2006年9月13日(水)「しんぶん赤旗」

日本の戦争―領土拡張主義の歴史

不破哲三さんに聞く

第1回 「満州事変」まで


 小泉純一郎首相の靖国神社参拝もからんで噴出する歴史認識問題。「靖国」派を中心とした侵略戦争正当化の議論まで公然となされるなか、日本の戦争とはなんだったのか、『歴史教科書と日本の戦争』(二〇〇二年、小学館)『日本外交のゆきづまりをどう打開するか』(二〇〇五年、日本共産党出版局)の著書がある不破哲三さん(日本共産党前議長)に話を聞きました。


侵略戦争とは領土拡張と外国支配をめざす戦争

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(写真)不破哲三さん

 ――今年の終戦記念日前後には、首相の靖国参拝もからんで、日中戦争や太平洋戦争についていろいろな議論がテレビや新聞でもおこなわれました。なかには、「戦争の見方は、国によって違うのが当然」とか、「あの戦争を侵略戦争と見るかどうかは、日本の立場に立つか相手の立場に立つかの違いだ」などと言ってのける論者もいたのには、驚かされました。

 不破 およそ歴史の道理を知らない議論ですね。戦争の見方が、国によって違うのが当たり前だったら、国際連合などでの議論は成り立たないでしょう。

 その戦争が侵略戦争であったかどうかでいちばん大事なことは、それが、自国の領土拡張や他国の支配をめざした戦争だったかどうかです。この点で、日本がやった戦争は、ドイツのヒトラーがやった戦争とともに、領土拡張の野心を最大の原動力とした、まぎれもない侵略戦争でした。しかも、その領土拡張主義が、戦争の進行とともに、はてしもなく膨れ上がって、アジア諸国にはかりしれない惨害をあたえ、最後には日本国民の全体を未曽有の悲劇におとしいれたのです。

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(写真)『日本外交年表竝主要文書』(上・下)と『太平洋戦争への道別巻資料編』

政府・軍部の記録で

 不破 私は、ここに、二つの本を持ってきました。一つは、日本の外務省が一九五五年に編さんした外交文書集『日本外交年表竝主要文書 1840〜1945』(以下、『主要文書』)です。上下二巻千百八十ページに、幕末から敗戦までの日本の政府の公式文書五百八通が収められています。

 もう一つは、朝日新聞社が一九六三年に発行した『太平洋戦争への道 開戦外交史』の『別巻 資料編』です。本論は日本国際政治学会の方々の分担執筆で、「満州事変前夜」(第一巻)から「日米開戦」(第七巻)まで、時期ごとに戦争外交の経緯を追っているのですが、その全体にかかわる資料を最後の『別巻』にまとめてあるのです。三段組みで六百十七ページ、『主要文書』との重複をできるだけ避けながら、政府と軍部の関係文書がぎっしり詰めこまれています。

 この二つの資料には、この戦争の全経過が、公文書によって記録されています。つまりそこには、日本の政府と軍部が、領土と支配圏の拡張をどのように追求してきたかが、日本側の当事者たちの声で示されているわけです。日本の戦争を語るなら、いいかげんな思い込みによってではなく、こういう客観的な記録にてらして歴史の事実そのものを見ることが、絶対に必要なんですよ。

戦争を始めるまで

朝鮮の次に中国を領土拡張の目標に

 ――日本の戦争は、一九三一年の「満州事変」、一九三七年の日中戦争、一九四一年の太平洋戦争と段階的に拡大してきましたが、それが、領土拡張主義のふくれあがりに対応するのですか。

 不破 だいたいそうなんですが、戦争の歴史をよく見るには、それ以前の時期にも、目を向けておく必要がありますね。

 明治時代の日清戦争(一八九四―九五年)と日露戦争(一九〇四―〇五年)は、主に朝鮮半島の支配権を争った戦争でした。ロシアに勝った日本は、一九一〇(明治四十三)年に韓国併合を強行して、この半島を自分の領土にしますが、同時に、中国の南満州の利権をロシアからゆずりうけて、中国進出の足場を手に入れたのです。

「関東軍」を南満州に配置

 不破 満州というのは、中国の東北地方の当時の呼び名です。ロシアは、その南部の遼東半島の一部(旅順・大連など)を自分のものにし、また南満州を縦断する鉄道を敷いていたのですが、その権利を、日本が取り上げたわけですね。持ち主の中国はそっちのけの交渉ですから、これもひどい話でした。この権利をたてに、日本は「関東軍」という強大な軍隊を、中国領である南満州に配置することになります。

 朝鮮の次の目標は、中国です。そのころ、中国には、ヨーロッパの各国が競争で進出して、沿岸の港の半永久的な使用権を手に入れたり(こういうところを租借地といいました)、経済的な勢力圏の縄張りをひいたりしていました。日本が勢力圏を広げようと思っても、思うがままにはことはすすみません。

「中国がまるごと欲しい」(「二十一カ条要求」)

 不破 ところが、一九一四(大正三)年、思わぬチャンスがめぐってきました。第一次世界大戦が始まって、ヨーロッパの国ぐには極東方面に目を向ける余裕などなくなってきたのです。「天佑(てんゆう・天の助け)きたる」と勇みたった日本は、ドイツに宣戦布告して、ドイツが持っていた山東省の青島(チンタオ)とその周辺を急襲占領しました。

 中国政府は、すぐ日本軍の撤退を要求するのですが、日本はそれを拒否、一九一五(大正四)年一月、逆に「二十一カ条の要求」をつきつけました。これは、それを全部受け入れたら、中国がまるごと日本の従属国になってしまう、たいへんな要求でした。南満州と東部内蒙古(内蒙古はいまの内モンゴル)や山東省を日本の支配圏に引き渡すこと、中国沿岸や港湾や島にたいする日本の独占権を認めること、さらに各種の経済的特権の要求から、各部門に多数の日本人の政治・軍事顧問を配置して中国政府そのものが日本の支配下に入ることまで、入っていたのです。

日本だけの独占支配を

 不破 これまで、多くの国が中国からいろいろな「権益」を取り上げてきましたが、中国をまるごと支配しようという要求をむき出しの形でぶつけてきたのは、日本のこの「二十一カ条要求」がはじめてでした。

 中国では、各地で日本の横暴な侵略要求に反対する運動がもりあがり、大戦後、フランスのベルサイユ(パリ)で講和会議が開かれたときには、「五・四運動」として知られる大規模な抗議の学生運動が起こりました。

 ――欧米諸国も、中国にいろいろ「権益」をもっていたのに、日本が特別に中国の民族独立運動の対象になったのは、歴史的な理由があったのですね。

 不破 当時の中国は、社会科学的な分類では、「半植民地」と呼ばれました。多くの国が「権益」をもっているが、中国を独占的に支配する国はなかったからです。そこへ、新しく帝国主義の仲間入りをした日本が、中国をまるごと自分の支配下におこうという要求を持ち出してきた、いわば自分の独占する植民地になれ、という計画をもって乗り出してきたのです。

 当時の中国は、民主主義と国の独立をめざす革命のさなかにあって、民族的自覚も高まり、民衆の運動、知識人の運動もたいへん活発になっていました。そのとき、その中国人民の前に、領土拡張の野望に燃えた日本の帝国主義が、あからさまな中国植民地化の計画をもちだしてき、次の段階では、武力をもってその野望を実現しようとするのです。その日本が、中国の民族解放運動の最大の相手となったのは、当然のことでしょう。

「満蒙」生命線論が日本の国策になった(東方会議)

 ――武力による領土拡張という問題は、どのあたりから具体的な目標になってくるのですか。

 不破 「二十一カ条要求」は、弱腰の中国政府を一時的には屈服させたものの、日本の望んだだけの成果は得られませんでした。外交交渉ではダメだと考えた日本政府は、こんどは武力によって中国を征服する計画をねりはじめます。

 その計画が、日本政府の公式の方針として明示されたのは、一九二七(昭和二)年七月、陸軍出身の田中義一首相のもとで、外務省と陸海軍の首脳を大規模に集めて十一日間にわたって開かれた「東方会議」のなかででした。

“なりゆきでは武力出動もありうる”

 不破 田中首相は、最終日におこなった訓令「対支政策綱領」(「対支」は「対中国」のこと)のなかで、「満蒙」を中国「本土」と区別して日本の権益のある特別の地域と位置づけ、ここを中国からきりはなして日本の支配下におくという方針を、はじめて明示しました(「東方会議『対支政策綱領』に関する訓令」 『主要文書』)。この「対支政策綱領」には、中国の動乱の成り行きいかんでは、日本軍の武力出動もありうることを、すでに明記していました。

 この時から、「満蒙」生命線論が日本の国策となりました。「満蒙」の「満」は満州の略で、中国の東三省(遼寧・吉林・黒竜江の三省)のこと、「蒙」は「蒙古」の略で、内モンゴルのこと、あわせれば西はゴビ砂漠から東は黒竜江にいたる広大な地域ですが、ここが、日本の領土拡張主義の次の目標になったのです。

「満州事変」という戦争

「満州事変」はこうして起こされた

 ――満州事変の背景には、この国策があったのですね。

 不破 そうです。ただ、この戦争の特質は、直接これを計画し実行したのが、日本政府ではなく、関東軍だったことです。一九三一(昭和六)年九月、戦争を始めた時も、三二(昭和七)年三月、ここにカイライ国家「満州国」をつくって事実上の日本の領土にしてしまった時にも、政府は関東軍の後追いをしただけでした。ですから、この戦争の性格を見るためには、関東軍がなにを計画していたかがたいへん大事な意味をもってきます。

 戦争が始まる三カ月あまり前の三一年五月二十九日、関東軍では重大な会議が開かれました。新しく満州に来た第二師団の高級将校(大隊長以上)の集まりで、最初に軍司令官が訓示をしたあと、高級参謀・板垣征四郎(のちにA級戦犯)が「満蒙問題に就(つい)て」と題する講演をしたのです。

 これは、どうやって「満蒙」を手に入れるか、関東軍の考えをまとまった形で明らかにした講演でした。その講演の全文が、『資料編』に掲載されています。

「領土とする」が終局の目的

 不破 まず、「満蒙」対策の目標について、板垣は、世間でいろいろ言われている解決策を上げた上で、「私どもはもちろん終局の目的はこれを領土とすることにあり」と言い切ります。ここを手に入れたら、中国の「死命を把握し」てその豊富な資源を手に入れることができるし、ソ連の「沿海州のごときも自然にわが勢力圏に」入ってくるだろう、というのです。膨張主義の目は、早くも、「満蒙」を超えて、中国全土やシベリアの制圧にまで向いています。

 次に国際関係に目を投じた板垣は、「満蒙」進出を強行すれば、米国その他の武力的干渉の危険を当然予想しなければならないが、いま進めている戦争準備が完了すれば「米国あえて恐るるに足りません」、「たとい一国ないしは数国の武力的干渉を受くるも断固としてこれを遂行するの覚悟と準備を持たなければなりません」と、対米戦争必勝論まで早々と展開します。

 最後が、「満蒙」制圧の具体作戦です。国家・国民の信念さえ徹底していれば、「満蒙」は日本のものということを堂々と世界に訴えて一挙に断行するところだが、いまはそんなことは許されない、だから、何かの事件と機会をとらえ(あるいは「自主的に」つくりだして)、そのときには関東軍の大部分の兵力を投入し「疾風のごとき神速なる行動」で目標を達成するつもりでなければならない――これが、板垣のくだした結論でした。

 それから三カ月あまりを経た九月十八日午後十時半、関東軍は、板垣が予告したとおりのやり方で、「満蒙」侵略戦争の火をつけました。関東軍は、南満州鉄道の線路を奉天駅の近くで爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍の攻撃だと偽って、軍隊をただちに出撃させ、朝方までに奉天市を占領するとともに、満鉄沿線の全線で出撃し「疾風のごとき神速なる行動」で主要な各都市を占領します。板垣が立てた筋書き通りにことは進みました。

 六日後の九月二十四日には、日本政府(当時は若槻内閣でした)は「政府声明」を出し、線路を爆破したのは「中国軍隊の一部」だ、日本軍の行動は治安確保のためだ、「帝国政府」は「満州において何らの領土的欲望」を有しないなどといって、関東軍の行動の正当化につとめました。これで政府のお墨付きを得た関東軍の方は「領土的欲望」をむきだしにして、開戦後半年ほどのあいだに東三省の全域を占領、三二年三月には、関東軍が操縦するカイライ国家「満州国」の建国にまで突き進んでしまいます。

関東軍の謀略は政府に公式に報告されていた

 ――日本政府は、この戦争が、謀略をもって関東軍がひきおこした戦争であったことを知らなかったでしょうか。

総領事からの電報

 不破 そうではありません。『主要文書』には、事件の直後、奉天の林久治郎総領事が幣原喜重郎外相あてに打電した三通の電報が収録されています(「柳条溝事件に関する在奉天林総領事報告」)。

 最初の電報は、板垣参謀に事件を不必要に拡大しない努力を求めたが、「徹底的にやるべし」が軍の方針だといわれて断られた、という報告。

 次の電報は、軍は満鉄沿線の各地でいっせいに行動を開始する方針のようだから、政府として緊急に差し止めの手を打ってほしいという要請。

 最後のものが、軍は破壊されたという場所には満鉄側の保線工夫も近寄らせない、「今次の事件はまったく軍部の計画的行動にいでたるものと想像せらる」という、関東軍の謀略をズバリ告発した報告。

 事件勃発(ぼっぱつ)の数時間後には、関東軍の謀略の事実が、日本政府に公式にもう報告されていたのです。

 では、これを受け取った政府がどう対応したのか、それが分かる記録が、『資料集』の方にあります。陸軍参謀本部の「満州事変機密作戦日誌」で、九月十九日の日誌には、関東軍の謀略にうすうす気づきながら、増援軍の派遣準備などにすぐ取りかかる参謀本部のその日の様子が、実務的な筆致で生き生きと描き出されています。

 興味を引くのは、午前十時から始まった政府の閣議の記録です。

 会議が始まる前に、若槻礼次郎首相が、南次郎陸相にたいし「関東軍の行動は、本当に軍の自衛のための行動だと信じていいんだろうね」と念を押し、陸相が「もとよりしかり」と答えた、というところから記録は始まっています。実は、陸相は、軍から託された大事な任務を帯びてこの閣議に出席していました。それは、朝鮮軍(朝鮮駐留の日本軍)を増援部隊として満洲に派遣する決定をとりつけることです。

陸相も増援提案の勇気失う

 不破 ところが、陸相が事件の説明をしたあと、幣原外相が「外務省の得た各種の情報」(林総領事の電報も入っていたでしょう)を読みはじめると、閣議の空気は変わったようで、陸相はあえて軍の提案をする勇気を失ってしまいます。

 「その他外相の言辞は、今回の事件はあたかも軍部が何らか計画的に惹起(じゃっき・ひきおこす)せしめたるものと揣摩(しま・推測)せるものの如かりし。

 南陸相は右の如き外相の電文朗読ならびに口吻(こうふん・口ぶり)を聴き、意気ややくじけ、閣議席上の空気に処して、いま朝鮮軍より増援することの必要を提議するの勇を失えり」。参謀本部の日誌にここまで書いているのですから、この段階では、関東軍の謀略は、おそらく閣議に出た全員の共通の認識になっていたのでしょう。

天皇と政府――万事承知の上で、関東軍を支持・礼賛する

 ――それでも、戦争をやめなかったのですね。

 不破 政府は、内部のためらいなどは表に出さずに、その五日後には、関東軍の行動を正当化してすべての罪を中国側になすりつける偽りの声明を出し、関東軍による戦争の拡大に拍車をかけました。ことの起こりは明々白々な関東軍の謀略であり、この戦争が日本側に一片の道理もない不正不義の扇動であることを承知した上で、政府は、関東軍のいうがままに戦争の推進と拡大の政策に踏み切ったのです。

 日本政府のこうした行動は、ただ、軍にたいする弱腰というだけで説明のつくことではありません。その根底には、生命線・「満蒙」への侵略を日本が推進すべき大戦略とする領土拡張主義が、政府・軍部の共通の認識とも了解事項ともなっていた、という根本問題がありました。

 この大戦略の前では、関東軍が多少の不法行動をとろうが、それはことを荒立てて騒ぐほどのことではなかったし、謀略によってではあれ、戦争をおこして満州への領土拡張をなしとげた関東軍は、三二(昭和七)年一月、天皇が発した勅語でも、その功績を最大級の言葉でたたえられたのでした(「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」)。

 「満州国」の建国後、関東軍は、三三(昭和八)年二月ごろから熱河作戦を開始し、侵略の手をこの地域にのばしました。熱河は本来モンゴルの一部でしたが、結局はそこも「満州国」に取り込まれることになりました。

 こうしてつくられたカイライ国家「満州国」は、現在の日本の国土のほぼ三倍を超える面積をもっていました。これが、「満州事変」という名の領土拡張戦争によって、日本が得た領土的成果でした。

(聞き手・藤田健)

(つづく)

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