2006年9月20日(水)「しんぶん赤旗」

日本の戦争―領土拡張主義の歴史

不破哲三さんに聞く

第3回 三国同盟と世界再分割の野望


ドイツの勝利で南進論ふくれあがる

 ――日本の中国侵略戦争は、やがて、勝利の見通しのない「泥沼」に落ち込みますが、そういうなかで、次の南進論は、いつごろから出てくるのですか。

 不破 本格的には一九四〇(昭和十五)年の中ごろですね。“靖国派”の議論で、四一年の東南アジア侵略の弁護のために、「ABCD包囲網」(アメリカ〔A〕・イギリス〔B〕・中国〔C〕・オランダ〔D〕が日本を包囲した)という話がよく持ち出されますが、あれは、四一(昭和十六)年の開戦直前に、政府と軍部が宣伝的にもちだしたもの。日本の南方作戦の計画は、その一年以上前から始まっているのですから、これでは、歴史がまったく逆さまになりますね。

 ――四〇年の中ごろに南進論が急に出てきたのは、どうしてですか。なにかきっかけになる事件があったのですか。

戦争資源の宝庫

 不破 ドイツが、四〇(昭和十五)年五月に、西部戦線での攻撃を開始して、ヒトラーご自慢の“電撃戦”で二カ月足らずの短期間にオランダ、ベルギー、フランスを席巻しました。その勝利が“ドイツといっしょにやれば、日本の戦争も前途が開ける”、“バスに乗り遅れるな”と、ドイツとの同盟ムードが一気に盛り上がったのですよ。

 東南アジアは、石油、ゴムなど戦争資源の宝庫ですから、もともと日本がのどから手が出るほど欲しい地域でした。しかし、そこはインドシナはフランス〔仏印〕、ジャワ、ボルネオ、スマトラ(現在のインドネシア)はオランダ〔蘭印〕、マレー半島(現在のマレーシア)はイギリスと、ヨーロッパ諸国の植民地でしたから、これまでは手を出すことができなかった。その本国が、みな、ドイツに攻めこまれてフランスやオランダは降伏し、イギリスもあわやというところに追いつめられている。持ち主(領有国)がいなくなって空き地になったんだから、いまこそ日本がその豊富な資源を手に入れるチャンスが訪れた。こうして、新たな領土拡張主義が、南方に向かってふくれあがりました。

四〇年七月の南方戦争計画

 不破 フランスの降伏から間もない四〇(昭和十五)年七月四日に、陸軍と海軍の中枢をなす人たちが集まって、新しい世界情勢に対応する方針を検討した会議の記録があります。

 この会議に提出された陸軍省案を見てみると、全東南アジアを制圧する南方作戦が、すぐにも取りかかるべきものとして立案され、その内容が、米国領であるフィリピン作戦が含まれていないだけで、あとは四一年十二月の実際の戦争そのままの構想であることに驚かされます(「『世界情勢の推移に伴う時局処理要綱』陸海軍協議」〔七月四日〕に提出された「陸軍省案」〔七月三日起案〕 朝日新聞社刊『太平洋戦争への道 資料編』)。

 そのおおよその内容は、次の通りです。

 (一)戦争準備はおおむね八月末を目途としてこれを促進する。

 (二)〔フランス領植民地〕仏印(「フランス領インドシナ」現在のベトナム、ラオス、カンボジア)(広州湾をふくむ)。中国援助をやめさせるとともに、日本軍の補給・軍隊通過・飛行場使用などに協力させる。状況によっては武力を行使することあり。南太平洋の仏領島しょは外交交渉で日本の領土になるよう処理する。

 (三)香港の攻略開始は、対英戦争を決意したのちに実行する。

 (四)〔オランダ領植民地〕蘭印(「オランダ領東インド」現在のインドネシア)はしばらくは外交的措置によりその重要資源確保につとめる。(「しばらくは」が意味深長。その意味は、最後の項でわかります)

 (五)〔戦争の基本方針〕「対南方武力行使」に関しては、内外の情勢全体を考えて、その時期・範囲・方法などを決定する。

 できるだけ武力はイギリスだけにしぼって、香港・英領マレー半島を攻略する。

 対米戦争はできるだけこれを避ける努力をするが、ついに武力を行使する場合があることを予期し、遺憾なくその準備をすすめる。

 蘭領インドには、外交施策をつくすが、状況によっては武力を行使して重要資源獲得の目的を達することもある。

 これは、陸軍の一部の作戦参謀が立案しただけのものではありません。記録には、「別紙陸軍案は参本〔参謀本部〕、陸軍省一致の意見にて大臣、次長に供覧、筋において異存なき旨の内意なり」と解説されていますから、軍首脳部の全体の同意を得てつくった戦争構想なのでした。

 フランス降伏の翌月、陸軍首脳部は早くもこういう南方作戦を立案し、その準備にとりかかろうとしていたのです。

ドイツの事前の了解を求めて

 不破 南方作戦が具体化してくると、盟友として期待しているドイツとの関係で、新たな懸念が生まれてきました。東南アジアに植民地を持っていた国ぐに――その本国がなくなったり危なくなったりしているから、日本はそこへの進出を考えたのですが、本国であるフランスやオランダを屈服させ、またイギリスを屈服させようとしているのは、ドイツです。そのドイツが、自分の権利だといって東南アジアに口を出してくるようなことがあったら、南進作戦は最初からおかしくなってきます。

 この事態を防ぐには、日本の南進について、事前にドイツの同意をとりつけておかなければなりません。それで、外務省が知恵をしぼったのでしょう。さきの陸海軍の協議の八日後には、外務省事務当局が起案した「日独伊提携強化案」ができあがりました(『資料編』)。外務省編さん『日本外交年表竝主要文書』には、これを陸軍省、海軍省との協議でさらに練りあげた文書(「陸海外三省事務当局協議会に提出の日独伊提携強化案」、起案の日付は、どちらも七月十二日になっています)が収録されています。後者の方が、三省の協議会で検討されたようですので、ここでも、仕上げられた文書の方を使って内容を紹介することにします。

虫のよい注文を露骨に書く

 不破 この「日独伊提携」案の基調となっているのは、「南洋を含む東亜新秩序建設」に邁進(まいしん)する日本と「欧州において新秩序建設」に戦っているドイツ・イタリアが緊密な協力関係を結ぶ、という構想を総論的な枠組みとし、その枠組みのなかで、日本の南方進出の権利をドイツに認めさせようという構想です。

 具体的には、日本が欧州およびアフリカに関して「ドイツ指導下の欧州新秩序」を容認する代わりに、アジア・太平洋方面では日本指導下の「東亜新秩序」の建設をドイツに容認させるというもので、ドイツに認めさせる要求は、次に見るように、“ドイツはアジア方面には口を出さないでくれ”という日本の虫のよい注文がたいへん露骨な表現で書かれています。

 「ドイツは日本に対し左記を約す。

 一、仏印、蘭印その他南洋地方諸民族の自治または独立に干渉せず。右地方が日本の生存圏内にあるを認め、右地方に対する日本の政治的指導および協力を容認しこれを支持す。

 一、支那事変処理のために適当なる支持を与う。(以下略)」

 こうして、ドイツの承認と了解のもとに、南方進出作戦に踏み出す、という大方針が、陸軍・海軍・外務の三省の協議でおおよそ固まりました。

近衛内閣成立の前夜に

 不破 第二次近衛内閣は、七月二十二日、いま見た三省案ができて十日後に成立します。近衛文麿は、首相を公式に引き受ける三日前に、陸軍(東条英機)・海軍(吉田善吾)・外務(松岡洋右)の大臣予定者三人を東京・荻窪の自分の邸に招いて、いわゆる「荻窪会談」をおこない、新内閣の基本方針についての合意をとりつけますが、そこには、三省協議の基本点が、表現はある程度一般化されていますが、すべてもりこまれていました。とくにそこでの合意点をまとめた「覚書」に、「東亜および隣接島しょにおける英仏蘭葡〔ポルトガル〕植民地を東亜新秩序の内容に包含せしむる」と、東南アジアの全地域を日本の支配下におさめる方針が明記されていたことは、しっかり見ておくべき点です(「荻窪会談覚書」 『主要文書』)。

 ドイツの西ヨーロッパ席巻からの刺激と興奮のなかで、日本の軍部が準備してきた南方作戦――領土拡張主義の新たな野望は、近衛内閣の成立とともに、日本の国策にまで高められたのでした。

世界再分割の野望まで

世界の再分割を軍事同盟の目標に

 ――近衛内閣は、いよいよその具体化にとりかかるわけですね。

 不破 近衛内閣は、この方針で、ドイツに新しい条約締結のための打診を開始する一方、日本が支配権をもつべき「東亜新秩序」の範囲を画定する仕事をすすめました。その結論が、九月十六日の大本営政府連絡会議(注)で決定された「皇国の大東亜新秩序建設の為の生存圏」についての定義です。これは、日本、ドイツ、イタリアが取り組んでいる戦争を、世界に存在する植民地を旧来の領有国から取り上げて三国のあいだで分配する戦争――世界再分割の戦争と位置づけ、日本の取り分はこの範囲だという境界線をあらかじめ画定しようとした、驚くべき決定でした。

 (注)大本営政府連絡会議とは、三七(昭和十二)年十一月、政戦両略の一致をはかるために、大本営と政府の連絡機関として設けられたもので、ここでの決定は、軍と政府との共同の決定という意義をもちました。

 実際、この決定は、日本やドイツの勝利に終わった戦後の世界を論じて、

 (イ)戦後の新態勢では、世界が東亜、ソ連、欧州および米州の四大分野に分かれることが予見される、

 (ロ)この新態勢で、東亜の指導者をもって任ずる日本が、欧州の指導勢力たるドイツ・イタリアと密接に提携することが重要だなど

 「四大分野」への世界の分割という未来図まで、具体的に描きだしていました。

かつてなかった世界再分割条約

 不破 第一次世界大戦に直面したレーニンは、帝国主義時代の綿密な分析をもとに、この戦争を植民地の再分割の戦争だと喝破しました。これは、戦争の性質を科学の眼力をもって見抜いた天才的な規定でしたが、いくら帝国主義の時代でも、世界の再分割を条約で取り決めようと考えた政府・政治家は、それまでに現れたことがありません。ところが、日本の政府と軍部は、東南アジア欲しさの欲求を貫徹するために、ドイツとのあいだに世界再分割の条約を結ぶところまで、その野望を燃えあがらせたのです。

アジア・太平洋に広がった領土的野心

 不破 そのこと自体が驚くべきことですが、いっそう驚かされるのは、彼らが「生存圏」という名で日本の支配圏に組み入れようとした領域の広さです。

 このときの大本営政府連絡会議の決定を、そのまま、紹介しましょう。

 「独伊との交渉において皇国の大東亜新秩序建設の為の生存圏として考慮すべき範囲は、日満支を根幹とし、旧独領委任統治諸島、仏領インドおよび同太平洋島しょ、泰〔タイ〕国、英領馬来〔マレー〕、英領ボルネオ、蘭領東インド、ビルマ、濠州〔オーストラリア〕、新西蘭〔ニュージーランド〕ならびにインド等とす」(「日独伊枢軸強化に関する件」〔九月十六日連絡会議決定〕の「別紙第三」の「一」 『主要文書』)。

 現在とは地名も大きく変わっていますので、その範囲の広大さを見てもらうために、アジア・太平洋地域の地図に、ここに指定された「生存圏」の範囲を書き込んでみました。

 七月に軍部が議論しはじめてから二カ月ほどのあいだに、領土拡張主義の野望が、ここまで広がってしまったのです。ドイツと組めばなんでもできるとの思いこみで、日本の政府・軍部の領土拡張欲は、限度を知らないものになったのでしょうか。

ソ連を引き込む思惑も書き込む

 不破 なお、この「決定」にただし書きがついていました。

 一つは、ドイツやイタリアとの交渉のなかで、「生存圏」の話をするときには、濠州とニュージーランドのことは伏せておく、ということです。あまりにも強欲だと思われるのを恐れたのかもしれません。

 もう一つは、今後のソ連の出方によっては、インドは、ソ連の生存圏にいれることもありうる、ということです。ソ連をこの世界分割に引き込んだら、南方作戦がいっそう思い切ってやれるようになるという思惑が、この時点ではあったのでしょうね。

条約では「新秩序」の相互尊重と規定

 ――三国軍事同盟の条約調印は四〇年九月二十七日ですね。この条約の条文に、支配圏の範囲まで書き込まれているのですか。

 不破 同盟条約調印は、九月二十七日、ベルリンで、ドイツ側からはヒトラー総統、リッベントロップ外相も参加して、盛大におこなわれました。日本側の調印者は来栖三郎大使でした。この人物はあとでも登場しますので、覚えておいてください。

 この条約は、それぞれの支配圏の範囲の規定までは書き込んでいませんが、第一条、第二条が、たがいの支配権の尊重という意味をもっていました。

 「第一条 日本国はドイツ国およびイタリア国の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す

 第二条 ドイツ国およびイタリア国は日本国の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す」

 条約締結にいたる予備交渉のなかで、日本政府は、ドイツは東南アジアに領土的な関心をもっておらず、太平洋の旧ドイツ領諸島についても、“どうぞご自由に”という態度だということを確かめていましたから、条約上の表現は、日本にとって、これで十分だったのです。

“靖国派”の言い分は本当か

 ――“靖国派”の人たちは、三国同盟は、アメリカとの戦争を避けるための外交的努力だった、などと、よく言っていますね。

 不破 根も葉もない話ですね。いまずっと三国同盟への道を追跡してきたように、南進作戦を決め、それと一体の形で三国同盟の構想が出てきたわけで、この道を進むことが、アメリカとの関係をさらに悪化させることは、誰もが予想できることでした。だから、この道を突き進みながら、政府と軍部は、対米戦争への備えをいよいよ重視し、世界再分割の目標を決めた大本営政府連絡会議の例の決定では、これまでの態度からさらに一歩を踏み出して、「対米英武力行使」にふみだす条件をさらに具体的に決定したほどでした。

御前会議でも異例の激論

 不破 ですから、三国同盟を審議した四〇(昭和十五)年九月十九日の御前会議では、これでは対米関係の悪化が必至だと心配する枢密院議長と“これ以外に道なし”という松岡外相のあいだに、異例の激論がかわされたほどだったのです。御前会議という会議は、ほかの議事はあらかじめ筋書きが用意されていて、すべてがその通りにすすむ儀式的なものだったようですが、最後の議事として、政府・統帥部(軍部のこと)にたいする枢密院議長の質問が予定されており、これだけはシナリオなしの即席の討論でした。この日の御前会議では、その場面で、こんな調子の激しい論争が展開されました。

 枢密院議長 米国はこれまで日本が独伊の側に走らないように、経済圧迫でもかなり手控えている。この条約で日本はいよいよ独伊側に立つということになったら、日本にたいする圧迫はいよいよ強化され、石油や鉄の禁輸など、日本を疲弊させる手段に出るのではないか。

 外相 米国の対日感情はすでに極度に悪化していて、わずかの機嫌とりで回復するものではない。ただわれわれの毅然(きぜん)たる態度をとってこそ、戦争を避けることができる。

 枢密院議長 米国は自負心の強い国だ。だから、毅然たる態度の表明はかえって反対の結果を促進することにならないか。

 外相 米国が反省して冷静な態度をとるか、それともますます硬化するか、見込みは半々だと思う。

 (一九四〇〔昭和十五〕年九月十九日御前会議「沢田参謀次長覚書」『資料編』)

 強気の日独同盟推進派の松岡外相でさえ、「日米関係悪化」という懸念にたいして、この程度のいいかげんな答弁しかできませんでした。“靖国派”の議論などが成り立つ余地は、現実の歴史のなかには、まったく存在しないのです。(つづく

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