2005年7月9日(土)「しんぶん赤旗」
原爆症訴訟原告 故・萬膳ハル子さん(享年68)の遺志ついで
普通の生活 夢でした
顔、のど元、手足を焼かれ、「黒い雨」にうたれ…ケロイドに
「子どもができて、孫が生まれて…想像しただけで涙が出てきます。夢でした」。三月に六十八歳で亡くなった原爆症認定集団訴訟の原告、萬膳(まんぜん)ハル子さんは生前、そう話していました。普通の人生を“夢”に変えた原爆。被爆者たちは六十年たった今も原爆によって殺され続けています。(佐藤恭輔)
「おばさんは、がんに効くことならなんでもしました」と言うのは、萬膳さんのめいにあたる池田ハツ子さん(62)=広島市東区=。二歳のとき、萬膳さんが被爆した井戸の反対側にいました。
「ウコンが肝臓にいいと聞けば飲み、がんに効く温泉があると聞けば、お金をためて秋田まで行きました」
抗がん剤の投与では体に管を入れます。あまりの痛みに「もうあんな治療は受けたくない」と萬膳さんはこぼしていました。つらい治療を支えたのは「原爆症認定を勝ち取るまでは死んでも死にきれない」という強い意志でした。今年にはいって腹水がたまりはじめ、入院を勧められました。四月に法廷での本人尋問を控えていた萬膳さんは「どうしても裁判に出たい。言いたいことがあるんじゃ」と、ぎりぎりまで入院を拒否していました。
■9歳のとき広島で被爆
萬膳さんは一九四五年八月六日、九歳のとき広島で被爆。爆心地から約二・六キロにある尾長町(現・広島市東区)の自宅の井戸端で薬をのもうとしていました。顔半分、のど元、両手足を焼かれ、皮膚がぼろきれのように垂れ下がりました。父のリヤカーに乗せられ医者を探しているとき「黒い雨」で体が真っ黒になりました。
その後、激しい嘔吐(おうと)、歯茎からの出血、下痢、脱毛、けん怠感、食欲不振が続きます。発熱で全身が焼けるように熱く、失神したことも。顔のやけどはかさぶたになり、一カ月間目を開けられなくなりました。歩けるようになるまで一年かかりました。
■子ども産めず一人暮らしに
やけどはケロイドとなり体に刻まれ、萬膳さんの心をもむしばみました。銭湯や温泉に行けば周りから人が消えます。「子どものころからケロイドが一番つらかった」。自殺を考えたことも数回ではありません。
六〇年に結婚。妊娠しますが、「原爆にあったものが子どもを産んじゃいけん」と義父母の反対で中絶。その後二度流産しました。六二年、盲腸の手術後に傷が癒着したため卵巣と卵管を切除。子どもを産めない体になりました。七一年に離婚。しばらくは義母と二人で暮らしますが、一年ほどして一人暮らしに。
石川県の温泉街や、大阪の社員食堂で、病気がちの体をおして働きました。八一年にC型肝炎による肝機能障害で六カ月入院します。肝臓は徐々にわるくなり、九九年には肝臓がんが見つかります。
九五年に広島に帰郷していた萬膳さんは知人から原爆症認定制度があることを聞きます。「わたしの病気は原爆のせいとしか考えられない」。がんの手術を前に認定申請しました。しかし、二年三カ月後に届いた通知は「却下」。「体がふるえ、涙が止まらなかった」。ショックで二日間何も口にできませんでした。
その後、萬膳さんを含む十一人が提出していた異議申立書と口頭意見陳述要求書を厚生労働省が紛失していたことが判明。二〇〇三年六月、集団提訴に踏み切ります。同年三月には、医師から肝臓がんの再発を告げられていました。
■国は真剣に耳を傾けたか
三月三十日、萬膳さんは肝臓がんの転移で亡くなりました。その五日前、病床で裁判所に提出する陳述書を口述筆記で作りました。
「死も間近に迫ったいま、自分の家族もおらず、病床で苦しみながら、孤独でさびしい思いをしています。私のこの経験、苦しみに、国は一度たりと真剣に耳を傾けたことがあったでしょうか」
池田さんは、萬膳さんの訴訟を継承します。「おばさんの『絶対に裁判に勝つんだ』という姿勢に心を打たれました」
▼原爆症認定集団訴訟 二〇〇三年四月の提訴以来、十七都道府県の計百六十六人(うち十一人死亡)が全国十二の地裁でたたかっています。原告は、自らの苦しみを国に認めさせることで政府の被爆者政策、核政策を転換させ、核廃絶につなげたいとの思いで提訴しました。原爆症と認定されると、月額約十四万円の医療特別手当が支給されます。認定基準は、爆心地からの距離と放射線の影響を主とし、内部(体内)被ばくを無視しているため、原爆被害の実態を反映していません。認定者は二千二百七十一人で、被爆者健康手帳をもつ二十七万三千九百十八人の約0・8%にすぎません(〇四年三月現在)。