2011年8月22日(月)「しんぶん赤旗」
社会リポート
沖縄戦の実相
遊撃の秘密部隊だった
「戦争とは、国が何の罪もない国民を虐待することだよ」。かつての沖縄戦で県北部(ヤンバル)を中心に、米軍を背後からかく乱し、住民すらも監視対象にした秘密部隊、「護郷隊」(隊員は14歳から17歳までの少年兵)に所属した元少年兵の実感です。天皇の名の下に出された大本営勅令が少年たちを地上戦に駆りだし、若い命を奪いました。(山本眞直)
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元少年兵は、名護市羽地の男性(83)。「数えで17歳のとき入隊しました。今日一日生き延びたが明日は死ぬのかなという日々でした」
沖縄は捨て石
護郷隊は800〜1000人の少年兵で編成され、そのうち160人が戦死しました。
護郷隊は表向きの名で、真の姿は「遊撃隊」。日本の敗戦が避けられないもとで、本土への米軍の攻撃を少しでも遅らせるために仕掛けられた「捨て石作戦」としての沖縄地上戦。その沖縄戦で敗北、米軍占領下にあっても、背後から米軍をかく乱し、「スパイ容疑」の住民を監視・摘発する秘密部隊でした。
少年たちに遊撃戦を教え、住民監視などの「防諜」作戦を手ほどきしたのは陸軍中野学校出身者です。陸軍士官学校が「正規軍」育成なら中野学校はいわば「遊撃戦」(ゲリラ戦)に必要な防諜、破壊活動を専門にする秘密要員の育成機関です。士官学校出身のエリートが入学、全員が私服という隠密部隊です。
護郷隊は1944年9月25日に大本営の勅令(天皇の命令)で発足。満足な戦闘訓練のないまま遊撃戦に突入することが多く、「米軍の手榴弾を拾い、体にくくりつけ出撃した際、樹木にひっかかって自爆した隊員もいた」と男性。
沖縄戦での南部戦線といえば「ひめゆり部隊」「鉄血勤皇隊」などが知られています。しかし北部地上戦での「護郷隊」についてはほとんど語られてきませんでした。
「遊撃隊は北部に二つ。護郷隊をつくり動かしたのは村上治夫中尉。離島には残置諜者(秘密要員が住民のなかにまぎれこみ米軍をかく乱し、情報を大本営に伝える)が配置され、その総数は42人にのぼった」
陸軍中野学校
中野学校出身者の関与をこう明かすのは名護市の市史編さん事業を担当している川満彰さん(51)。市史の編さん作業で元護郷隊員、中野学校出身者から聞き取り、非売品の回想録などから実態に迫ったといいます。
川満さんはいいます。「“護郷隊の歌”の一部歌詞と曲は中野学校の校歌と同じです。天皇と大本営は沖縄を本土防衛の捨て石にし、少年たちはそのために命を奪われた。離島では日本軍が住民を虐殺。また、強制疎開させ大量の島民がマラリアに感染、犠牲になった。いずれも中野学校出身者がかかわっていた。いま、北部での米軍新基地建設、離島への自衛隊配備問題、沖縄戦など過去の戦争責任を可能な限り歪曲(わいきょく)した教科書選定の押し付けなどの動きがある。沖縄戦での旧日本軍の足跡を見つめなおす意義は大きい」