2006年7月25日(火)「しんぶん赤旗」

靖国神社

A級戦犯の合祀は東京裁判否定が動機

昭和天皇発言メモで もくろみ破綻


 昭和天皇が一九八八年にA級戦犯の靖国神社合祀(ごうし)に“不快感”を示した発言が明らかになったことで、A級戦犯合祀の経緯があらためて注目されています。(藤田 健)


厚生省が名簿

 靖国神社の合祀は、戦前は陸・海軍省から天皇に名簿が「上奏」され「裁可」を受けてからおこなわれていました。同神社は陸・海軍省の共管から戦後、一宗教法人になりましたが、戦後も、厚生省援護局(当時)が名簿を靖国神社に渡し、神社側が「祭神名票(さいしんめいひょう)」をつくって合祀しています。

 A級戦犯も、六六年に厚生省から太平洋戦争開戦時の東条英機元首相ら十二人(のちに二人追加されて十四人)の名簿が靖国神社に送られ、七〇年の崇敬者総代会で合祀が了承されましたが、「宮司預かり」となり、当時の筑波藤麿宮司の在職中は実施されませんでした。

 厚生省から名簿が送られてきたことは、“靖国”派が「A級戦犯合祀は、靖国神社が勝手にやったのではない。国が関与している」と主張する根拠にもなっています。厚生省の関与の問題を、一九七三年に国会で初めてとりあげたのは日本共産党の小笠原貞子参院議員(当時、故人)。憲法二〇条の政教分離違反ではないかと追及しました。

強行の理由は

 実際に、A級戦犯が合祀されたのは、一九七八年の秋季例大祭前日の十月十七日(昨年、小泉首相が参拝した日)。職員にもかん口令を敷いてひそかに強行したため、翌年四月の新聞報道まで世間に知られることはありませんでした。

 この間の経過には、七八年から宮司となった松平永芳氏が強引にすすめたのか、総代会で了承されたかなど諸説がありますが、肝心なことは、靖国神社側が合祀に踏みきった動機です。

 松平宮司は、そのときの事情を次のようにのべています。

 「私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々書類や総代会議事録を調べて見ますと…合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預りとなっていたんですね。…それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、十四柱をお入れしたわけです」(『諸君』九二年十二月号)

 つまり、日本の侵略戦争を連合国が裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)を否定するために合祀したというのです。

 同神社の湯浅貞・前宮司も七〇年に総代会が合祀を了承した際、「A級戦犯だけ合祀しないのは極東裁判(東京裁判)を認めたことになる。戦争責任者として合祀しないのならば、決定をした神社の責任が重くなる」との発言が出たことを紹介しています。(『正論』二〇〇五年八月号)

原点をこわす

 日本の侵略戦争を「平和に対する罪」「通常の戦争犯罪」「人道に対する罪」で裁いた東京裁判を認めれば、それを「自存自衛」「アジア解放」の「正しい戦争」だとはいえなくなる―ここに、“靖国”派が東京裁判を否定するおおもとがあります。

 この東京裁判否定の立場が、松平宮司らの個人的なものでなかったことは、靖国神社発行のリーフレット『やすくに大百科』でA級戦犯のことを「形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた」と説明していることからも明らかです。(最新版では「ぬれぎぬ」の部分を削除しています)

 東京裁判自体は、天皇の免訴など大きな問題点を抱えていましたが、戦争を国際犯罪と位置付け、侵略戦争の指導者を裁いたものとして戦後の世界平和探求に大きな意義をもちました。

 “靖国”派は、東京裁判を否定することを通じて、日本・ドイツ・イタリアによる侵略戦争は不正義の戦争として許さないという、戦後国際社会の原点を壊そうとしています。そのために、首相や閣僚、三権の長の参拝を通じて、天皇参拝を実現し、靖国参拝を国家的行事にすることで、「正しい戦争」論を国論にしようともくろんできました。しかし、肝心の天皇がA級戦犯合祀に“不快感”を示したことで、そのもくろみは重大な破たんに直面せざるを得ないのです。


 A級戦犯 一九四六年から四八年の東京裁判(極東国際軍事裁判)で、侵略戦争を計画・準備・開始・遂行した「平和に対する罪(A)」のほか、「通常の戦争犯罪(B)」「人道に対する罪(C)」のすべてで裁かれた戦争犯罪人です。B、Cだけで裁かれたのがB、C級戦犯、B、Cの内容を含んだ主要戦犯をA級戦犯といいます。太平洋戦争開戦時の東条英機元首相や関東軍(中国侵略部隊)司令官ら有罪判決が下った二十五人と、未決勾留中に死亡した松岡洋右元外相ら二人をあわせて二十七人。靖国神社は、A級戦犯を「昭和殉難者」と呼んでいます。


東条家の分祀拒否の理由

 昭和天皇の靖国発言を契機に、与党内では「A級戦犯分祀論が強まるのではないか」との声が出ています。しかし、靖国神社は、分祀を拒否しています。その理由の根底にも、東京裁判との関係がありました。

 分祀論が起こったのは、一九八五年の中曽根康弘首相(当時)の靖国神社公式参拝への批判が強まったことでした。当時、首相官邸からの要請で、水面下でA級戦犯の遺族や靖国神社側との折衝にあたった板垣正参院議員(当時、A級戦犯・板垣征四郎陸軍大将の長男)は著書『靖国公式参拝の総括』で、その経緯を明らかにしています。

 それによれば、A級戦犯「取り外し」のためには、「遺族から、合祀取り下げについて靖国神社側と話し合い、決着させる以外ない」との助言をうけ、「白菊遺族会(戦犯者遺族の会)」の木村可縫会長(A級戦犯・木村兵太郎陸軍大将の妻)と協議。その同意をえて、関係遺族に「合祀取り下げ」を打診します。

 しかし、東条英機元首相の長男が反対し、「合祀取り下げ」は頓挫します。東条家が反対した理由の第一は、「『A級戦犯が合祀されているから、靖国神社に日本の首相が公式参拝することは妥当ではない』という議論は、東京裁判での戦勝国側の理論、一命を賭して反論した被告側の遺族として同調できない」というものでした。

 靖国神社がA級戦犯を合祀した理由も「東京裁判史観の否定」にありましたが、分祀拒否の理由もまったく同じ東京裁判否定論だったのです。


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