻撃を開始し、独ソ戦が起こって十日後に開かれた会議でした。この間、一部に対ソ戦優先論が浮上して議論になったなかで、戦争拡大の主方向はあくまで昨年来準備してきた南方作戦にある、ということがこの会議で確認されたのですが、その機会に、「対英米戦を辞せず」というところまで一気に踏み切ってしまったのでした。

 ここには、戦争が主で交渉は従という日本側の考え方があからさまに現れていました。こうして、この会議が、対米英戦争について決定した最初の御前会議となったのです。

 ――ここで“靖国派”の好きな「自存自衛」という言葉が出てきますね。

 不破 前にも書いたのですが(「『自存自衛』は侵略主義の旗印」二〇〇五年、『日本の前途を考える』所収)、この言葉は、日本が南方進出作戦を問題にしだしたころから使われだすのです。日中戦争は悪者を懲らしめることを戦争目的にしたが、東南アジアに攻め込むのに同じ口実は使えない、しかしいくらなんでも「自衛」とは言えないから、日本が生きるために必要な資源をとる、これが「自存」だという理屈を考えたのでしょうね。さきほど紹介した北部仏印進駐の決定の時にも、南部仏印進駐の時にも、すべて看板は「自存自衛」でしたよ。

九月御前会議で開戦の日程を決める

 ――それから、いよいよ戦争準備に拍車がかかるのですね。

 不破 この御前会議のあと、外相が松岡から豊田貞次郎に交代します(七月十八日・第三次近衛内閣)。松岡外相の存在が日米交渉の矛盾の焦点だと考えた結果ですが、もちろん、そんなことで矛盾が打開できるわけではありません。一方、御前会議が決定した戦争準備の方は着々と実行がすすみ、七月二十八日、日本は、アメリカの事前の警告を無視して、南部仏印進駐を強行しました。この行為は、ただちに対日石油輸出の禁止という制裁措置をまねきました(八月一日)。

侵略行為認めない「大西洋憲章」

 不破 八月六日、近衛首相は、野村大使を通じて、近衛=ルーズベルト首脳会談での局面打開を提案します。これも、打開策を持たないままでの提案でした。しかも、この時期は、ルーズベルトが大西洋上で英首相チャーチルと会談し、世界戦争を終結させる国際的原則について協議している最中でした(大西洋会談)。この会談の結論として八月十四日発表された「大西洋憲章」は、いっさいの侵略行為とその結果を認めないことを、「両国国策の共通原則」として内外に明らかにしたのです。

 「第二に、両者は、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土変更の行われることを欲しない。

 第三に、両者は、すべての国民に対して、彼らがその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」

 これは、日本にその侵略政策そのものの再検討を、いやおうなしに迫るものでした。

 ところが、アメリカの態度がここまで明確に表明されても、日米交渉にのぞむ日本の交渉態度には、そんな切迫感は見られません。

 九月六日、ふたたび「御前会議」が開かれ、「帝国国策遂行要領」が決定されました。ここで、「十月下旬」という開戦の日程的な予定が決まったのです。大事な決定ですから、全文を紹介しておきましょう。

 「一、帝国は自存自衛をまっとうするため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意のもとに、おおむね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す。

 二、帝国は右に並行して米、英に対し外交の手段をつくして帝国の要求貫徹に努む。

 対米(英)交渉において帝国の達成すべき最少限度の要求事項ならびにこれに関連し帝国の約諾しうる限度は別紙のごとし。

 三、前号外交交渉により十月上旬頃に至るもなお我が要求を貫徹しうる目途なき場合においてはただちに対米(英蘭)開戦を決意す。

 対南方以外の施策は、既定国策にもとづきこれをおこない、とくに米ソの対日連合戦線を結成せしめざるにつとむ」(『主要文書』)。

対米交渉の方針は投げやり

 不破 「別紙」にある「最少限度の要求事項」を見ると、その内容のひどさに驚きます。

 「米英は帝国の支那事変処理に容喙(ようかい・口を出すこと)しまたはこれを妨害せざること」。「米英は極東において帝国の国防を脅威するがごとき行動にいでざること」。「米英は帝国の所要物資獲得に協力すること」。中国問題は日本の勝手にまかせて口をだすな、戦争に必要な物資は供給せよ、これが「最少限度の要求」だというのです。交渉など問題にしないという投げやりの方針でした。

 しかも、十月上旬までにこの要求をアメリカが承認するメドがたたなかったら、「ただちに戦争を決意する」。これが、首脳会談を提案したあとでの、戦争を指導する最高会議における決定なのですから、驚くほかありません。

 この決定をうけて、軍はただちに動きました。海軍の戦争準備は早くから完了していましたが、陸軍についても、大本営陸軍部は、九月十八日、作戦準備の命令を発し、南方作戦兵力の移動を開始しました。対米英戦争への最後の歯車がまわりはじめました。

 日米交渉に進展のないまま、十月下旬という期限のせまるなかで、自信を失った近衛は、十月十六日、政権を投げ出しました。代わりに、政権をひきついだのが、軍部を代表する陸軍大将東条英機でした。

最後の対米交渉とは?

 不破 東条新内閣の成立をうけて、十一月五日、三たび御前会議が開かれました。ここでの決定は、前回よりもさらに進んだもので、十二月上旬の開戦が確定されたのです。決定の全文は次の通りです。

 「一、帝国は、現下の危局を打開して自存自衛を完(まっと)うし、大東亜の新秩序を建設するため、この際対米英蘭戦争を決意し、左記措置をとる。

 (一)武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す。

 (二)対米交渉は別紙要領によりこれを行う。

 (三)独伊との提携強化をはかる。

 (四)武力発動の直前、タイとの間に軍事的緊密関係を樹立す。

 二、対米交渉が十二月一日午前零時までに成功せば、武力発動を中止す」(『主要文書』)。

 これは、前回の決定とは違って、戦争の開始を決断した決定でした。

 対米交渉は一応書かれており、野村大使への援助として、十一月六日、この決定をもって来栖特使がアメリカに派遣されました。この来栖特使とは、一年前にベルリンで日独伊三国同盟に調印した人物ですから、この人選をみても、この交渉にのぞむ日本側の姿勢がうかがわれます。実際、実情を知るもので交渉の今後に期待をかけたものは、誰一人としていませんでした。

 だいたい、「別紙要領」に書かれた交渉案(甲案)は、戦争が終わったあとも、日本軍が中国の北部とモンゴル地域および海南島に居座り続けることを柱としたもので、一九三七年に蒋介石政権に提示して黙殺され、一九四〇年にカイライ汪兆銘政権にようやく押しつけた「講和条件」の焼き直しでした。それを、今度はアメリカを仲介役にして中国に押しつけようとする提案ですから、アメリカがそんな提案を受け入れないことは、日本側にとっても、百パーセント確実だったのです。

アジア・太平洋地域征服の戦争が発動

 不破 この決定から、作戦準備は大車輪で進行します。大本営海軍部は、十一月五日、連合艦隊に、決定ずみの対米英蘭作戦準備を実施せよとの命令を発し、大本営陸軍部は、六日、南方軍に南方要域の攻略を準備せよとの命令を発しました。ハワイの真珠湾急襲の任務を受けた機動部隊も、隠密裏に瀬戸内海から行動を起こし、十一月二十二日までには南千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結、十一月二十六日、真珠湾に向かって出港しました。

 十二月一日、開戦前の最後の御前会議が開かれ、次のことが決定されました。

 「十一月五日決定の帝国国策遂行要領にもとづく対米交渉ついに成立するにいたらず。帝国は米英蘭に対し開戦す」。

 こうして、十二月八日、日本軍は、東南アジア全域にわたる侵略戦争を開始するとともに、アメリカにたいしては真珠湾に先制攻撃による奇襲をくわえ、太平洋戦争に突入することになりました。一九四〇年、三国同盟とともにふくれあがってきた領土拡張主義の最後の段階――アジア・太平洋地域に大きく領土的野望を広げた「大東亜共栄圏」建設の征服戦争が、ついに発動したのです。

“靖国派”のアメリカ責任論と歴史の事実

 ――この交渉について、日本側の要求を拒否したハル・ノートが、戦争への決定打になったという説を、“靖国派”がしきりに流しています。

米国の態度は最初からはっきりしていた

 不破 この説のでたらめさは、これまで説明してきたことの経過がはっきり示しています。ハル・ノートは十一月二十六日に日本側に示されたアメリカ政府の回答ですが、日本の中国侵略は認めない、南方への侵略も認めないということは、ここで突然示されたものではなく、日米交渉にのぞむアメリカの基本態度として、最初からはっきりしていたことでした。

 とくにその最大の焦点をなすのは、中国からの日本軍の撤退の問題で、これが、アメリカは日本の駐兵を絶対認めないが、日本が絶対に譲れない問題だというのは、対米交渉の「最終」案なるものを決めた十一月五日の御前会議で東条首相自身が、声を大にして強調したところでした。

 東条「惟(おも)うに撤兵は退却なり。百万の大兵を出し、十数万の戦死者遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国幣(こくへい・資金)を費したり。この結果は、どうしてもこれを結実せざるべからず。もし日支条約〔カイライ政権との「日華基本条約」〕にある駐兵をやめれば、撤兵の翌日より事変前の支那〔中国〕より悪くなる。満州・朝鮮・台湾の統治に及ぶに至るべし。駐兵により始めて日本の発展を期することを得るのである。これは米側としては望まざるところなり。しかして帝国の言うて居る駐兵には万々無理なる所なし」(『資料編』)。

 ここで東条が予想していた通りの態度を、アメリカ政府は、ハル・ノートで示したのです。これには、なにも日本側が驚くことはなかった。それが分かっていたからこそ、軍部は、十一月五日の御前会議の開戦決断後、ただちにその実行方にとりかかったわけで、ハル・ノートをアメリカが示した十一月二十六日というのは、真珠湾攻撃をめざす日本の機動部隊が南千島から早朝に出撃したその日でした。

 歴史の事実に多少ともまともに向き合おうとするものだったら、日米交渉のこのなりゆきをもって、開戦の責任をアメリカになすりつけるような議論は、およそ口にできないはずです。

 (つづく)

 (次回は二十五日付で「『共栄圏』と悲惨な戦場」を掲載します)


 訂正 連載第二回(十七日付)の右ページ、「盧溝橋事件が北京近郊で発生」の小見出しがついた段落の末尾三行をつぎのようにさしかえます。

 「…七月九日、双方のあいだで停戦合意が成立、十一日、停戦協定が調印されました」

 また、「停戦協定を無視して全面戦争に突入」の中見出しのあとを「不破 ところが、十一日の夕刻、」と改めます。


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