2005年3月6日(日)「しんぶん赤旗」

東京大空襲 米軍は実験済みだった

いかに焼き尽くすか
砂漠に下町を再現


 一九四五年三月十日。二時間余りの爆撃で約十万人が亡くなった東京大空襲。米軍は、これに先立ち米国・ユタ州の砂漠に日本の木造家屋を建て、焼夷(しょうい)弾の燃焼実験をくりかえしていました。「東京大空襲・戦災資料センター」(早乙女勝元館長)に提供された英文資料の研究などから、実験の詳細が明らかになってきました。


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ダグウェイ試爆場に建てられた日本の長屋=出展は「ダグウェイ試爆場の典型的ドイツと日本のテスト用家屋の設計と建設」(スタンダード石油開発会社、1943年)

 戦災資料センターの資料は、米国・アイオワ大学の日本研究者、デービッド・タッカー氏が米国国立公文書館などにあった資料を複写して、二〇〇三年八月、同センターに提供したものです。同センター顧問で建築家の三沢浩さんが翻訳、研究にあたりました。

細かいデータ

 米国は一九四一年から、スタンダード石油副社長を中心に新型焼夷弾の開発にあたっていました。四三年の二月から三月にかけ、ユタ州ソルトレークシティー南西の砂漠にダグウェイ試爆場をもうけ、日本とドイツの建物を建設。同年五月から九月にかけて繰り返し焼夷弾を投下して、落下軌道、発火範囲、燃え方、消火にかかる時間など細かいデータをとっています。

 効果を調べる綿密な実験をもとに、住宅密集地帯である東京下町を選んで、大空襲を実行しました。

 燃焼実験では、日本の木造長屋を正確に設計。二階建ての二戸三棟の建物を四列ならべ、全部で十二棟二十四戸を建てました。トタン屋根、瓦屋根の二種類をつくり、雨戸や物干し台をつけ、家の中には畳を敷き、ちゃぶ台や座布団などの家具、日用品もおきました。路地の幅も日本と同様にし、日本の下町の町並みを再現しました。建材も、できるだけ日本のヒノキに近いものが使われました。

 このような正確な設計が可能だったのは、戦前一九三七年まで十八年間、日本で設計士として働いたアントニン・レーモンドが、米国に戻ってから戦時局に依頼され、設計に協力したからでした。レーモンドは、フランク・ロイド・ライトの弟子として帝国ホテルの設計に携わり、戦前・戦後あわせて四十四年間、日本で多くの著名な建物を設計。「日本近代建築の父」といわれます。

効果的に敗北

 彼は、日本建築に愛情を持ち、「近代建築の基になるもの」と高く評価していました。にもかかわらず、自分が設計した物もふくめ、愛着ある建物を焼夷弾でいかに効果的に焼き尽くすかという実験に、間接的にせよ協力したことになります。『自伝』(一九七〇年出版)では「戦争を最も早く終結させる方法は、…日本を可能な限り早く、しかも効果的に敗北させること」だと考えたとのべています。

 建築家である三沢さんは、戦後、レーモンドの事務所に入った、弟子です。「東京大空襲へのレーモンドのかかわりを調べ、公表することは、師を告発する重いものです。しかし、歴史的事実は明らかにされなければならない。それまで日本の建築のために尽くしながら、なぜ、実験に協力したのか。矛盾ははかりしれない」と語ります。

 この実験は、米国の戦史家、E・バートレット・カーが著書でふれるなどしていますが、詳しい分析が今後期待されます。いったん戦争になったとき、科学者、学者、建築家、芸術家らが、どう行動するのか、行動せざるをえないのか。重い問いを突きつけています。

 アントニン・レーモンド(1888―1976年) チェコ生まれ。1919年に来日。東京女子大学、軽井沢聖パウロ教会などを設計。37年に米国に戻り、戦後、48年に再来日。群馬音楽センター、南山大学などが代表作。前川国男、吉村順三らを育て、日本の近代建築の基礎をつくったとされます。



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