2010年5月25日(火)「しんぶん赤旗」

アメリカを訪問して

志位委員長の報告


 日本共産党が、21日に党本部で開いた「アメリカ訪問報告会」での、志位和夫委員長の報告を紹介します。


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(写真)報告する志位和夫委員長

 参加されたみなさん、こんばんは(「こんばんは」の声)。インターネット中継をご覧の全国のみなさんにも、心からのあいさつを送ります。

 私は、日本共産党代表団の団長として、4月30日から5月8日までアメリカを訪問いたしました。わが党の歴史は、今年で88年を数えますが、日本共産党の党首としては、初めてのアメリカ訪問となりました。私たちの訪米は、いまご紹介した代表団の全員の協力によって、重要な成果をあげることができたと思います。代表して私が報告をさせていただきます。

 (志位氏は、報告に入る前に、21日、「韓国海軍哨戒艦沈没事件について」と題する談話を発表したとのべ、その内容を紹介しました)

全体をふりかえって――二つの仕事ができた

 私たちは、4月30日から5月5日まで、ニューヨークを中心に活動しました。5月5日の夜、列車で移動して、5月6日と7日は、首都ワシントンDCで活動しました。

 私たちが米国で活動できた日数は、あわせてまるまる8日間でしたが、私はその全体をふりかえって、二つの仕事ができたと考えております。

 第一に、「核兵器のない世界」の実現という、被爆国・日本国民の悲願を、直接、国際社会に訴えることができました。

 第二に、「基地のない沖縄」「対等・平等・友好の日米関係」を願う、沖縄県民、日本国民の声を、直接、米国政府と議会、米国社会に伝えることができました。

 くわえて、米国政府・議会と、日本共産党との公式の対話の道を開くことができました。

 私たちは、訪米前のルース駐日米国大使との会談でも、米国国務省との会談でも、米連邦議会議員との会談でも、「見解は違っても、意見交換は有益であり、今後も続けよう」ということで一致しました。米国政府・議会と、第一歩ですが、公式の対話の関係が始まったことは、今後にとってきわめて重要な意義があると、考えるものです。

「核兵器のない世界」をめざす活動について(ニューヨーク)

 まず、「核兵器のない世界」をめざす活動について報告します。

 私たちは、5月3日から国連本部で開始されたNPT(核不拡散条約)再検討会議に出席するとともに、会議主催者、国連関係者、各国代表団に、会議成功のための働きかけをおこないました。

 NPT再検討会議は、5年ごとにおこなわれていますが、今回の会議は、「核兵器のない世界」への機運が世界的規模で広がるもとで、文字通りの歴史的なチャンスの会議であります。このチャンスを生かし、今回の会議が核兵器廃絶への新たな前進をつくる会議となるよう、唯一の被爆国の政党として、可能な最大限のとりくみをおこなおう。この決意で私たちは活動にとりくみました。

政府によって構成される国際会議への働きかけは、初めての経験

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(写真)NPT再検討会議を傍聴する(左から)笠井亮衆院議員、志位和夫委員長、井上哲士参院議員=3日、ニューヨークの国連本部

 実は、この種のとりくみは、わが党にとって初めての経験でした。

 これまで、わが党が参加してきた国際会議は、かつては、1960年の81カ国共産党・労働者党代表者会議があり、最近でいいますと、4回にわたるアジア政党国際会議への参加があります。性格はまったく違いますけれども、どちらもわが党自身が国際会議の正式の構成員となる会議であり、構成員として発言もできますし、活動もできます。

 ところが、NPT再検討会議というのは、NPTの調印国――現在は189カ国を数える国々の政府によって構成されている国際会議です。そのような政府によって構成されている国際会議にたいして、政党としての立場で、本格的に働きかけるというのは、これまでまったく経験のない、初めてのことでした。

 それでは、私たちの立場はどういうものかといいますと、会議にオブザーバーとして参加するというものです。

 参加するにはまず、オブザーバーであることを証明する「IDカード」を国連に発行してもらわなければなりません。これがなければ会議場に入れません。私たちは、再検討会議が始まる前日の5月2日、午前10時前に国連の事務所に行きました。ところが、世界からNGO(非政府組織)のメンバーのみなさんなどが殺到したため、すでに受付は長蛇の列です。一人ひとりの顔写真を撮影しながらの手続きになるため、ひどく時間がかかります。顔写真付きパスですから、本人が並ばなければなりません。そこで、世界各国のNGOのみなさんと一緒に、私たちも全員で並んで、ひたすら列が進むのを待つこととなりました。結局、ここに持ってきましたけれども、「IDカード」を発行してもらったのは、午後2時半、4時間半の「牛歩」を(笑い)、国連本部前でやることになりました。

 その日のニューヨークは30度という暑さ。日陰さえほとんどない歩道で、直射日光にじりじりと焼かれながらの立ちっぱなしの4時間半はなかなか難儀でしたが、うれしいこともありました。私たちがまじめに「牛歩」しているといううわさが、日本から参加した原水協代表団のみなさんなどに、どういうわけか伝わり、「国連本部前に行けば会える」ということになり(笑い)、たくさんの方々と握手をしたり、写真を撮ったりと、交流ができました。海外のNGOの方々とも交流ができました。

 この「IDカード」を取得して会場に入っても、オブザーバーですから、もちろん発言はできません。日本から参加しているみなさんから、「(再検討会議での)志位さんの発言はいつになりますか」(笑い)、「発言ではがんばってくださいね」などという声がかかったのですが、こればかりは申し訳ないのですが、ご期待にそえません。本会議場の演壇まで行ってぜひ話したいと思いましたが、これはかなわぬことであり、先の楽しみにとっておきたいと考えております。(笑い)

 そういう立場での再検討会議への参加でしたので、一体どれだけのことができるのかは、「やってみないとわからない」というのが、率直な実情でした。

 それでも私たちは、NPT再検討会議にたいして、結果的にみて、本格的といってよい働きかけができたと思います。私は、それを可能にしたのは、つぎのような諸要素があったと考えます。

 第一に、日本の原水爆禁止運動は世界的にも高い信頼を集めていること、第二に、わが党が何よりも被爆国・日本から参加した政党であったということ、第三に、わが党が戦後一貫した反核平和の闘争のなかで核兵器廃絶の先駆的な方針を鍛え上げてきたこと、第四に、わが党がこの間、野党外交を発展させ、各国政府、在日大使館とさまざまな多面的交流の関係をつくってきたこと――こういう諸要素があわさって、私たちの活動を可能にしたと思います。

NPT再検討会議にたいする要請文について

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(写真)志位委員長が会談で手渡した要請文

 私たちは、NPT再検討会議にたいする要請文を作成し、会議主催者、国連関係者、各国代表団との会談を重ねました。これがその要請文です。要請文は、私たちの活動にとって“命綱”のようなものなので、練りに練ってつくりあげました。作成にあたっては、つぎのような点を重視しました。

要請内容は、端的に二つの点にしぼった

 第一に、要請内容は、端的に二つの点にしぼったものにしました。

 一つ目の要請は、「2000年のNPT再検討会議で合意された『自国核兵器の完全廃絶を達成するという全核保有国の明確な約束』を、再確認すること」です。5年前の再検討会議は、ブッシュ政権の抵抗によって、2000年のこの到達点の再確認すらできず、失敗に終わりました。ですからこの到達点の再確認は、会議成功の土台となります。

 二つ目の要請は、「核兵器廃絶のための国際交渉を開始する合意をつくること」です。これは、「核兵器のない世界」にむけて前進するうえでの、核心中の核心をなす問題として、私たちが最も力を入れて訴えた問題です。

 「核兵器のない世界」にむけて前進するうえでは、このほかにも重要な論点はたくさんあります。とくに、「核抑止力」論を克服することはきわめて重要です。しかし要請文では、今回の再検討会議で国際社会が実際に合意をめざすべき現実的課題として2点にしぼり、「核抑止力」論批判などは、会談で自由に論点を展開するようにしました。

「核兵器廃絶のための国際交渉の開始の合意」という要請について

 第二に、私たちは、二つ目の要請――「核兵器廃絶のための国際交渉の開始の合意」という要請について、これまでの方針をさらに明確にし、発展させました。

 その一つは、核兵器廃絶交渉と核軍縮の部分的措置との関係です。

 要請文に明記したように、私たちは、米ロ間の新しい戦略核兵器削減条約(新START)の締結、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准・発効、兵器用核分裂物質の製造を禁止する条約(カットオフ条約)、核兵器の先制不使用、非核保有国への核兵器使用・威嚇の禁止、世界各地の非核地帯条約など、核軍縮の個々の部分的措置を前進させることは重要だと考えています。

 同時に、そうした部分的措置の積み重ねだけでは、「核兵器のない世界」に到達することはできません。要請文では、そのことをつぎのように明記しました。

 「核軍縮の部分的措置と一体に、また同時並行で、核兵器廃絶のための国際交渉を開始してこそ、『核兵器のない世界』への道は開かれます」

 すなわち、“まず核軍縮の部分的措置にとりくむ、それが前進して条件がととのったら核兵器廃絶にすすむ”という、いわば「段階論」ではなくて、両者を「一体に、また同時並行」でとりくむ、そうしてこそ「核兵器のない世界」が現実のものになる。この提起は、各国政府との会談のさいに、大きな力を発揮しました。

 いま一つは、「核兵器廃絶のための国際交渉」というのは、どういうイメージのものかということです。要請文では、核兵器廃絶交渉の内容について、「核兵器廃絶の目標そのものを主題として、この目標にいたるプロセスを検討する国際交渉」と明記しました。

 核兵器廃絶交渉といいましても、それは「核兵器をなくすかどうか」ということを、単純に議論するというものではありません。この交渉では、核兵器廃絶という目標にむかってどうやってすすむか、そのプロセスを検討することが当然必要になってきます。

 いま世界では、核兵器廃絶をどうやって実現するかについて、さまざまな提案がなされています。非同盟諸国は、2025年までという期限を区切って核兵器を廃絶する提案をしています。コスタリカとマレーシアは、核兵器禁止条約といって、核兵器廃絶にいたる段取りなどを規定する条約をつくろうと提案しています。それぞれが意義のある積極的な提案だと思います。

 私たちの提案は、そういう状況も念頭において、「核兵器のない世界」をめざす提案はさまざまありますが、そのすべてを交渉のテーブルに乗せて――“A案”、“B案”、“C案”すべてを交渉のテーブルのうえに乗せて、「核兵器廃絶の目標にいたるプロセスを検討する国際交渉」を開始しようではないか、そうした国際交渉を開始する合意をつくることが、いま何よりも大切だというものです。これなら、特定の提案への支持ではなくて、核兵器廃絶へのプロセスについてのさまざまな提案をもちよって検討を始めよう、という幅のある提起となり、多くの国々が一致できるはずです。要請文のこの提起も、各国代表団との会談のなかで、大きな力を発揮することになりました。

要請文は1ページの短いものにし、硬い厚手の紙で手渡す

 第三に、要請文を短いものにしたことが、たいへんによかったと考えております。和文で1ページ、英訳しても1ページに入る文書としました。

 国連の関係者などに聞きますと、「国連など国際会議でのポジション・ペーパー(立場を表明する基本文書)は、長いものは読まれない。せいぜい2ページまで、できれば1ページ」ということを聞きました。私たちは、1ページに抑えました。1ページにしたため、会談で先方にお渡ししますと、先方はまず裏を見るのです。裏が白紙で(笑い)、1ページだとわかりますと、安心して全部に目を通してくれます。要請文を見ながらの会談となりました。

 それから、これは技術的な問題ですが、硬い厚手の紙に印刷したことも実用的でした。ペラペラの紙に印刷しますと、先方の手に渡しても所在なく折れてしまう。硬い厚手の紙だったら、しっかり持っての会談となります。私たちはもちろん全体として、節約に努めました。しかし、一番大事な要請文の用紙代は節約の対象としないで(笑い)、しっかりした紙に印刷しようということにしました。きわめて忙しい国際会議のさなかでの会談を効率的なものとするために、そういう工夫もしながら会談にのぞみました。

会議主催者、国連関係者、各国代表団との会談について

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(写真)会談し握手するカバクチュラン・NPT再検討会議議長(右)と志位和夫委員長=2日、ニューヨーク

 つぎに、この要請文を示しての会談の内容について報告いたします。

 私たちは、ニューヨークに到着した4月30日の午後から、5月5日午後まで、NPT再検討会議主催者、国連関係者、各国代表団への要請・会談をおこないました。それぞれが前向きで建設的な内容となり、私たちの認識も発展する、そうしたうれしい出会いの連続となりました。

再検討会議を運営する要の方々との突っ込んだ会談

 まず、私たちは、NPT再検討会議を運営する要で奮闘されている方々と、突っ込んで会談する機会をもつことができました。

 5月2日、再検討会議開始の前日に、私たちは、リブラン・カバクチュランNPT再検討会議議長(フィリピン国連大使)と会談しました。議長は、私たちの要請文を凝視して一読し、「この要請文には、たいへん広い知識と深い認識が示されています。感銘を受けました」と歓迎の意を表明してくれました。そして、「私は、会議成功の条件の第一に、核兵器禁止条約の議論をあげています。みなさんの要請にイエスといいます。私も最大限のことをします。市民社会のみなさんの支援が必要です」とのべました。約30分の会談でしたが、私たちは議長の誠実で真摯(しんし)な対応に、深い感銘をうけました。

 それから、私たちは、ニューヨークに到着した4月30日の午後、セルジオ・ドゥアルテ国連上級代表(軍縮問題担当)と会談をしました。ドゥアルテ代表は、原水爆禁止世界大会にも参加している、日本でも顔なじみの方です。重要な会議の途中でしたが、私たちとの会談のために、時間を割いてくれました。私たちの二つの要請に対して、ドゥアルテ代表は、「二つとも今回の会議で議論されることになります」とのべ、第一の要請については、「2000年の再検討会議の到達点に、どれだけプラスアルファがされていくかが大切な点です。努力していきます」と応じました。第二の要請については、核兵器廃絶交渉の開始という提起は、「潘基文(パン・ギムン)事務総長の『5項目の核軍縮計画』の第1項目でもあります。同じ方向のものです」と応じました。そして、ドゥアルテ代表は、「市民社会、国会議員、事務総長、それぞれの力が一体となって努力がなされています。ご支援に感謝します」とのべました。「市民社会」とは、世界の反核平和運動のことです。それを国連がたいへんに重視していることが伝わってくる会談でした。私が、「日本の運動にアドバイスがあればお聞かせいただけませんか」といいますと、ドゥアルテ代表は、ちゃめっ気たっぷりにこういいました。「大事なことは、たたかい続けることです。核兵器を使わずに(笑い)。ハートと頭脳の武器をもって」。素晴らしい言葉だと思って聞きました。

 さらに、私たちは、5月5日、ボニフェス・シディヤウシクNPT再検討会議第1委員会委員長(ジンバブエ国連大使)と会談しました。再検討会議には、「核軍縮」、「核不拡散」、「原子力の平和利用」という三つの委員会があり、第1委員会は、そのなかでも最も重要な「核軍縮」をあつかう委員会です。シディヤウシク委員長は、昨年のNPT再検討会議準備会合で議長を務めた練達の外交官です。私たちの要請文にたいして、委員長は、「核兵器が存在する限り、人類の脅威であり続けます。核兵器禁止条約を支持します」と歓迎をしてくれました。

 こうしてNPT再検討会議を運営する要の方々と会談し、要請文の方向で認識を共有したことは、私たちにとって大きな喜びでありました。

各国代表団との会談――どれもが前向きの建設的な会談に

 各国代表団、国連代表部との会談も、それぞれが、意義深いものとなりました。

核保有国――イギリス

 私たちは、核兵器保有国では、イギリス代表団のジョー・アダムソン副団長との会談がもてました。英国政府が、この間、「核兵器のない世界」に向けて、積極的なメッセージを発信していることに注目をしている、と私がのべますと、アダムソン副団長は、こう応じました。「英国はこの3年間、とくに『核兵器のない世界』をつくるうえで果たしてきた役割に自負をもっています。ニューヨークに来て、日本の市民社会、NGOや政党が果たしている積極的役割にも感銘を受けました」。核兵器保有国とも、「核兵器のない世界」への目標を共有し、それにむかううえで反核平和運動の重要性が確認できた、とても印象深い会談でした。

非同盟諸国――エジプト、キューバ、ベトナム

 つぎに、非同盟諸国です。非同盟諸国は、国際政治において、「核兵器のない世界」にむけて、きわめて積極的な役割を果たしています。私たちは、現議長国のエジプト、前議長国のキューバ、さらにベトナムの代表団との会談をおこないました。

 それぞれがとても良い内容だったのですが、キューバ国連代表部ロドルフォ・ベルソン次席大使との会談は感動的なものでした。私が要請文を説明しますと、ベルソン次席大使は、「非同盟諸国の案は、三つの段階、時間枠で進め、2025年までに核兵器の完全廃絶に到達するというものです。核兵器禁止条約を結ぶための国際交渉をできるだけ早く開始し、完全廃絶することが必要です」と応じました。そこで、さらに私はこのように話しました。「核兵器廃絶にはさまざまなプロセスがあります。核兵器廃絶を目標にし、この目標にいたるプロセスを検討する国際交渉を開始する合意をつくることが重要だと思います」。そうしますと先方は、「全面的に賛成です。最も重要なのは交渉開始に合意することです。プロセスを始めることに合意することです。まずプロセスを始め、やり方は相談するということです」と応じました。要請文に明記した「核兵器廃絶の目標にいたるプロセスを検討する国際会議」という提起が、先方の探求と響きあったと感じた瞬間でした。ここで私たちは意気投合し、手を取り合って喜びました。

 そうしますと、ベルソン次席大使から、「日本共産党のこの文書は、簡潔で必要なポイントが明瞭(めいりょう)に示されています。非同盟諸国の仲間に紹介させてもらっていいですか」という発言がありました。私は、「願ってもないことです」とお礼をのべました。後で連絡をとってみますと、キューバは非同盟諸国のすべてに、私たちの要請文を紹介してくれたということでした。こういう、たいへんうれしいことがあったということも、みなさんにご報告したいと思います。(拍手)

新アジェンダ連合――スウェーデン、ブラジル

 さらに私たちは、「新アジェンダ連合」という核兵器廃絶で積極的役割を果たしている国家グループに属する国々とも会談しました。スウェーデン国連代表部のピーター・エリクソン参事官、ブラジル国連代表部のグレリモ・パトリコタ公使であります。どちらの国も、「新アジェンダ連合」で有力な地位を占めている国ですが、核兵器保有を検討した時期があり、そして、それを放棄した歴史があるということを語ってくれました。

 スウェーデンのエリクソン参事官は、私たちの要請にたいして、「核兵器廃絶を目標とした国際交渉の開始については、われわれもその通りだと考えています。目標を共有していきたい」と応じました。さらに、「欧州における米軍の戦術核兵器問題の解決にも、着手する必要があります」とのべました。「核抑止力」論からの脱却が必要だという私の提起についても、「全面的に賛成です。核による安全保障は、他国にも核を持つ口実を与え、私たちの安全保障の脅威にもなります」とのべました。

 ブラジルのパトリコタ公使は、核兵器廃絶の国際交渉について、「私たちも目標としてがんばっています」とのべました。そして、「ブラジルは1988年に核兵器開発をしないと決め、憲法に明記しました。核兵器をなくすと決めたことで、ブラジルの国際的立場は強くなりました」という、たいへん印象的な言葉をのべました。核保有の計画を放棄し、核を持たないことこそ、ほんとうの平和への道だとして、「核兵器のない世界」の先頭に立とうという気概が伝わってくる会談でした。

オランダ、ドイツ、コスタリカ――一つの流れが響きあう

 私たちは、5月5日には、午前中に、オランダ、ドイツ、コスタリカと連続して会談をおこないました。この連続会談も、私たちにとってたいへんに印象深く、また感動的な会談となりました。いわば一つの流れが響きあう会談となりました。

 まず、私たちは、オランダの超党派の国会議員団、ドイツの超党派の国会議員団と会談をおこないました。オランダとドイツは、NATO(北大西洋条約機構)という軍事同盟の加盟国ですが、どちらも自国に配備された米国の戦術核兵器を撤去することを求める国会決議が最近採択されています。まずその話が先方からなされ、私たちは「素晴らしいニュースだ」と勇気をたたえる、そういうところから会談が始まりました。また共通して「核抑止力」論からの脱却の重要性が、そうした軍事同盟国からも語られたことも、私たちの立場と合致するものでした。

 オランダの国会議員団との会談は、朝食をとりながらの1時間あまりのものだったのですが、まず先方はこう言ってきました。「日本の政治は、核抑止から逃れたくないと聞いているが、どうなっているんですか」(笑い)。ズバリ急所をつく質問ですね。ぜひ日本政府に直接聞かせたい言葉ではないですか(笑い)。私は、日本政府が、「日米核密約」を公開しながら廃棄ができず、「核の傘」に依存しつづけている問題点があることを説明しました。私たちの要請文にたいしては、先方から「私たちは戦術核撤去を求め、核兵器廃絶条約を要求しています」「非核の欧州をつくろうという方向です」という力強い答えが返ってきたことを報告しておきたいと思います。

 つづいてのドイツの国会議員団との会談もたいへん充実したものでした。私たちの要請に対し、議員団の代表のウータ・ツァプフ軍縮・軍備管理小委員会委員長は、「この要請文はたいへん重要です。交渉のなかで考慮すべきものです」と歓迎してくれました。それに続けてツァプフ委員長から出てきた言葉は、私たちも驚くような、率直な、自らの認識の発展の話でした。ツァプフ委員長は私たちにこう語りました。

 「この間、ドイツ国会には進展があります。核兵器禁止条約を支持するようになったことです。以前は、ステップ・バイ・ステップ(段階論)の考えでしたが、みなさんの立場と共通する方向に認識が発展しました。私たちは、コスタリカ・マレーシアが提案している核兵器禁止条約に触れ、核兵器禁止条約を積極的に支持し、そのなかで核軍縮の部分的措置にもとりくんでいくべきだと認識が深まりました。核軍縮の部分的措置は、核兵器廃絶のための国際交渉と同時におこなうことが重要です。ドイツ政府は、まだコスタリカ・マレーシア決議案を支持していませんが、議会ではこの条約への賛成に転換するよう求める多数派が形成されています。次回の国連総会では、政府も賛成するように働きかけていきたい」

 私たちの立場にぴったりと合致する方向への発展があったという。私が、この率直な発言に驚いて、「どうしてそういう認識の発展がおこったのですか」と聞きますと、ツァプフ委員長から「核兵器廃絶条約は差別がありません。すべての国が平等の法制のもとにおかれるからです」という答えが返ってきました。

 この答えは私たち自身の認識も発展させる、なるほどという答えでした。たしかに核兵器廃絶条約はどの国にも平等です。そして実に簡単です。みんながそろって核をすてようということですから。それにくらべて部分的措置というのは、どうしても複雑になり、不平等にもなります。NPT(核不拡散条約)がその一番の例です。これは五つの核保有国だけに核保有を認め、他の国は禁止するという歴史に類例を見ない差別条約です。そういう問題点がありながら、国際社会がこの枠組みを受け入れたのは、NPT第6条で核保有国が核兵器廃絶への真剣な努力をおこなうことを約束したからにほかなりません。このように、部分的措置というのは、どうしても複雑になり、不平等にもなる。私たちは、ドイツのみなさんとの会談で、私たちが求めている核兵器廃絶条約こそ、「すべての国は平等」という国際社会の民主的大原則にも合致したものだという確信を深めたということを、報告しておきたいと思います。(拍手)

 オランダ、ドイツと会談を重ねた直後に、私たちは、コスタリカのホルヘ・ウルビナ国連大使との会談をおこないました。ウルビナ大使は、ご自身がNPT再検討会議で発言する直前の会談でしたから、忙しい中での会談だったと思います。しかし、私たちが、直前におこなったドイツの国会議員団との会談の中身を伝え、とくにドイツがコスタリカの提起している核兵器禁止条約に接して認識を発展させたという話を聞いたと大使に伝えますと、大使は目を輝かせて、「核兵器のない世界」をめざすコスタリカ政府の立場を滔々(とうとう)と説明し、こう語りました。「あなたの発言は本当にありがたい。この訪問を心から感謝します。私たちの観点は完全に一致しました。これはすごいことです。この方向にむかって前進していきたい」

 この日のこの一連の会談は、ほんとうに感動的なものでした。コスタリカが投じた一石が、ドイツというNATO加盟国にも影響をあたえ、世界政治を動かす力となって働く。それを双方が喜びあう。ここに私たちは、21世紀の世界政治の新しいダイナミックな姿を見る思いでありました。

私たちの要請文の立場と世界の動きが響きあった

 以上が会談の主な内容であります。私たちが、短い滞在の間に話し合えた国は限られましたが、要請文をもっての会談の全体の特徴をふりかえってみますと、以下の点が言えると思います。

 第一に、「核兵器のない世界」を築くという意思、この歴史的チャンスを必ず生かしたいという思いは、文字通り国際社会の圧倒的多数となっていると思います。

 第二に、「核兵器廃絶のための国際交渉の開始」という私たちの要請の中心点も、国際社会の大勢となっていると言えます。この点では、核兵器保有国の決断が問われているということを強調したいと思います。核保有国の決断いかんで、核兵器廃絶の国際交渉を開始することはすぐにでも可能となっているのです。私たちは、そのことを強く求めていきたいと思います。

 第三に、「核抑止力」論、「核の傘」論について、非同盟諸国や「新アジェンダ連合」諸国はもとより、NATO諸国からも、脱却しようという動きがおこっていることは、きわめて重要だと思います。この点では、唯一の被爆国の政府であるにもかかわらず、いまなお「核抑止力」の呪縛(じゅばく)にとらわれ、「核の傘」に依存し続けている日本政府が、いかに世界の動きから取り残されているかを痛感いたしました。

 全体として、この1枚の私たちの要請文の立場と、世界の動きが響きあった――これが代表団の実感であります。(拍手)

 なお、私たちの要請文は、要請・会談ができなかった国も含めて、NPT再検討会議に参加したすべての国々にお届けする措置をとったことも、報告しておきたいと思います。

バーモント州訪問について

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(写真)南北戦争激戦地の絵画の前であいさつする志位和夫委員長(右から2人目)=4日、バーモント州モントピリア

 私たちは5月4日にバーモント州を訪問しました。バーモント州は、州都がニューヨークから400キロほど北に位置し、カナダ国境に接する北国です。州都モントピリアまでは飛行機と車を乗り継いで片道3時間の旅ですが、日帰りで訪問することになりました。

最も美しい季節、州議会あげての温かい歓迎をうけた

 訪問のきっかけとなったのは、バーモント州の上下両院で、「核兵器廃絶条約の交渉開始を求める決議」が、全米50州で初めて採択されたというニュースが、伝わってきたことにありました。日本の原水爆禁止世界大会にも参加している反核平和運動家のジョゼフ・ガインザさんが、決議採択に尽力したとのことでした。日本の運動は、こういう形で世界に友人を広げているんだなと実感いたしました。そこで連絡をとってみますと、私たちの訪問を歓迎してくれるという。思い切って1日の短い旅ですが、バーモントを訪問することにしました。

 バーモントは、最も美しい季節でありました。州を代表する樹であるリンゴがあちこちに白い花を咲かせています。そういう素晴らしい景色がずーっと続きます。やはりリンゴとハチミツが特産ということでした(笑い)。メープルシロップも特産です。

 私たちは、州議会あげての温かい歓迎を受けました。議事堂の中にある食堂の前には、日本共産党の国会議員が訪問することを知らせるニュースと、私たち一行の訪問目的やくわしい経歴まで書かれた文書がおかれていて、議員のみなさんに配布されていました。どの議員さんに会っても、「ようこそバーモントへ」と歓迎の握手です。

 私たちはまず、シャプ・スミス下院議長と会談しました。スミス議長は私に、「核兵器のない世界の実現を私たちの目で見てみたい。それが私たちの気持ちなのです」と語りました。会談をしていますと、ピーター・シュムリン上院議長も多忙な議会の日程の合間を縫って会談に顔を出し、「私たちの議会を訪問していただき、ありがとうございます」と語りかけ、あいさつをかわします。

 その後、私たちは、壁一面にバーモントの兵士が奴隷解放のために参加した南北戦争の激戦地の絵画がかかったホールに案内されました。この議事堂は1830年に建設された由緒あるものですが、そのなかでもこのホールには特別の歴史を感じました。議会は開会中でしたが、急きょ集まった約50人ほどの議員らを前に、私は求められて即席でつぎのような短いスピーチをおこないました。

 「バーモントの名前の由来が、緑の山というフランス語から来ていることを知りました。その名の通り美しい風景で、素晴らしい季節に訪問し、素晴らしい人々と交流できたことを心からうれしく思っています。みなさんが上下両院で、核兵器廃絶交渉の開始を求める決議を採択したことをニュースで知り、今日の訪問となりました。ここに私たちの『しんぶん赤旗』の記事があります。『米バーモント州上院 核兵器廃絶条約の交渉 大統領に促す決議』との見出しです。核兵器廃絶のための国際交渉開始は、私たち日本共産党も強く主張していることです。ともに手を携え『核兵器のない世界』の実現をめざしましょう」

 議員のみなさんは、私のスピーチに節々で温かい拍手を寄せてくれました。とりわけ、この「しんぶん赤旗」を示した時に、「おお」という声と大きな拍手が起こったことを、ご報告しておきたいと思います。(拍手)

米国の草の根での民主主義の伝統の深さ

 私は、バーモントで、米国の草の根での民主主義の伝統の深さを感じました。議会が市民に自由に開かれています。たとえば、衛視さんが私に、「私は、日本の仙台に知り合いがいるんです。あなたはどうですか」(笑い)という調子で親しく話しかけてきます。ガールスカウトの娘さんたちが議会を傍聴し、核兵器問題での私たちの主張に共感して、いっしょに記念撮影をということになります。そういうふうに、だれかれなく平等で親愛の情をもって接する。私は、議会の関係者に、「この連帯感はいったいどこから来ているのですか」と聞きますと、こういう答えでした。「植民地の時代の初期は、飢餓もひどく、助け合わなければ生きていけませんでした。そのとき以来の共同の精神がいまに生きているのです」。こういう説明でした。

 バーモント州は、南北戦争では奴隷解放のために、人口比でもっとも多くの兵士を北軍に送り出し、その犠牲のうえに奴隷解放を実現したことを誇りにしている州です。あのホールに奴隷解放戦争の大きな絵があったゆえんです。その州がいま、「核兵器のない世界」をめざすうえでも、全米でもっとも進んだ役割を果たしていることに大きな誇りをもっている。こうした平和と進歩をめざす歴史の深さにも、感動を覚えました。

 バーモントで私たちは、たくさんの友人を得た思いであります。これまでも私たちは、「米国、米国民とのほんとうの友情を願っている」とのべてきましたが、バーモントの訪問によって、私は、そのことをたしかな実感をもっていえるようになったということを、ご報告しておきたいと思います。(拍手)

国連・各国政府と、反核運動との共同が、新しい段階に入った

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(写真)核兵器のない世界のための国際行動デーパレードに参加する(前列左2人目から)緒方、井上、志位、笠井の各氏=2日、ニューヨーク

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(写真)日本原水協の公開シンポジウムであいさつする志位委員長と(左へ)笠井、井上両議員。左端は日本原水協の高草木事務局長=3日、ニューヨークのリバーサイド教会

 さて、ニューヨークでの活動に話をもどします。

 さきほど、要請文をもっての要請・会談について報告しましたが、ニューヨークでの活動で私たちが実感したことは、世界諸国民の世論と運動こそが、「核兵器のない世界」への流れを前にすすめる推進力だということであります。

日本原水協が国際的信頼を高め、素晴らしい活動を展開した

 そのなかでも、日本原水協をはじめ、日本の原水爆禁止運動が、国際的信頼をいよいよ高めていることは、私たちにとっても誇らしいことでありました。今日は、日本原水協の高草木博事務局長がお見えになっておられます。ありがとうございます。ご一緒に拍手をおくりたいと思います。(大きな拍手)

 NPT再検討会議への日本原水協代表団の参加は、約1500人と、5年前の800人を大きく上回り、そのうち400人が20歳代までの青年と聞きました。日本原水協は、「核兵器全面禁止の協議を開始する合意を作り上げる」ことを求め、各国NGOとも協力して、素晴らしい活動を展開しました。日本原水協が中心になって集めた国際署名は、691万2802人分にのぼり、NPT再検討会議に提出されました。5月2日におこなわれた「核兵器のない世界のための国際行動デー」・ニューヨーク行動の大パレードには、1万人が参加しました。NGO主催の国際平和会議でも、日本原水協は重要な役割を果たしました。かつてキング牧師がベトナム戦争反対の有名な演説をおこなったハドソン川に面したリバーサイド教会で、原水協主催の公開シンポジウムが開かれましたが、日本からの参加者を中心に1600人が参加した大盛会の集会となりました。

 私たちも、日本原水協代表団のみなさんとともに、ニューヨークのマンハッタンを行進し、国際平和会議に参加し、リバーサイド教会での公開シンポジウムでは、日本の仲間たちを前にあいさつする機会を与えられたことは、大きな喜びでありました。

「私たちは、市民社会の熱意に応えなければなりません」(NPT議長)

 全体として、かつてない反核平和運動の高まりが感じられました。そして、その高まりを、NPT再検討会議の主催者、国連関係者が重視して、受け止める姿がたいへんに感動的でした。

 NGO主催の国際平和会議に、潘基文国連事務総長が出席したことは、その一つの象徴でした。国際平和会議の司会をつとめたのは高草木事務局長です。高草木事務局長が紹介し、握手をかわしながら、潘基文国連事務総長が演説を始めました。国連事務総長の参加自体が異例であるとともに、その演説内容も参加者の心を揺さぶるものでした。私も、それを聞き、心を深く動かされましたが、潘基文事務総長はつぎのようにのべました。

 「私は、みなさんがどれだけ犠牲をはらって活動をしているか知っています。勇気をもって人類の大志のために行動をしつづけていることを知っています。核兵器廃絶は私の優先課題です。『核兵器のない世界』は達成できないゴールではありません。強い意志があれば達成できるのです。私は、核兵器禁止条約を核保有国に迫ります。政府を動かすのは、みなさんの力が必要です。各国政府に迫りましょう」

 たいへん胸をうつ演説でした。

 カバクチュランNPT議長、ドゥアルテ国連上級代表は、5月2日、日本原水協が集めた署名を受け取る国連本部前のセレモニーのために――パレードの到着が遅れて1時間も待ったそうでありますが、1時間もパレードの参加者を待ちうけて、署名を受け取った、そういう行動をしたと聞きました。署名の現物の大半は、国連本部前の道路の反対側の広場に積まれていたわけでありますが、カバクチュラン議長は「みなさんの署名をこの目で見たい」と、警察が封鎖している道路を渡り、警官が制止したのにたいして、「私は、明日から始まるNPT再検討会議の議長です。署名を見に行くのです」と、これを振り切って集約場所まで足を運んだとのことでした。

 カバクチュラン議長は、翌日、5月3日のNPT再検討会議の開会にあたって、演説の冒頭でつぎのようにのべました。

 「昨日私は、市民社会が集めた署名を受け取りました。彼らの熱意はたいへん大きなものがあります。私たちは、この熱意に応えなければなりません」

 日本原水協という名前は使いませんでしたが、「市民社会が集めた署名」というのは、文字通り日本から届けられた署名のことであります。私は、この演説も直接聞き、たいへん大きな感動を覚えました。市民の運動への言及は、NPT再検討会議の歴史でも初めてのことだと聞きました。

 日本でみなさんが一人ひとり集めた署名は、国際政治の場で真剣に核兵器廃絶のために奮闘する人々によって、何よりもの支援・激励として受け止められ、世界を動かす力となって働いている。このことを、私は、その現場で目撃してきたということを、ご報告しておきたいと思います。(大きな拍手)

 国連・各国政府と、反核運動との共同が、新しい段階に入った。これはともに行動した私たちの実感でもあります。

帰国後――再検討会議のなかで起こっている核廃絶交渉への動き

 NPT再検討会議は、5月28日まで続きます。その進行について、私たちは注視してきましたが、帰国直後に私たちは、ビッグニュースに接しました。5月14日に発表されたNPT再検討会議の第1委員会、「核軍縮」の委員会の報告草案であります。

 この報告草案を読みますと、2000年の再検討会議でおこなわれた核保有国による核兵器廃絶の「明確な約束」の再確認とともに、「すべての国、特にすべての核保有国が、核軍備削減・廃絶の最終段階に到達し、核兵器のない世界を維持するために必要な法的枠組みを確立する」ことを提案し、その具体策として次の行動を提起しています。

 ――「行動6」「核保有国は、核軍備削減・廃絶における具体的な進展を促進するために、2011年までに協議を開始するものとする」

 ――「行動7」「具体的な時間枠内での核兵器の完全廃絶のためのロードマップ(行程表)について合意する方法と手段を検討するため、2014年に国際会議を招集する」

 私は、このニュースに接し、5月16日、カバクチュランNPT議長に書簡を送り、歓迎とともに再度の要請をおこないました。私は書簡でこう議長に伝えました。

 「核兵器の完全廃絶のためのロードマップを検討するために国際交渉を開始するという提起は、過去の再検討会議ではなかった画期的なものです。それは、私たちがあなたにお伝えした『核兵器廃絶の目標そのものを主題として、この目標にいたるプロセスを検討する国際交渉を開始する』という要請と合致するものであり、また、被爆国・日本の反核平和運動が求めていることそのものです。私は、この提起を心から歓迎するとともに、これが実行に移されれば『核兵器のない世界』に向け大きな前進がはかられるものと確信するものです」

 「私は、この報告草案を準備する過程で議長が払われた多大な努力を称賛するとともに、今後の協議において、さまざまな困難をのりこえ、報告草案に示された方向が実を結ぶよう、議長がひきつづき力をつくしていただくことを心から要請するものです」

 NPT再検討会議の行方がどうなるか、予断をもっていうことはできません。その後の討論も、私たちは注視しておりますが、討論のなかでは報告草案への否定的な意見も見られます。さまざまな意見をふまえて、報告草案の「修正案」も提起されたようです。最終文書までには、他の問題にかかわっても、さまざまな困難も予想されます。NPT再検討会議というのはコンセンサス方式、すなわち全会一致方式のため、1国でも強硬に反対しますと最終文書がつくれないということにもなります。

 しかし、私は、こういう方向が、つまり核兵器廃絶のロードマップを検討する国際交渉の開始という方向が、交渉の過程で出されてきたこと自体が、世界の画期的な変化を反映している、このことは間違いなくいえると思います。そしてそこに、日本の平和運動と日本共産党の活動が貢献していることも、間違いなくいえると、私は思います。この動きは、この再検討会議の帰すうにかかわらず、今後、「核兵器のない世界」を実現するうえで大きな力となって働くでしょう。ここに大いに確信をもとうではないかということを言いたいと思うのであります。(拍手)

ニューヨークでの活動をふりかえって

すべての国が世界政治の主人公となる新しい時代が到来した

 ニューヨークでの活動をふりかえって、私は、二つのことを強く感じております。

 第一は、世界は大きく変わりつつあるということです。

 わが党が、2004年の第23回党大会で決定した新しい綱領は、20世紀に起こった世界の構造変化を分析し、21世紀の新しい世界像を明らかにしました。そこで、私たちが強調したのは、21世紀の世界は、もはや少数の大国が動かす世界ではないということです。すべての国々が対等・平等の資格で、世界政治の主人公となる。それが21世紀の世界だということであります。

 そのことは、核兵器問題とNPT再検討会議でも強く実感されたことでありました。ここで重要な役割を果たしているのは、いわゆる「大国」だけではありません。新興国や途上国が実に生き生きと、また堂々と、国際政治のプレーヤーになっています。カバクチュランNPT議長はフィリピンの外交官です。シディヤウシクNPT第1委員会委員長はジンバブエの外交官です。ドゥアルテ国連軍縮担当上級代表はブラジルの外交官です。さらに、エジプト、キューバ、インドネシアなど非同盟諸国がきわめて重要な役割を果たしています。コスタリカとマレーシアが提案している核兵器禁止条約が、世界に大きな影響を与えています。コスタリカといいますと、人口では約460万人の小さな国です。しかし今の世界で重要なのは、国の大小ではありません。経済力の大小でもありません。ましてや軍事力の大小ではありません。その国がどういう主張をしているかによって値打ちがはかられます。世界の道理に立った主張を貫くならば、国の大小にかかわらず尊重されます。どこかの国のように、自分の主張のない国は相手にもされません(笑い)。これが今日の世界なのです。

 率直にいって私は、日本政府には、この新しい世界像がまったく見えていないのではないかと思います。なぜフィリピンが、ジンバブエが、コスタリカが、国際会議であれほどの重要な役割を果たしているのか、おそらく日本政府には理解不能なのではないかと(笑い)、私は思います。

 私は、ニューヨークでの国連本部での経験で、世界のすべての国が、対等・平等な立場で、世界政治の主人公となる新しい時代の到来を感じました。そしてこの世界像こそ、私たちの新しい綱領が示す21世紀の世界像であるということを、強調したいと思うのであります。(拍手)

歴史の試練をへて発展させてきた日本の反核平和運動の生命力が実証された

 第二は、核兵器問題をテーマにした政府間の国際会議で、日本の原水爆禁止運動、日本共産党の提起した核問題での方針が試され、国際的な試験に合格したということです。それは私たちの提起が、会議主催者、国連関係者、各国代表団などの有力な部分に歓迎され、正面から受け止められたという事実によって証明されたと思います。日本の反核平和運動が、国際政治によって試され、その道理と力が証明されたのであります。

 私は、ここにいたるまでには、さまざまな歴史の試練によって日本の反核平和運動の方針が鍛え上げられてきた、その歴史の積み重ねがあると思います。

 1963年8月、ソ連は、米国、英国と部分的核実験停止条約をむすび、これを「核兵器全面禁止への第一歩」と宣伝し、世界と日本の平和運動におしつけようとしました。わが党は、この条約が地下核実験による核兵器開発を合理化し、米ソを軸とする核兵器独占体制を維持するものとして、強く反対しました。その批判の正しさは、その後の米ソによるとめどもない核軍拡競争によって証明されました。こうした部分的核実験停止条約というあしき部分的措置を核兵器廃絶と対立させて、それをすべてに優先させるキャンペーンのなかで、社会党・総評指導部はそれに引きずられて日本原水協と世界大会から脱落しました。その時に、核兵器廃絶という目標をしっかり立てて、今日にいたる原水爆禁止運動の旗を守ったのが、この時代の先輩たちの闘争でありました。この時のソ連の干渉をはねのけたからこそ、いまの日本共産党があり、日本の原水爆禁止運動があるということを、私は言いたいと思います。

 1983年から84年には、日本共産党は、ソ連共産党との間で、核兵器廃絶の課題を世界平和のための闘争のなかでどう位置づけるかをめぐって、徹底した論争をおこないました。わが党は、核戦争阻止・核兵器廃絶の課題で共同できるすべての勢力を結集し、核兵器固執勢力を孤立させることを提起しました。ソ連側もこの提起に応ぜざるをえなくなり、1984年12月には、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶に関する「共同声明」の発表にいたりました。ソ連側の本心はともかく、この「共同声明」は、反核平和の国際世論を高めるうえで重要な歴史的意義をもちました。ゴルバチョフ書記長に代わるもとで、この「共同声明」の精神は投げ捨てられましたが、1985年から始まった「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」国際署名への国内での賛同は6千万人を超え、国連に報告されました。

 今回のわが党の行動は、NPT再検討会議という政府間の国際会議に、日本共産党という政党が参加して働きかけるという前例のないとりくみであったということをのべましたが、それを土台から支えた力は、日本の原水爆禁止運動が部分的核実験停止条約問題などの試練を経て守ってきた被爆国・日本の反核平和運動の伝統の力であり、それを情勢にそくして発展させてきた力であると、私は思います。その力が21世紀のいま、国際政治と大きく響きあって、それを前に動かす働きをしている。ここに確信をもって、「核兵器のない世界」にすすむために、ひきつづき力をつくそうではありませんか。(大きな拍手)

米軍基地と日米関係についてのわが党の立場を米国に伝える(ワシントン)

 つぎに、「基地のない沖縄」、「対等・平等・友好の日米関係」を願う、沖縄県民、日本国民の声を、直接、米国政府と議会、米国社会に伝えるという私たちの活動について、報告いたします。5月6日、7日のワシントンDCでの私たちの活動の重点は、ここにおかれました。

ルース駐日米国大使との会談(4月21日)

 米国との関係では、昨年4月のチェコ・プラハでのオバマ大統領の演説――「核兵器のない世界」を米国の国家目標にするという演説にさいして、私は、大統領に、演説を「心から歓迎する」とともに、具体的なイニシアチブを要請する書簡を送り、先方から返書が返ってくるというやりとりがありました。

 そのさい私は、記者会見で、「適切な機会に、日米関係や米軍基地の問題についても、私たちの立場を話したい」と発言しました。これは、私は、国民のみなさんへの公約と心得て、どこかで果たさなければならないと考えていた問題でありました。

 今回の訪米は、沖縄・普天間基地の問題が国政の大問題となるさなかの訪米となりましたので、私たちは、核兵器問題とともに、1年前の約束、公約を果たしたい、日米関係と米軍基地についての私たちの立場を米国政府に伝えたいと考えました。

 実は、私たちの訪米の計画とは別に、新しく駐日米国大使に赴任したジョン・V・ルース大使とは、意見交換をしようという話がすすんでいました。

 4月21日に、私とルース大使との会談が実現し、私は、その場で、核兵器問題と日米関係についてのわが党の見解を率直に伝え、意見交換をおこないました。普天間基地問題については、私たちが沖縄の情勢をどう見ているかを伝え、「唯一の解決の道は無条件撤去しかない」というわが党の立場を伝えました。日米関係、沖縄問題での立場の違いは厳しいものがありましたが、率直な意見交換は有益だというのが実感でした。

 ルース大使は、最後に私にたいして、「立場の違いはあっても、敬意をもってオープンなコミュニケーションをもつことが重要だと考えています。意見が異なってもいつでも喜んでお会いしたい」とのべました。私は、「お互いに立場を異にしても、こうした意見交換をこれからも続けたい」と応じました。

 この会談のさいに、私は、訪米の計画について大使に話し、ワシントンでの米国政府との会談のアレンジ(手配)を要請しました。ルース大使は、「要請は喜んでワシントンに伝えます」と応じました。こういういきさつがあって、米国政府との会談が、ワシントンで実現することになりました。

「無条件撤去しか解決の道はない」――米国政府に伝える(5月7日)

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(写真)米国務省でメア日本部長(右から2人目)と会談する志位和夫委員長(左から2人目)=7日、ワシントン

 私たちは、5月7日午後、米国務省で、ケビン・メア国務省日本部長、多国間核安全部ジョナサン・サンボア氏と会談し、核兵器問題と日米関係についての日本共産党の立場を米国政府に伝えました。

核兵器問題についての意見交換について

 まず私は核兵器問題についてのわが党の立場を伝えました。NPT再検討会議にたいするわが党の要請文を渡し、ニューヨークでの私たちの活動の概要を話しながら、二つの要請点をのべました。

 私は、この問題については、「米国政府と私たちでは、核兵器問題でも立場の違い、アプローチの違いはあるが、『核兵器のない世界』をめざすという点では、大局的には米国政府と協力が可能だと考えています」と話しました。

 米側は、「日本共産党はずっと前から核兵器のない世界をめざしています。具体的にどうするかは立場は異なりますが、目的は同じだと理解しています」と応じました。

沖縄問題と日米関係について何を語ったか

 つづいて私は、日米関係、沖縄問題についての日本共産党の立場を、米国政府に伝えました。もとより、日米安保条約にたいする評価など、現在の日米関係のあり方については、日本共産党の立場と米国政府の立場は、根本的に違います。しかし、どんなに立場が違っても、否定できない事実と道理はあるだろう。それを冷静に、諄々(じゅんじゅん)と、外交的節度を保ちつつ、しかしきっぱりと米国政府に伝えよう。私たちは、こういう姿勢で会談にのぞみました。

 私は、「もとより私たちは反米主義ではありません。米国の独立革命、民主主義の歴史に大きな敬意を持っています。その観点から、私たちの立場を率直に伝えたい」とのべて、つぎの諸点を話しました。

 一つは、沖縄の情勢と問題解決の道についてであります。私が話したのは以下の諸点であります。

 ――「沖縄問題をめぐる情勢の特徴は、一言で言うと、普天間基地を返還する代わりに、別の場所に『移設』する方針が、完全に破たんしたということにある」こと。

 ――「4月25日に、9万人が集って県民大会が開かれ、『普天間基地閉鎖・撤去、県内移設反対』という島ぐるみの総意は揺るがぬものとなった」こと。

 ――「5月4日、鳩山首相が沖縄を訪問し、『県内移設』という方針を持っていったことが、県民の怒りの火に油を注ぐことになり、沖縄県民の島ぐるみの団結をいっそう強固なものにする結果となった」こと。

 ――「私は、4月21日にルース大使と会談したさいに、『沖縄の情勢は決して後戻りすることはない限界点をこえた』、怒りが沸騰点をこえたとのべました。『ポイント・オブ・ノー・リターン』ということです。私たちの判断は、『県内移設』という方針では、絶対に解決は得られない、県民の理解を得ることは絶対に不可能な、展望のない方針だ、ということにある」ということ。

 ――「米国政府は、『地元合意』がないところには基地はつくらないことを原則にしているというが、いまは沖縄県内はもとより、日本国内のどこにも、『地元合意』を得られる場所はない。普天間問題の唯一の解決の道は、『移設条件なしの撤去』、すなわち無条件撤去しかない。これが私たちの見解だということを、米国政府にお伝えしたい」。

 私のこの提起にたいし、米側は、「日米安保条約に基づく米軍の存在は、日本防衛と極東の平和と安全に貢献しています。海兵隊の存在は抑止力として重要です」との立場をのべました。

 私はこう反論しました。「『抑止力』という言葉は、沖縄ではもはやまったく説得力を失ってしまっています。『抑止力』というが、沖縄の海兵隊が実際に展開しているのは、イラクであり、アフガニスタンではないですか。普天間基地の海兵隊は、1年のうち、半分は(海外に展開して沖縄には)いないのです。これでどうして平和を守る『抑止力』なのか。これらの疑問にこたえる説得的な説明はなされていません。また説明することはできないでしょう」

 私がもう一つ、米側に伝えたのは、沖縄がこうむってきた歴史的苦難であり、いまの局面を歴史的視野でとらえることが必要だということです。

 私は、「沖縄県民の怒りの根源には、凄惨(せいさん)な地上戦を体験し、占領時に土地を強奪され、戦後65年にわたる基地の重圧のもとで、痛ましい事故や事件が繰り返されてきた歴史的な怒りの累積があります」とのべながら、「ここで一つ、歴史(の教訓)について考える必要があります」として、つぎのように米側に提起しました。

 「かつて、1969年、日米両国政府は、沖縄の施政権返還で合意しました。これは、沖縄と日本本土の大きなたたかいにおされたものでした。このときの決断は、沖縄の施政権を放棄したサンフランシスコ条約第3条の壁を越えたものでした。条約上は不可能なことを決断したのです。私たちの判断は、同じような決断が求められる歴史的岐路に、いま日米関係が立ち至っているということです。私は、情報公開された、沖縄返還にいたる過程での米国の国務省、国防総省、在日大使館などが交わした関連公文書をすべて読みました。そこには、国務省と国防総省との激しいやりとりがあります。そこに出てくるのが、『ポイント・オブ・ノー・リターン』という言葉です。国務省側がそういう判断をして、返還にいたりました。いまはまさに、そういう歴史的岐路に立っているというのが、私たちの判断です。沖縄の県民大会では、こういう発言を聞きました。普天間基地を抱える宜野湾市長の発言です。『もしも県内移設を強行するなら、沖縄からすべての米軍基地の撤去を求めることになるだろう』という発言です。嘉手納町の町長は、私との会談で、『日米安保条約の是非そのものを考えなければならない』とのべました。県民の怒りがここまで深いものになっているという、この事実を直視する必要があります。日米安保条約の問題でも、海兵隊の『抑止力』の問題でも、(米国政府とわが党は)立場が違います。しかし、県民の合意が絶対に得られないということは事実です。この事実を直視しなければなりません。事実を直視すれば、無条件撤去しか解決の道はありません」

 おそらく、米国政府が、アメリカの地で、日本の国会議員から、正面切って、沖縄県民の声がどこにあるかを聞いたのは、これがはじめてではないかと思います(拍手)。だれもそれを伝えようとしなかった。日本政府も伝えていません。私は、4月25日の沖縄での県民大会に参加し、その場でも、「基地のない沖縄」を願う県民の痛切な思いを、肌につきささるほど感じました。それをそっくり伝えるのは日本の政治家としての重大な責任と心に刻んで会談にのぞみました。一つひとつ言葉を選びながら、ともかくも沖縄県民の思いの一端を伝えることができて、一つの責任が果たせた思いであります。(拍手)

立場が違っても意見交換を続けることが確認された

 この問題では、立場の厳しい対立は、もちろん最後まで続きました。同時に、私は、米側の対応として、1時間15分の真剣なやりとりをはさんで、担当者が最初にのべた言葉と、最後にのべた言葉は、たいへん重要だと聞きました。

 最初の言葉はこういうものでした。「ようこそ国務省へ。お会いできて光栄です。時代は変わりました。これまで日本共産党との接触はありませんでしたが、日本共産党は日本の公党です。意見交換をすべきです」

 そうして、厳しいやりとりがありました。最後の言葉は、先方からのもので、「見解は違っても意見交換するのは有益であり、民主主義の基本です。これからも続けましょう」というものでした。私も、「それは重要なことです。民主主義の基本ということについては、全面的に同意します」と応じました。そしてこの会談の直前に、私たちが、「リンカーン記念館」を敬意をもって訪問したことを伝えました。有名な「人民の、人民による、人民のための政治」というリンカーンのゲティスバーグでの演説が、壁に刻んである記念館であります。合衆国の民主主義の歴史的伝統への敬意を私が話しますと、米側は「ありがとうございます」と謝意の言葉をのべました。

 こうして、立場は違っても、意見交換をしていく、米国との話し合いのルートが第一歩ですが開かれたことは、今後にとってきわめて重要だと考えるものであります。(拍手)

連邦議会議員との会談について

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(写真)リンカーン像の前で(左から)井上、志位、笠井の各氏=7日、ワシントンのリンカーン記念館

 私たちは、5月6日と7日に、連邦議会議員のみなさんと会談する機会もありました。民主党と共和党の両党の3人のベテラン議員との会談です。ビック・スナイダー下院議員(民主党)、ドナルド・マンズーロ下院議員(共和党)、トーマス・ピートライ下院議員(共和党)です。

 この一連の会談でも、私たちは、核兵器問題、日米関係についての日本共産党の見解を伝えました。沖縄の普天間基地問題についても、解決の道は無条件撤去しかないことを率直に話しました。同時に、多面的な意見交換をおこないました。

 私が、たいへん印象的だったのは、意見が対立しても、率直にそれを述べ合うことで、気持ちのよい友好的な会談となり、「今後も続けましょう」となったということです。こちらも言いたいことを言う。相手も議員の立場ですから自由に言いたいことを言ってきます。ことごとく意見がぶつかっても、まったく対立していても、ジョーク(冗談)の応酬になったりもするのです。なかには、まったく政治的に対立していても、やっていて「こんな面白い政治会談はないな」、と思ったような会談もありました。

 たとえばある会談では、先方が、「なぜ今まで米国にこなかったのか」(笑い)と聞いてくるので、「1980年代末までは、日本共産党の入国自体が難しかった」といいますと、「でもあなたは危険そうには見えない」(笑い)という。

 日本共産党と旧ソ連共産党との関係も話題になりました。私が、「日本共産党ぐらいソ連共産党の無法と厳しくたたかった党はない。ソ連による1968年のチェコスロバキア侵略、1979年のアフガニスタン侵略に厳しく反対し、大論争をした。ここにいる緒方(靖夫副委員長・国際委員会責任者)さんは、アフガンの現地に危険を顧みずに入って、侵略の事実を世界に明らかにした。そのため、ソ連共産党の機関紙『プラウダ』から『緒方はCIAのエージェント(諜報員)だ』と非難されたこともある」といいますと、先方はまじめな顔をして緒方さんに向かって「あなたは本当にCIAか」(笑い)と聞いてきます。もちろん緒方さんはとんでもないと否定しましたが、こういう会話をつうじて日本共産党の自主独立の路線が伝わっていきます。

 共和党の議員の部屋には、リンカーンの大きな肖像画が飾ってあります。考えてみますとリンカーンは共和党が生んだはじめての大統領です。事実上の共和党の創設者です。そこで私は、マルクスとリンカーンの交流の話をしました。リンカーンが1864年に大統領に再選されたとき、マルクスは心をこめた祝意を伝える書簡を送っています。それに対してリンカーンも心のこもった礼状を返しています。19世紀に大西洋をはさんでそういう交流があったという話をしましたところ、びっくりしてそんなことがあったのかということになります。私が、あなたがた共和党の創設者はリンカーンだ、私たち共産主義の創設者はマルクスだ、2人には交流があった、そういう歴史の話になりますと、共通項が出てきてまた話がはずみます。

 政治的に対立していても、人間として会談が成立していくわけです。そのうち「共産党」と「共和党」は、漢字で書くとどうなるのか、私は書いて説明しました。真ん中の文字をのぞいて、3文字のうち2文字まで同じになる(笑い)。先方は、「それでは3分の2まで同じか」(笑い)。こういうやりとりもありました。

 連邦議会議員のみなさんとの自由な意見交換を通じて、私は米国の政界とつきあううえでは、はっきりとモノをいうことこそ重要だと、感じました。相手の気持ちを忖度(そんたく)してぐずぐずと意見をいわないのが一番悪い(笑い)。「トラスト・ミー」(私を信じて)などといって(笑い)、意見をいわずに信頼だけを求めるというやり方も一番悪い。はっきり言うべきことを言ってこそ、立場がまったく違っても、ある信頼感が生まれるということを感じました。

 連邦議会の議員のみなさんとの会談で、これも第一歩ですが、米国議会との対話の窓が開かれたということも、今後にとって重要だと考えております。(拍手)

全米法律家協会での講演について

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(写真)全米法律家協会の集いで講演する志位和夫委員長=7日、ワシントン

 5月7日、ワシントンでの最後の仕事は、「21世紀の日米関係のあるべき未来」と題した講演でありました。

 アメリカに行ったら、ぜひ米国社会にむかって、日米関係についての私たちの考えを、まとまって訴えたい。そう考えていましたら、全米法律家協会――ナショナル・ローヤーズ・ギルド――の元会長で、緒方さんの盗聴事件などを支援してくださって、交流があったピーター・アーリンダーさんが尽力してくれまして、講演の場をつくってくれました。急な話でしたので、参加人数は少数でしたが、有力な弁護士や大学教授なども参加してくれて、とてもいい意見交換ができました。全米法律家協会は、弁護士、法科学生など、法曹関係者数千人が参加する組織と聞きました。今後、アメリカ社会と広く交流するうえでも第一歩を踏み出せたと考えております。

 私の講演では、三つの柱立てで話しました。聴衆にはさまざまな人がいるでしょうし、日本共産党の立場を聞くのはもちろん初めての人たちです。そういう方々にもどうやってわかってもらえるか、いろいろ考えながら話しました。

 第一の柱は、日米安保条約の現状をどうとらえるか。この問題では、米国でも広く知られているジョージ・パッカード米日財団理事長が、4月15日に、米上院外交委員会の公聴会で、「この条約が無期限の未来まで続くと考えることはできない」として、日米安保条約の問題点を的確かつ包括的に話しています。たいへん興味深い発言です。私は、それを引用しながら、この体制の異常な従属性をのべ、「日米関係が、戦後65年たって、『平等なパートナー』とはほど遠い現状におかれているという事実を直視することから、その未来を考えなければなりません」とのべました。

 第二の柱は、このような日米関係の矛盾の集中点が沖縄だということです。私は、沖縄における米軍基地の密集の度合いは全米50州のどの州よりも深刻であること、焦点となっている普天間基地は米国の基準では存在が許されない基地であること、沖縄の基地が生まれながらにして民有地の強奪という無法の上に築かれたものであること、戦後65年にわたって沖縄県民は米軍基地の耐え難い苦しみを背負わされてきたこと、沖縄県民の心に共通して刻まれている痛ましい事件・事故があること、いま起こっている沖縄のたたかいの根源には長年の基地による重圧と悲劇の累積があること、そして普天間基地問題の唯一の解決法は無条件撤去しかないことなどを詳しく語りました。

 聴衆のほとんどは沖縄の実態を初めて知った様子で、私が配布した普天間基地の航空写真(宜野湾市作成のもの)などを、息をのむようにして見て、その実態に耳を傾けてくれました。

 私は、沖縄問題についてこう強調しました。

 「沖縄問題は、たんに極東の一つの島の出来事ではありません。それは、日米関係のあり方の根本からの見直しを、日米両国の政府につきつけているのです。私たち日本国民のデモクラシーが試されているし、米国のデモクラシーもまた試されているのです」

 私は、沖縄問題は民主主義の試金石だと考えます。それに真剣にとりくまない政治は、民主主義の政治とはいえません。それが私たちの考えであります。

 第三の柱として、私は、「日米安保条約をこのまま続けることの是非を、正面から問うべき時代に入ったと考えます」とのべ、日米安保条約を廃棄して、それに代えて日米友好条約を締結しようという私たちの綱領的展望を語りました。そしてアメリカ合衆国の建国の精神と日本共産党の立場は、従属を断ち切って独立をかちとるという点で、深く響きあうものがあるというのが私たちの確信だと、講演を結びました。日本の政党代表が、米国社会において、日米安保条約を廃棄し、日米友好条約を結ぼう、という真に未来ある日米関係の展望を語ったのは、この講演がおそらく歴史上初めてのものだと思います。(拍手)

 独立国のなかに、巨大な外国軍基地があり、多くの人々の命や安全を脅かし、治外法権となっている状態が、未来永劫(えいごう)続くことは決してありえません。また続かせてはなりません。それが未来永劫続くと考える政治家がいたら、それはおよそ国の独立や尊厳を忘れたものであり、日本の政治家としては失格というほかないと、私はいいたいと思うのであります。(拍手)

 私たちが、初めての訪米で語ったことは、最初のほんの小さな一歩です。しかし、この真に未来ある展望が、やがて日米両国で大きく広がり、現実のものとなる日が必ず来ることを、私は固く信じております。そのために一緒にたたかおうではありませんか。(大きな拍手)

米国訪問の全体をふりかえって――三つの点について

 ワシントンでの日程をすべて終えて、私たちは夜、記者会見をおこないました。その場でのメディアの質問にも答えながら、私は今回の訪米の意義について、いろいろな角度から考えてみました。報告の最後に三つの点をのべたいと思います。

なぜ今回、初めての訪米が実現したか

 第一は、なぜ初めての訪米が実現したのかということです。この質問がニューヨークでの会見でも、ワシントンでの会見でも、メディアから寄せられました。その場でも答えましたが、私は二つの要素があったと思います。

 一つは、米国社会が変化しつつあるということです。端的にいえば、アメリカにおいても“反共の壁”が大きく崩れつつあるということです。米国は、かつては日本共産党員は入国が許されない時期もあり、1980年代までは入国それ自体が困難という状態が続きました。しかし、今はその壁が取り払われました。この変化はオバマ政権でさらに進んだと思います。東京でのルース大使との会談でも、ワシントンでの国務省との会談でも、共通して「立場が違っても、意見交換することは有益だ」との立場が表明されたことは、印象深いことでありました。共産党だからということで排除しない。意見交換を有益と考える。これは明らかに前向きの大きな変化であり、進歩だと考えるものであります。

 いま一つは、日本共産党の側の発展です。わが党は、2004年の綱領改定において、帝国主義論を発展させました。すなわち、植民地体制が崩壊した21世紀の世界のもとでは、独占資本主義の国だから、帝国主義の国になるとはいえない、帝国主義かどうかは、その国のとっている現実の政策と行動で判断すべきだというように、帝国主義論を発展させました。それは世界の新しい変化に即した理論の発展でした。

 そのときに、私たちは、米国については、その世界政策を分析して、まぎれもなく帝国主義との判断をしました。同時に、その米国も将来にわたって固定的に見ないことも確認しました。米国であっても、世界の平和や進歩の流れのもとで、前向きの態度を部分的にとることもありうるだろう。そうした変化が起こったときには、「複眼」でとらえ、覇権主義の政策と行動は厳しく批判するが、前向きの変化はしっかりとらえて対応するという方針を確認しました。こうして、米国の見方も、より事実に即した原則的かつ柔軟な見方が可能となりました。その見地が確立していたからこそ、オバマ政権のもとでの変化への対応が可能となり、米国訪問に結びつきました。新しい綱領の科学的な正しさが、米国という現場での実践によって試され、そして実証されたということを、強く実感しているしだいであります。(拍手)

日本共産党の野党外交が、米国にまで到達した意味について

 第二は、日本共産党の野党外交が、米国にまで到達した意味についてであります。

 日本共産党は、1998年に中国共産党との関係正常化をはかったのち、1999年に野党外交の方針を確立しました。すなわち、それまでの主に共産党間の交流にとどまらず、相手が保守的政党でも革新的政党でも、またどのような傾向の政権でも、双方に交流の意思があれば、おおいに対話と交流を広げ、一致点での協力をはかるという方針を確立しました。今から11年前の決定であります。

 その最初の実践が、不破委員長(当時)による東南アジア諸国歴訪でありました。それが南アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、中央アジアに広がり、今回の訪問で米国に達しました。これはたいへんに重要な意味を持っていると私は考えます。

 なぜなら米国は、日本にとって太平洋をはさんだ大切な隣国であるというだけではありません。わが党にとっては、「国民が主人公」の民主的政権――民主連合政府を樹立するさいに、従来の古い従属的関係の根本的変革が必要な2国間関係が、日米関係なのであります。すなわち、わが党にとって日米関係の変革は、国政変革の事業の要に位置する、最も重要な綱領的課題にほかなりません。

 そうした綱領実現に直接かかわる国との関係で、政治路線のうえでは一番対立的な関係にある米国政府と日本共産党が、意見の違いはあっても対話をおこなうという道が開かれた。このことは、当面のさまざまな問題で米国と対話する条件がつくられただけではなく、将来を展望してきわめて重要な意義があると思います。

 わが党は、国民多数の支持を得て、日米安保条約を廃棄する展望を持っています。条約上は、日米安保条約第10条にもとづき「通告」によって廃棄することになりますが、その場合にも「通告」して、米国と縁を切るわけではもちろんありません。対話と交渉によって、日米関係を前向きに転換、発展させ、日米友好条約を締結することが、そのときの重要な課題となってくるでしょう。今回、私たちが、米国政府や議会と、第一歩ではありますが、対話の道を開いたことは、ゆくゆくは将来にそこまで発展する関係の礎石を築いたといっていいと思います。

 不破委員長(当時)は、11年前に東南アジア歴訪にとりくむさい、「当たって砕けろの精神ではじめた」といわれました。私は、今度の訪問を、その言葉を胸にとりくみました。実を申しますと、成田空港を出発するときには、ニューヨークでも、ワシントンでも、ほとんど決まった日程はなかったのです(どよめきの声)。つくせる手はすべてつくしましたが、最初から成功が約束された訪問ではありませんでした。一番の悪夢は、行ってみたけれども誰とも会えなかったということですが(笑い)、そういう最悪の事態も常に考えながら、日本でのたたかいに少しでも役立つことをと考えて私たちは行動しました。代表団の行動は、明日の日程をつくりながら、今日の日程をこなしていく(笑い)、というものでありまして、明日をも知れぬ困難も伴いました。しかし、結果として、ほぼ目標を果たし、何とか責任を果たせたと思いますが、それはさまざまな面で激励し、援助してくださった多くの人々の力によるものであり、この場をお借りして、心からの感謝を申し上げたいと思います。(大きな拍手)

米国と財界にモノが言える党の躍進を

 さて、第三に、米国を訪問して、私が、強く実感していることがあります。それは、核兵器問題でも、日米関係と米軍基地の問題でも、今回、私たちが主張し、行動してきたようなことは、本来なら、日本政府がおこなってしかるべきことではないかということであります。(大きな拍手)

 私たちが訪米していた同じ時期に、日本政府は何をしていたのか。

「核抑止力」の呪縛にとらわれ、被爆国政府としての役割を何も果たせない

 核兵器問題についてはどうでしょう。

 日本政府は、NPT再検討会議では、まったく存在感がありませんでした。いるのかいないのか、わからないという状態です。再検討会議には、主要国がずらりと外相級を送り、初日から構えた対応をしています。米国も、クリントン国務長官がやってきて、米国なりの攻勢的な演説をやります。しかし、日本からは、首相も行かなければ、外相も出席しない。まず、構えがあまりにも弱い。そうした指摘は、国連本部で私たちが活動をしておりましても、ずいぶん寄せられました。日本からは、高齢で健康を害されながら必死の思いで参加している被爆者の方々がたくさんいます。自分の生きている間に核兵器をなくしたいと、懸命に訴えておられます。私は、何人もの被爆者の方々から、「今回の日本政府の対応にはがっかりさせられた」という声をずいぶん聞きました。また、現地の日本メディアのみなさんからも、「被爆国の政府が、こんな対応でいいものでしょうか。どう考えますか」という質問がずいぶん寄せられました。

 しかも日本政府の代表の発言は、中身もありません。肝心の核兵器廃絶交渉については、一言も言えません。もっぱら語ったのは、核を持たない国には核で攻撃しない、いわゆる「消極的安全保障」でありました。しかし、報道によりますと、「カバクチュラン議長は、日本が推進する消極的安全保障について『「核の傘」の下の国には与えるべきではないという議論もある』と突き放した」(「朝日」、5月9日付)そうであります。

 帰国後、訪米団の一員として奮闘した井上哲士議員が、参議院の外交防衛委員会の質問で、「ニューヨークでは、なぜ被爆国日本の首相、外相が参加していないのかという率直な意見も聞かれた。もっと、高い位置づけをするべきではないですか」とただしたのに対して、岡田外務大臣の答弁はこうでした。「志位委員長、井上議員も出席され、非常に有益な意見交換をされたことは、日本としての存在感を示すことにもつながったので、感謝申し上げたい」(笑い)。「感謝」していだたいたのはありがたいことですが、自分でやるべきことではないかと、私は思うしだいです。

 さらに、訪米団の一員として奮闘した笠井亮議員が、帰国後、衆議院の外務委員会で、NPT再検討会議の第1委員会の報告草案で、「核兵器廃絶のためのロードマップを検討する国際交渉の開始」が提起されたことを受け、「被爆国の政府として当然この方向を支持すべきではないですか」と迫ったのに対し、岡田外相は、「非常に注目すべき点です。今までになかった提案です」といいながら、「核保有国が納得しうるものでなければ(最終合意は)難しい。簡単に『日本は賛成』とはいいにくい」、こう答弁したというのです。「核保有国の納得がなければ難しい」というけれども、納得させるように働きかけるのが唯一の被爆国の政府の役割ではないですか。(拍手)

 「核の傘」「核抑止力」論の呪縛にとらわれて、被爆国の政府としての役割を何も果たせない。何とも情けない姿といわなければなりません。(拍手)

「海兵隊は抑止力」――この呪縛にとらわれて転落した哀れな姿

 沖縄基地問題では、何をしていたでしょう。

 同じ時期に、5月4日、鳩山首相は、沖縄に「県内移設」の方針をもっていき、激しい怒りにさらされました。首相は、“学べば学ぶほど、海兵隊の抑止力としての尊さがわかった”(笑い)のだといいます。

 私は、そのニュースをニューヨークで聞いて、「首相は、行く方角をまったく間違えた」というのが実感でありました。沖縄に行って県民に負担を強いるのではなく、米国に行って沖縄県民の苦難を率直に語り、基地撤去の交渉をすることこそが、日本国首相のつとめではないでしょうか。(大きな拍手)

 それができないのはなぜか。ここでも「海兵隊は抑止力」という呪縛にとらわれているからです。いったんこの呪縛にとらわれたら、その転落はとどまるところを知りません。「移設先探し」の末にたどり着いた案は、結局、名護市・辺野古の海を埋め立てて、巨大な基地をつくるという、自公政権の計画とほとんど変わらないものとなっているではありませんか。「埋め立ては自然への冒瀆(ぼうとく)」と自分で言ったことを、もう忘れているのでしょうか。この姿は、怒りを通り越して、哀れと言うほかないといわなければなりません。(拍手)

 私は、はっきり言っておきたい。日米両国政府がどんな合意をしようと、沖縄県民は「県内移設」を決して許すことはないでしょう(拍手)。私は、この場で、本土と沖縄の連帯のたたかいを大きく広げることを、強く心から訴えたいと思うのであります。(大きな拍手)

 核兵器問題では「核抑止力」論という呪縛、沖縄基地問題では「海兵隊は抑止力」という呪縛、この二つの「抑止力」の呪縛にとらわれ、「米国にモノが言えぬ政治でいいのか」、このことがいま厳しく問われています。

立場が違う相手でも、事実と道理をもって働きかける

 参議院選挙が目前にせまりました。この選挙での政党選択の基準は、端的にいって二つであります。

 一つは、「米国にモノが言える党か、米国言いなりの党か」。

 もう一つは、「財界にモノが言える党か、財界言いなりの党か」。

 実に簡単で明瞭な基準であります。日本の政党のなかで、米国にも財界にもモノが言える党は日本共産党だけであります(拍手)。民主党にも、自民党にも、公明党にも、あれこれの「新党」にも、この仕事はできません。

 そして、わが党は、「モノを言う」という場合に、相手が米国でも、財界でも、威勢だけがよいといった“ケンカ腰”で言う党ではありません。立場の違う相手であっても、耳を傾けざるをえない、事実と道理を、冷静に、諄々と説いて働きかけ、国民の立場で現実政治を一歩でも二歩でも動かすために知恵と力をつくす。これが私たちの根本姿勢であり、そういう姿勢で、実際に行動している政党が日本共産党であります。この党の躍進こそ日本の前途を救うたしかな力ではないでしょうか。(大きな拍手)

 みなさん。この党の値打ちに誇りをもち、それを広い国民に知らせきり、参議院選挙では必ず躍進を勝ちとろうではありませんか(拍手)。そしていま、私たちが野党として主張していることを、早く、日本政府として主張できるような世の中にしようではありませんか。(大きな拍手)

 そのことを最後に訴えて、私の報告といたします。ありがとうございました。(長い大きな拍手)





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