2005年8月13日(土)「しんぶん赤旗」

戦前の反戦運動で命奪われた若者の1人、相沢良とは


 〈問い〉 戦前、反戦運動をしたことで命を奪われた若者が少なくありません。戦後60年、その一人ひとりを思い起こし心に刻むことが大事ではないでしょうか?津軽出身の相沢良という女性もそんな一人と聞きました。どんな人かご紹介ください。(青森・一読者)

 〈答え〉 相沢良は、戦前、主権在民と反戦の運動に身を投じ、拷問と獄中生活による病気で25歳8カ月の短い生涯を閉じた女性です。足跡を丹念にたどって『相沢良の青春』(新日本出版社)を著した故山岸一章は「少女時代から、いつも本を手もとから離したことがなく、ゆたかな教養と理論的確信をつかんでいた」「私が最も感動したのは、いつでも自発的に、能動的に困難な活動を自分の任務にし…名誉欲や名声欲をかけらも残してないこと」と、若い死を惜しんでいます。

 良は1910年、青森市浪岡の三代続く村医者の家に生まれ、県立青森高等女学校から東京・大森の帝国女子医専に進学します。良が入学した28年は、中国への侵略拡大をはかろうとしていた時期で、3月15日には日本共産党への大弾圧があり、大学では社会科学研究会も解散させられ、反戦運動は非公然の活動に移っていました。

 帝国女子医専にも日本共産青年同盟(共青)班がつくられ、良は地下の党に直接協力する活動の責任者に。逮捕状の出た東京市バスの労働者を下宿に1カ月半もかくまったこともありました。30年5月のメーデーに参加。停学処分を受け中退、横浜の富士紡績保土ケ谷工場の労働者に。全協(日本労働組合全国協議会)分会機関紙「赤い富士絹」を配布中に検挙され、津軽に戻り、体力が回復すると、青年と読書会を開催。中国侵略開始前夜の31年4月には上京し日本反帝同盟と連絡をとり、「共青の青森派遣オルグ」として青森に戻っています。このことから山岸氏は「(共産党に)入党したと考えられる」としています。

 31年12月、良は特高に追われ、花嫁姿に変装して北海道へ。札幌で、フルヤ製菓や豊平のゴム工場の労働者とサークルをつくり、「クロさん」の愛称で慕われました。33年4月4日良は検挙され、野蛮な拷問にも信念を貫き、懲役5年の刑に。獄中で肺エソになり、刑務所を出されたときは、手足は針金のように細く、出所7日目の36年1月28日、家族にみとられ亡くなりました。良を偲び故郷の浪岡と札幌に顕彰碑が造られ、浪岡では毎年5月、碑前祭がおこなわれています。(喜)

 〔2005・8・13(土)〕


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