2010年8月30日(月)「しんぶん赤旗」

「韓国併合」100年

日本は植民地支配で何をやったか


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(写真)韓国併合条約を公布する1910年8月29日付の明治天皇の詔書

 「韓国併合」100年、植民地支配が崩壊して65年もたつのに、日本ではいまだに「鉄道建設や教育の普及など近代化に果たした役割は大きい」とか「創氏改名は強制ではなかった」などと、一部政治家や特定のメディアが韓国併合や植民地支配を美化する主張をことさらに吹聴しています。

 併合100年を機に始まろうとしている日韓友好の新たな発展の動きを確実にするためには、在日大韓民国民団主催の8・15光復節中央記念式典のあいさつで日本共産党の志位和夫委員長が語ったように、日本が韓国・朝鮮にたいし何をしたのか、植民地36年の実態について「両国の共通の歴史認識とすること」が不可欠です。

「任意」装った

 明治政府が「韓国併合」の具体的方針を決定したのは1909年7月6日の閣議です。「適当ノ時期ニ併合ヲ断行スル」とした大方針にそって、1年後にその日を迎えました。この間、政府は日本軍の韓国駐留、多数の憲兵・警察官の韓国増派、韓国鉄道の掌握、日本人多数の韓国移住などの準備計画をすすめ併合断行に備えました。

 韓国併合条約の調印は1910年8月22日です。全8条からなる条約の第1条は、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲與ス」。韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れたという「任意の併合」を装ったものでした。

 同条約を公布したのは1週間後の同月29日です。発表を抑えていた間に、政治団体の解散、政治集会や演説会の禁止、批判的な新聞の廃刊などを強行し、韓国民の口を封じ手足を縛りました。

 また、朝鮮各地からソウルに移動・集中させた日本軍を、各城門、王宮、統監邸、閣員邸など要衝に配備。憲兵が定期的に街中を巡回する厳戒態勢を敷き、反対行動を力ずくで抑えこむなかで韓国・朝鮮の独立を奪ったのです。

 寺内正毅朝鮮総督は桂太郎首相への報告書の中で、ソウルへの部隊移動は6月中旬から始め7月9日に完了したこと、配備した部隊は歩兵15個中隊、騎兵1連隊、砲兵1中隊にも及んだことを明らかにしています。

徹底的に弾圧

 「併合」にあたって明治天皇は詔書を発し「民衆ノ福利ヲ増進」「其ノ康福ヲ増進スベク」と韓国民にとって至れり尽くせりのことであるかのように描きました。しかし、軍隊による厳重監視の下、クーデターのように強行したのが「併合」の実態であり、その野蛮さは36年間にわたる過酷な植民地支配にくっきりあらわれました。

 ―なによりも、「朝鮮の独立」や「民族自決」を求める朝鮮民族の運動を徹底的に弾圧したことです。併合から9年後の1919年3月、朝鮮全土に広がった「三・一独立運動」では、日本軍・警察による凶暴な弾圧で、死者7600人、投獄者5万人にのぼる犠牲者を出しました。

 ―「産米増殖計画」のもと朝鮮産米を毎年大量に移送し日本国内の米不足対策にあてるなど、朝鮮半島を食糧・資源の供給基地としました。とくに、31年の満州事変後は、朝鮮半島を足場に中国奥深くへと拡大する侵略戦争への兵たん基地化の推進でした。

 朝鮮総督府が44年に発行した冊子『前進する朝鮮』は、「今日朝鮮の果すべき大陸に対する兵站基地的使命」「征戦日本の輿望(よぼう)に応えるべく、朝鮮はその兵站基地的適性に於(おい)ても完璧(かんぺき)の態様を整備」すると明記しています。

 戦争に物質的・人的動員をする兵たん基地化は、「皇民化運動」という精神動員運動と表裏一体で推進されました。「皇民化」の名で朝鮮民族に押しつけたことは、朝鮮語の追放・日本語の常用化、神社参拝の強要、朝鮮式の名前を奪った「創氏改名」でした。

 これをテコに、工場・鉱山などへの労務動員・強制連行とともに兵力動員が強化され、38年からの特別志願兵制度が44年には徴兵制実施へとすすみ、日本の侵略戦争に朝鮮人を総動員しました。

美化する勢力

 1945年8月15日、日本政府が受諾したポツダム宣言は、第8条で「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク」と日本に迫りました。そのカイロ宣言は「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ朝鮮ヲ自由独立ノモノニスル」と明記し、日本の植民地支配で朝鮮民族が奴隷状態を強いられたことを明確に認めました。

 植民地の解放・朝鮮の独立は、日本の戦後世界への出発点です。いまだに、韓国皇帝の申し出による「任意的併合」だったとか、朝鮮半島の近代化に役だった、などと言って植民地支配を美化する勢力は、歴史に断罪された流れにくみするものにほかなりません。(近藤正男)


「韓国廃滅」を意味する言葉

 1910年の「韓国併合」当時、外務省政務局長として対韓政策の原案を作成した倉知鉄吉(元外務次官)は、「併合」という新語を用いたわけを後に覚書に次のように記しています。

 「併合」の意味がよくわからず、両国が対等で一つになるとか、オーストリア・ハンガリー帝国のような連邦国家ができるかのように解する人もいた。自分が「併合」という造語を使ったのは、「韓国が全然廃滅に帰して帝国の領土の一部となるの意を明かす」ためであり、同時に「其語調の余り過激ならざる文字」として選んだものだった。

植民地支配 土地・米から命まで

 1910年代は土地調査事業による「土地よこせ」、20年代は産米増殖計画による「米よこせ」、30年代は皇民化政策による「人よこせ」、40年代は徴用、徴兵による「命よこせ」――。(在日大韓民国民団作成の歴史教科書『在日コリアンの歴史』から)

併合時首都警備が最も緊要

 政変ニ際シ京城警備ハ最モ緊要ニシテ極メテ周密ナル手配ヲ要スル…

 首都ニ於ケル応急準備ノ為六月中旬ヨリ軍隊配備ノ異動ヲ行ヒ七月九日ヲ以テ全部ヲ完了セリ…京城付近ニ於テ時局ニ際シ急ニ応スル為該地付近ニ歩兵十五箇中隊騎兵一聯隊砲兵一中隊ヲ集結ス(1910年11月「朝鮮総督報告韓国併合始末」から)





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