2010年5月10日(月)「しんぶん赤旗」

21世紀の日米関係のあるべき未来

5月7日 ワシントンでの志位委員長の講演


 日本共産党の志位和夫委員長が7日、ワシントンでおこなった講演の内容は次の通りです。


 米国の法律家のみなさんを前に、こうした機会をあたえていただいたことは光栄です。心から感謝いたします。私は、日米両国間の真の友好を願う立場から、「21世紀の日米関係のあるべき未来」と題してお話をさせていただきます。

「この条約が無期限の未来まで続くと考えることはできない」

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(写真)講演する志位和夫委員長=7日、ワシントン(林行博撮影)

 まず、1952年に発効し、1960年に改定された日米安保条約の現状をどうとらえるか。

 50年前の日米安保条約改定のさい、ドワイト・アイゼンハワー大統領は、日米関係は「完全に平等なパートナー」となったとのべましたが、実態はどうでしょうか。

 私は、4月15日に、米上院外交委員会での公聴会で、ジョージ・パッカード米日財団理事長がおこなった発言を、興味深く読みました。パッカード氏は、「この条約が無期限の未来まで続くと考えることはできない」として、つぎの五つの理由をあげています。

 ――第一に、「1952年のオリジナルな条約は、戦勝国と被占領国との間の交渉で結ばれたものであって、二つの主権国家の間で結ばれたものではなかった」。

 ――第二に、「日本は、歴史を通じて一度も外国軍を自国に受け入れざるを得ない経験を持たなかったが、戦争終結から65年たった今日なお、10万人近い米軍、軍属、その家族の無期限の駐留を、カリフォルニア州より小さな国の中の85カ所の基地に受け入れざるを得ない状況におかれてきた。米軍の75%は琉球列島の一部の小さな島、沖縄本島に駐留している」。

 ――第三に、「米軍のこのような大きな駐留の継続は、環境破壊、市街地や歓楽街での犯罪、事故、騒音をもたらしている」。

 ――第四に、「米軍のプレゼンスは米軍地位協定によって規定されているが、この協定は日本の国会の承認を受けたことはなく、心ある日本人の間では、19世紀のアジアにおける西洋帝国主義の特徴だった治外法権の延長だとますますみなされるようになっている」。

 ――第五に、「(日本の駐留米軍へのコスト負担は)年間43億ドルに達し、(その一部は)『思いやり予算』と呼ばれているが、これは双方にとって気まずい思いをさせる言葉だ」。

 そしてパッカード氏は、つぎのようにのべています。

 「日本の新しい世代が、自国に置かれた外国軍の基地を我慢しなければならないのか疑問を深めるであろうことは、まったく当然である。米国は、韓国、ドイツ、フィリピンで、駐留規模を縮小してきた。新しい世代の日本人がこのような状況で不満を募らせることは、驚くべきことでも何でもない」

 これらのパッカード氏の問題提起は、日米安保条約の現状を包括的にとらえるとともに、心ある日本国民が抱いている感情を、リアルに言い当てたものだと思います。私たちとは立場を異にしますが、日米関係において重要な役割を果たしている人のなかから、こうした率直な見解が述べられていることを、私は歓迎するものです。

 私たちは、日米関係が、戦後65年たって、「平等なパートナー」とは程遠い現状におかれているという事実を直視することから、その未来を考えなければなりません。 

矛盾の集中点――沖縄問題とは何か、解決の道はどこにあるか

 このような日米関係の矛盾の集中点が沖縄です。

 パッカード氏は、「カリフォルニア州より小さな国の中の85カ所の基地」とのべましたが、そのなかでもひときわ米軍基地が集中しているのが沖縄です。沖縄本島の面積の18%、県全体の面積の10%が米軍基地とされています。

 いったい、米国でこれほどまでに基地が密集している州があるでしょうか。国防総省の報告書をもとに私たちが作成したデータでは、全米50の州のうちのどの州よりも、沖縄県の基地の密集の度合いは高くなっています。米国では、基地面積率が高い州でも、アリゾナが6%台、ハワイ、ノースカロライナが5%台、ネバダ、ニューメキシコ、カリフォルニアが4%台、多くの州では1%以下です。沖縄県は、全米50のどの州よりも、基地が密集している地域なのです。

 焦点となっている普天間基地とは、どういう基地か。普天間基地を抱える宜野湾市が作成した資料をお配りしたいと思います。一言でいえば、この基地は、「米国の基準では存在が許されない基地」です。普天間飛行場の周囲には、9万人の市民が居住し、121カ所の公共施設があります。とりわけ、米国では、連邦航空法で、滑走路の末端から「クリアゾーン」(利用禁止区域)を設定し、安全確保のために土地開発が制限されていますが、普天間基地においては「クリアゾーン」内に、公共施設、保育所・病院が18カ所、住宅が約800戸、約3600人余の住民が居住しています。米国の法律では決して許されない危険な基地が、日本ならば許されるという道理がどこにあるでしょうか。

 4月25日に、「普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設反対」などを掲げて、沖縄知事、県内41自治体のすべての市町村長(代理を含む)が参加し、9万人が参加した県民大会が開かれました。普天間基地の閉鎖・撤去とともに、県内のどこであれ新しい基地をつくることは許さないことが、県民の文字通りの総意、島ぐるみの総意として確認されました。私も、この県民大会に参加して、沖縄の情勢は、もはや後戻りを決してすることがない限界点を超えた、米軍基地への怒りが沸騰点を超えたと肌身で実感しました。

 基地に隣接する普天間高校で学ぶ女子生徒の訴えは、ひときわ胸をうつものでした。

 「厚さ6センチの窓。その窓いっぱいに見える飛行機の胴体。これが私たち普天間高校の日常の光景です。グラウンドに出れば騒音とともにやってくる低く黒い影。授業中でも、テスト中でも、容赦なく中断させる音。学校までの通学路は、どこまでも長い基地のフェンスが続きます。基地から上がる星条旗がみえます。いったいフェンスで囲まれているのは基地なの。それとも私たちなの」

 米軍は自由であり、沖縄の人々は自分たちの島に住みながら不自由を余儀なくされていることを、痛切に告発した言葉でした。

 沖縄で噴き出している深い怒りの根源には、戦後65年にわたる異常な基地の重圧が、忍耐の限界を超えているという、歴史の累積があります。

 なぜ本島の18%もの基地が存在するか。もともと沖縄の米軍基地は、第2次世界大戦末期に、米軍が沖縄に上陸し、凄惨(せいさん)な地上戦をへて占領したさいに、住民を16の収容所に強制的に囲い込み、軍用地のみならず民有地を強奪して建設されたものでした。普天間基地がつくられた場所には、民家も、役所も、郵便局も、墓地も、サトウキビ工場もあったのです。さらに、サンフランシスコ条約が締結された1951年以降、米軍は銃剣とブルドーザーで、抵抗する住民を強制的に排除し、民家と農地を押しつぶして基地を拡張しました。ハーグ陸戦法規は、占領下における略奪や私有財産の没収を禁じています。沖縄の基地は、生まれながらにして国際法違反の基地なのです。

 こうしてつくられてきた米軍基地によって、戦後65年間、沖縄県民は、耐えがたい苦しみを背負わされてきました。沖縄県民の心に共通して刻まれている痛ましい事件・事故があります。1955年には、6歳の少女が、強姦(ごうかん)され、殺されて、海岸に打ち捨てられました。1959年には、小学校に米軍ジェット機が墜落・炎上して、児童11人を含む17人が亡くなりました。1965年には、米軍機から落下傘で降下されたトレーラーに、少女が自宅の庭で押しつぶされて死亡しました。1995年には、少女への暴行事件が、島ぐるみの怒りをよびおこしました。2004年には、普天間基地に隣接する沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落し、あわや大惨事という事故がおこりました。これらはどれも沖縄県民ならば誰もが知る、忘れることができない、共通して心に刻み込まれた悲劇です。

 この長年の基地の重圧、悲劇の累積が、4月25日の9万人が集った県民大会なのです。

 いま日本政府は、県内の名護市・辺野古沖に海兵隊の新基地を建設する方針をすすめようとしています。しかし、美しいサンゴとジュゴンのすむ海を破壊しての新基地建設の計画は、県民の怒りの火に油をそそぐものとなっています。普天間基地をかかえる宜野湾市の市長は「県内移設を押し付けるなら、沖縄の米軍基地撤去を求めることになる」と言明しました。広大な嘉手納基地に町の面積の実に83%を占有されている嘉手納町の町長は、「安保条約の是非を正面から問うてほしい」とのべました。

 もはや日米両政府がどんな合意をしても、沖縄に新基地を建設することは不可能だということを、両国政府は直視すべきだと思います。それを強行するならば、全米軍基地撤去、日米安保廃棄へと怒りはさらに高まるでしょう。

 日本政府が、基地機能の一部を移すとしている鹿児島県・徳之島でも、島民の6割、1万5千人が参加した反対の大集会が開かれました。徳之島の三つの自治体の責任者は、そろって基地を拒否するとの態度を表明しています。

 もはや、沖縄県内はもとより、日本国内のどこを探しても、住民合意の得られる普天間基地の「移設」先はありません。唯一の解決法は、「移設条件なしの無条件の撤去」に踏み切るしかありません。それは、かつてラムズフェルド国防長官が「歓迎されないところには基地を置かない」とのべた、米国の政策にてらしても、唯一の選択肢であります。

 これは「日米安保条約があるから」という一言ですまされない問題です。かつて1969年、日米安保条約のもとでも、日米両国政府は沖縄の本土復帰で合意しました。サンフランシスコ条約第3条で日本が施政権を放棄した沖縄の返還は、条約上からいえば不可能の壁を越えたものでした。しかし、沖縄の島ぐるみの本土復帰闘争、本土の連帯したたたかいに押されて、本土復帰は実現しました。いま日米関係は、同じような歴史的決断が求められる、歴史的岐路に立ちいたっていると、私たちは考えています。

 沖縄問題は、たんに極東の一つの島の出来事ではありません。それは、日米関係のあり方の根本からの見直しを、日米両国の政府につきつけているのです。私たち日本国民のデモクラシーが試されているし、米国のデモクラシーもまた試されている問題なのです。 

アメリカ合衆国の建国の精神と、日本共産党の立場

 私たちは、日米安保条約を、このまま続けることの是非を、正面から問うべき時代に入ったと考えています。パッカード氏がいうように、「日本の新しい世代」は、巨大な外国軍駐留への疑問を深めていくでしょう。在日米軍は「日本防衛のため」というが、横須賀を母港とする空母が、沖縄を本拠地とする海兵隊が、出撃しているのは、イラクであり、アフガニスタンではないか。これほどまでに沖縄の人々に犠牲をしいる「同盟」が果たして必要なのか。多くの人々のこうした疑問に、納得のいく答えをもはや示せないでしょう。

 日本共産党の立場は、もとより反米主義ではありません。私たちは米国、米国民とのほんとうの友情を心から願っています。しかし、ほんとうの友情は、支配・従属のもとではけっしてつくることはできません。対等・平等の関係のもとでのみ、それは可能になります。そのために、従属関係の根源にある日米安保条約を廃棄して、それに代えて日米友好条約を締結しようというのが、わが党の綱領に明記された立場です。

 もちろん、それは一朝一夕になるものではありません。そのためには日本国民の多数の合意が必要です。そうした合意は、東アジアに平和的環境をつくりあげていく外交努力をすすめてこそ、達成されるでしょう。

 すでに東南アジアでは軍事同盟は解体され、かわりにASEANという外部に敵を持たない開かれた地域の平和共同体が形成されています。この流れを北東アジアに広げたい。北朝鮮問題が大きな懸案ですが、私たちは、困難はあっても「6カ国協議」を成功させ、核、拉致、ミサイル、歴史問題などの諸懸案の解決をはかり、この枠組みを北東アジアの平和と安定の枠組みに発展させることが、何よりも重要だと考えています。日本国憲法第9条は、こうした平和外交をすすめる最大の力であり、羅針盤です。

 私たちの事業の大先輩であるカール・マルクスは、1865年、リンカーン再選にあたって送った祝辞の中で、合衆国を「偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言が発せられ、18世紀のヨーロッパ革命に最初の衝撃があたえられたほかならぬその土地」と呼びました。私たちは、あなたがたの国の革命、独立、民主主義の偉大な伝統に深い敬意を持っています。そうした思いも込めて、きょう、私は、「リンカーン記念館」を訪問しました。

 そして私は、リンカーンが翌年、マルクスにあてた礼状のなかで、合衆国はすべての国家にたいして「平等かつ厳格に公正」な関係をうちたてることによって「世界中の尊敬」を求めるという立場を表明したことをあらためて想起しています。私は、今日、合衆国が、日本国民、そして世界諸国民にたいして「平等かつ厳格に公正」な関係をうちたてることによって、「世界中の尊敬」を集めることを願ってやみません。

 昨年、7月2日、私は、在日米国大使館から初めて招かれ、合衆国の独立記念日(7月4日)のレセプションに参加しました。この日は、人類にとって記念すべき偉大な日と考えたからです。イギリスの植民地支配からの解放を求め、革命によって独立をかちとった合衆国の建国の精神は、今日、米国からの真の独立を実現し、対等・平等・友好の日本をめざす日本共産党の立場と、深く響きあうものがあるというのが、私たちの確信です。

 そして、こうした方向にこそ、21世紀の日米関係のあるべき未来があると、私たちは信じています。





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