2006年7月24日(月)「しんぶん赤旗」

列島だより

島民と手結ぶ共産党の人たち

苦難にあった離島で幸せ願い今も


 平和でのどかに見える離島の生活も、戦争や自然の災害に遭うと一変します。沖縄県伊江村(いえそん)と北海道奥尻町(おくしりちょう)から、いまも尾を引く苦難に、島民の気持ちに心寄せて奮闘する日本共産党の姿を地方議員が紹介します。


沖縄戦の激戦地 伊江島

米軍基地の撤去へ

地図

 沖縄県伊江村は本島北部の本部半島北西沖九キロに位置する一島一村の離島です。東西八・四キロ、南北三キロの殻付きピーナツ形をした島には、五千二百十四人が住み(六月現在)、農漁業、観光業をおもな産業に生活しています。

 農業は葉タバコ、電照菊、ラッキョウの栽培、畜産が盛んですが、長引く不況と輸入自由化、四年連続の風雨水害の影響で畜産以外は厳しい状況です。

城山のながめ

 島には、頂上からの展望が沖縄八景の一つに数えられる城山(標高一七二メートル)や国・県指定の遺跡があり、透き通る海と美しいサンゴ礁を求めてスキューバダイビングに訪れる人も多く、最近は修学旅行生らも対象にしたサイクリング業や民泊事業が盛んです。

 伊江島は「沖縄の縮図」といえる歴史を背負っています。

 先の世界大戦で、旧日本軍が村民の土地を強制接収して飛行場を建設したため、一九四四年十月十日から始まった米軍の空襲と艦砲射撃、六日戦争といわれた地上戦で軍民合わせて三千五百人余の尊い命が失われました。伊江村では伊江島での組織的戦闘が終わった四月二十一日に、「平和祈願祭」が戦没者を追悼する「芳魂之塔(ほうこんのとう)」で行われます。

 終戦前後の約二年間、村民は強制疎開させられました。この間に米軍は旧日本軍が造った飛行場を造り替え、島全体を浮沈空母にしてしまいました。戦後二年目で帰島を許された村民は、島の北東部で集団生活を強いられ、そこから荒れ果てた自分の土地を開墾するために通ったのです。

 耕した土地に作物を植え、家を建て、やっと生活も落ち着きを取り戻しつつあった五三年七月、米軍は真謝・西崎両区に射爆場建設のためと二百五十九・〇五ヘクタール(七十八万五千坪)の土地接収を通告、翌五四年九月には四百九十五ヘクタール(百五十万坪)と百五十二戸の立ち退きを通告、五五年三月には着剣した武装兵に守られた作業隊が、放火やブルドーザーで十三戸の農家を破壊し、射爆場建設を強行しました。

テント暮らし

 放り出された農民は、米軍が造ったテント小屋で暮らさざるをえなくなりました。村民は、新聞も報道できない米軍の横暴と自らの実情を訴えるため、沖縄本島を約一年間かけ、「乞食行進」を行いました。真謝区の人たちは、沖縄本島でたたかっている人々とも交流し、この交流のなかから「一坪たりとも渡すまい」の歌が生まれたのです。

 伊江島のたたかいで、当時の人民党は大きな役割を果たしました。日本共産党伊江支部は、伊江島の土地闘争と人民党のたたかいの歴史を引き継いだ支部です。そのたたかいが議会中心に変化してくるなかで、米軍基地のない平和な島へ、基地機能の強化に反対し、医療・教育をはじめとした離島苦の軽減、第一次産業の発展をめざして、いま活動しています。

(名嘉実・伊江村議)


北海道南西沖地震被災 奥尻島

農漁業や観光業で

地図

 北海道奥尻町は、道南西部の江差町から西北へ六十一キロの日本海に浮かぶ周囲六十七・五キロの島の町です。約三千九百人が住む奥尻町を全国に知らせたのは、十三年前の北海道南西沖地震でした。

大切な家族が

 烈震と大津波、直後の火災で、大切な家族と家が失われ、多数の死者・行方不明者を出す未曽有の災害となりました。

 日本共産党支部と町議の私は、町民と一緒に、義援金は被災者中心の生活再建のために、街づくりに被災者の声をいかせと、「奥尻の復興を考える会」をつくり、火災保険金の支払いを拒む損害保険会社に対しては、「火災保険金を請求する会」を立ち上げ訴訟に持ち込むという、常に被災者の立場にたった活動をすすめました。

 被災者の支援については、住宅支援が七百万円、土地購入に百万円、事業再開に最大四千五百万円など、奥尻島が模範にされる支援策を確立するという意気込みで取り組み、実現させました。

 火災保険金の請求については、「地震保険に説明がない」「説明があれば加入していた」ことを争点に裁判が進行。そのさなか、損害保険会社は地震保険のコマーシャルを連日テレビで流すごまかしをしました。

 一審は原告敗訴の判決でしたが、「約款に記載されていても、地震保険について説明がなければ、損害保険会社には賠償責任が発生する」との画期的内容の一文が入りました。裁判は最高裁までいき、敗訴しましたが、判決後、損害保険会社は、全国の火災保険加入者で地震保険未加入の全世帯に地震保険加入の案内を郵送するという事態に迫られたのです。

 「支援してくれた全国への恩返し」として始めた小さな島からの訴訟は、大手損害保険会社を震撼(しんかん)させ、地震保険について全国に周知させる役割を果たすことができました。

 町は一九九八年三月に復興宣言を出しましたが、うすれゆく震災の記憶を絶やさないためにと、四年前から、震災で死亡した百九十八人を追悼する「時空翔(じくうしょう)」碑の前で、千本のロウソクを灯(とも)す「時空翔を灯す会」を開いています。

コメも収穫し

 奥尻島は島の六割が保水力の高いブナ原生林におおわれ、飲料水に困ることはありません。北海道の島の中では唯一コメが収穫できます。島のシンボル的奇岩・なべつる岩、夕日が美しい西海岸の夕陽スポット、神経痛や胃腸病などにいい神威脇(かむいわき)温泉などがあります。

 奥尻の産業は漁業が九億七千万円、農業一億円、観光が十億円、公共事業が六十億円とまだまだ、公共事業に頼る島の経済状況です。日本の離島では北限にあたるブナ林をいかし、森林を伐採した国営草地の跡地二十七ヘクタールは大規模な花畑にして、現在の年間五万五千人の観光客を七万人にしようと議会で提案しています。

(せいの征男・奥尻町議)


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