2005年8月4日(木)「しんぶん赤旗」

戦争は球児たちに何をもたらした?


〈問い〉 高校野球・夏の甲子園大会神奈川地方大会で戦時中の球児、八十歳の方が始球式に臨んだといいます。戦争は高校野球にどんな影をもたらしたのでしょう?(横浜・一読者)

〈答え〉 夏の中等野球選手権大会は、侵略戦争の長期化、深刻化に伴い、地方予選まではおこなわれましたが、1941年から、交通制限が実施され全国大会は中止となりました。このあと、終戦まで高校球児の球音が甲子園に響きわたることはありませんでした。

 侵略戦争は、「甲子園球児」たちをはじめ多くの野球愛好青年の命を奪いました。

 戦局悪化で徴兵年齢の引き下げ(満17歳以上)によって、陸軍幼年学校や海軍飛行予科練習生、陸軍少年飛行兵などに召集され、その悲劇をいちだんと拡大しました。また、戦場に行かないまでも勤労動員などで空襲にあい亡くなった球児も少なくありません。

 甲子園は、43年に名物の大鉄傘が海軍に供出されて、高射砲基地となり、45年8月6日、広島に原爆が投下された日の未明、大空襲を受けて炎上して戦火にさらされました。

 戦後、夏の甲子園大会が戻ってきたのは、終戦して1年の46年で、中断から6年ぶりのことでした。どれほど球児たちはこの時を待ちわびていたでしょうか。球音復活は平和のシンボルとなりました。

 復活大会は、甲子園が米軍の兵舎に徴収されていたため、西宮球場で開催されました。戦争中、イモ畑になっていた校庭の整地から始めた野球部は、満足な用具もないなか、困難を乗り越えて米麦持参で代表校が集まりました。

 夏の高校野球大会では、毎年8月15日の終戦記念日正午にサイレンを鳴らして黙祷し、尊い生命を奪われた戦没球児たちをしのび、ふたたびその悲劇をくり返すことのないよう、平和を誓っています。

 今年の神奈川大会では横浜商OBの斉藤哲男さん(80)が戦死した野球部の先輩でもある兄への思いをこめて始球式に臨みました。甲子園の白球がとぎれることのないよう、平和な日本を守り続けたいものです。(鳥)

 〔2005・8・4(木)〕


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