2005年8月4日(木)「しんぶん赤旗」

戦後60年 記者がさぐる戦争の真実

南京大虐殺

偕行社の「お詫び」


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南京城占領を祝う日本軍の兵士ら=『画報躍進之日本』(1938年2月号)から

 日本軍の侵略行為の象徴として語られる「南京大虐殺(南京事件)」。日中戦争中の一九三七年末から三八年にかけて、日本の占領部隊が南京市で捕虜・住民多数を殺害し、略奪、放火、強姦(ごうかん)などを繰り返した事件です。犠牲者数は数万から十数万ともいわれます。「戦闘の結果、民衆にも被害が出た」という程度のものではなく、捕虜と一般市民の組織的な大量殺りくでした。

体験手記募集

 日本の戦争が正しかったと主張する人々は、この事件を「でっち上げ」「誰も見ていない」などとののしってきました。靖国神社の「遊就館」は「南京事件」のパネル解説で「敗残兵の摘発が行われたが、南京城内では一般市民の生活に平和がよみがえった」と述べています。

 約二十年前、「でっち上げ」論の「根拠」を失わせる出来事がありました。

 八三年十一月、旧陸軍将校の親ぼく団体「偕行社(かいこうしゃ)」の機関紙「偕行」に「いわゆる『南京事件』に関する情報提供のお願い」という記事が載りました。元将校に、体験手記の投稿を呼びかけたのです。

 記事は、南京事件の証拠を「憶測・誇張・伝聞が多い」「デタラメ」と批判。参戦者の証言を集めて「『大虐殺の虚像』を反証し、公正な歴史を残す」と訴えています。

 「偕行」は翌年四月号から約一年、連載「証言による南京戦史」を掲載。しかし編集部の意に反して、元将兵からは虐殺を告白する手記が多く寄せられました。これらの手記も掲載されたのです。

「弁解はない」

 最終回の八五年三月号で、編集部の加登川幸太郎氏は「弁解の言葉はない」と日本軍の責任を認めました。犠牲者数は「三千ないし六千」「一万三千」と少ない見積もりを示しています。それでも「三千人とは途方もなく大きな数である」とし、こう述べたのです。

 「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫(わ)びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」(安川 崇)

南京攻略までの経過
1937年
7月7日 盧溝橋事件、日中戦争始まる
8月13日 上海で日中両軍戦闘開始
  15日 日本政府、上海派遣軍の派遣を決定
11月5日 援軍の第10軍が杭州湾に上陸
  7日 派遣軍と第10軍を中支那方面軍に編合
  15日 第10軍、独断で南京追撃を決定
  20日 大本営設置
12月1日 大本営、追撃を追認し南京攻略を命令
  8日 日本軍が南京城を包囲
  13日 南京城陥落
     以後、南京城内外で「残敵掃討」続く
  17日 松井石根・方面軍司令官ら「入城式」
 (『南京戦史資料集』偕行社、藤原彰『新版南京大虐殺』などから作成)

“捕虜は全部殺す”部隊の記録は語る

南京大虐殺「多くは罪のない市民」と米紙報道

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 一九三七年七月の盧溝橋事件で始まった日中戦争。南京大虐殺は、日本軍の場当たり的な戦線拡大の末に起きました。

 同年八月、東シナ海に面した大都市・上海で日中両軍の戦闘が始まります。当時、日本の上海派遣軍の任務は「上海付近の敵を掃滅し…帝国臣民を保護」と地域を限定したものでした。

 しかし十一月十五日、援軍として派遣された第一〇軍司令部が独断で「南京追撃」を決定、進撃を始めたのです。明白な命令違反に対し、中支那方面軍司令部は「ここでとどまっては戦機を逸する」と支持しました。

 結局、大本営は十二月一日に南京攻略を下命。天皇制政府が正式に現地軍の独断を追認し、上海から北西約三百キロの南京を目指して攻略戦が開始されました。

補給部隊なし

 この経緯に大虐殺の遠因がある、と研究者は指摘します。

 大陸の奥地まで攻め込むには、兵士の食料や軍備の補給を担当する部隊が必要です。地域限定の予定で編制された方面軍には十分な食料補給部隊がなく、住民から食料を略奪し戦闘行動を維持するという方針をとりました。笠原十九司・都留文科大学教授は「殺害や放火など住民への暴力を助長した」と指摘しています。

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南京城(奥)を目指す日本軍=『画報躍進之日本』1938年2月号から

 日本軍の不法行為は、南京城に達するまでの道筋で発生しています。多くの農村で▽村の青壮年四十人余りを小屋に押し込め、小屋ごと焼き殺す▽女性を集団で強姦(ごうかん)し殺害する▽食料の徴発の後、放火し全村を焼く―などの被害が記録されています(笠原十九司著『南京事件』)。

 当時の陸軍刑法は「掠奪(りゃくだつ)・強姦」を禁じていました。しかし同軍には、軍紀風紀を取り締まる憲兵がごく少数しかいませんでした。非戦闘員への暴力にたいする歯止めを欠いた軍隊が、南京を目指したのです。

 日本軍は十二月十二日深夜に南京城を占領、さらに城区内外で殺りくを繰り返します。

 統計的な犠牲者数は不明です。敗戦直後、軍事裁判を恐れた日本軍部の命令で、各部隊が戦闘記録の大部分を焼却したからです。しかし残存する約三分の一の部隊の記録から、虐殺の実態が浮かび上がります。

やってしまえ

 上海派遣軍歩兵第三〇旅団長の佐々木到一少将は、私記にこう書いています。「俘虜続々投降し来り数千に達す…片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば…『皆やってしまえ』と云い度くなる」(十二月十三日、『南京戦史資料集』偕行社)

 第一〇軍歩兵第六六連隊第一大隊の戦闘詳報は、多数の捕虜を「命令により」殺害したことを記しています。

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一般市民の大量殺害などを報じる米紙ニューヨーク・タイムズ(複写)

 「捕虜一五〇〇余名及び多数の兵器弾薬を獲得」(同十二日)「旅団命令により捕虜は全部殺すべし」「意見の交換をなしたる結果…刺殺せしむることとせり」「午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り」(同十三日)(同前)。

 ハーグ陸戦条約の「規則」は無抵抗の捕虜の殺傷を禁じていました。明確な条約違反です。また、「敗残兵狩り」の名で多数の市民が殺されました。派遣軍歩兵第七連隊の兵士は日記に記しています。「三十六名を銃殺する…哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだという」(同前)

 当時、城内には米国の新聞記者やキリスト教宣教師など複数の外国人がとどまっていました。

 米紙シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者は南京攻略を「地獄の四日間」と表現、「何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった」(十二月十五日付)と伝えています。

 ニューヨーク・タイムズも「日本軍の大量殺害―中国人死者、一般市民を含む三万三千人」(翌年一月九日付)と報道。英、中国など各国メディアも、惨状を連日伝えました。

 強姦も多発しました。南京の金稜大学教授だった米国人マイナー・ベイツ氏は、現地の日本大使館に繰り返し抗議の書簡を送っています。

 「兵士による強姦、暴行と強奪のため悲惨さと恐怖が至るところで続いています。すでに七〇〇〇人以上の貧民(その多くが婦女子)が本学の建物に避難…迅速な対策が必要」(十二月十八日付、南京事件調査研究会『南京事件資料集』)

 虐殺は当時から、事実として世界に知られていたのです。

 複数の部隊が万単位の殺害を記録していること、近郊農村での被害記録などから、「少なくとも十数万人単位の被害は間違いない」(笠原氏)とみられています。

証拠は圧倒的

 事件の存在を否定する論者の多くに共通するのは、都合の悪い証拠に目をつむった上で「東京裁判が事件を捏造(ねつぞう)した」と断言する点です。

 東京裁判でA級戦犯被告全員の無罪を主張したとして、彼らが好んで言及するインドのパル判事は、南京事件について「残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である」(『共同研究パル判決書』)と断じています。

 「否定論者はいつの世にもいる。ナチスのユダヤ人虐殺に対してさえ、いるのだから」と笠原氏は語ります。「それに社会がどの程度影響されるのか。ここにその社会の歴史意識や、道義性の水準が露呈する」

 南京から事件を報じたスティール記者は、八七年のインタビューで語っています。「日本兵の中国での行為が日本人には信じられないというのは分かる気がします…ただ、実際に起きたことであり、その事実からは逃れることはできないのです」(『南京事件資料集』)


南京市 城壁に囲まれた南京城区と周辺の六県からなる行政区(南京特別市・当時)。全面積は東京都・神奈川、埼玉両県の合計に匹敵します。偕行社の資料によると人口は全体で約百万人で、大部分が城区内とその近隣に集中していました。都留文科大の笠原十九司教授は全体で百五十万人以上、城区内は四十―五十万人だったとみています。


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