2010年3月31日(水)「しんぶん赤旗」

核密約はこうして結ばれた

五八〜六〇年日米交渉の内容をしめす新たなアメリカ外交文書について

日本共産党元衆院議員 不破 哲三


 日本共産党の不破哲三前議長が、30日の記者会見で示した見解と米側極秘電報は次のとおりです。


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(写真)2000年の党首討論で密約文書を示す不破哲三前議長=同年4月

 日本共産党は、二〇〇〇年の早い時期に、アメリカの国立公文書館での調査で、一九六〇年一月の安保条約調印のさいに結ばれた米国政府の一連の秘密解禁文書を入手し、不破が、三月〜四月の党首討論で、その資料をもとに、「核密約」の真相の徹底調査を政府に求めた。討論は、三月八日(小渕恵三首相と)、二十二日(同前)、二十九日(同前)、四月十九日(小渕首相急死のため、後継の森喜朗首相と)おこなった。そこで、不破は、六〇年一月六日、日米両国政府代表のあいだで頭文字署名とともに取り交わされた文書「討論記録」が核密約であり、日米安保条約の不可分の一部をなしていることを、アメリカ側の公文書で立証するとともに、それ以後、この密約にもとづいて、アメリカが核兵器を積んだ艦船を事前協議なしに日本に入港させ、核積載艦の母港を日本におくことまでやってきたことを、これもアメリカ側の公文書で示した。

 しかし、この時の政府の対応は、「アメリカ側が機密開示したという文書に日本政府は関知しない。密約など存在しないから、外務省の保管文書を調査する必要もない」との紋切り型答弁に終始するだけのものだった。しかし、その主張の根拠としては、過去に何人もの首相がその趣旨で答弁してきた、ということ以外には、なんの事実も示すことをしなかった。

 それからほぼ十年たち、新たに成立した鳩山政権は、発足早々、核密約の徹底調査の意思を表明した。私たちは、その調査に協力する立場で、入手していた核密約関係のアメリカの主要な外交文書を鳩山内閣に提供し、調査結果を期待して待った。しかし、政府が委嘱した「有識者委員会」が三月九日に発表した「報告書」は、私たちの期待を裏切るものだった。

 不破が十年前に、これが「核密約」だとして政府と国会に提起した文書「討論記録」が存在すること、その文面もそのとき明らかにしたとおりの内容であったことは、有識者委員会の調査でも、確認された。しかし、驚くべきことに、「報告書」は、そこまで事実を確認しながら、この文書の二節C項を、核積載艦船の、事前協議なしの日本寄港を認めたものと読むのは、アメリカ側の一方的解釈であって、「交渉当時、その解釈を日本側に明らかにした形跡はない」としている。そして、そのことを理由に、「討論記録」は核密約ではない、と断定した。

 有識者委員会のこの「報告」を受けて、政府は、六〇年安保条約の締結当時、「核密約」は存在しなかった、という立場に立ち、核密約の廃棄など、核問題でのこれまでの日米関係を変えるような行動はいっさいとらない旨、言明している。「非核三原則」を日本全土に適用し、名実ともに「非核日本」の実現を願うものにとっては、ことはきわめて重大である。

 私たちは、不破が十年前に国会と政府に提出したアメリカ側の公文書だけでも、「討論記録」が核密約であることの立証は十分だと確信している。しかし、有識者委員会の「報告書」は、密約否定論の根拠を、もっぱら日米の交渉過程に求めている。われわれは、このことに対応して一九五八〜六〇年の日米交渉の経過と内容を明らかにするために、当時、アメリカでの核密約調査の中心をにない、その後もひきつづき調査を重ねてきた新原昭治氏と協力して、入手しているアメリカ側の機密解禁文書の全体について、その角度からの精査をあらためておこなった。そして、核密約「討論記録」の作成の経過と、これについてアメリカ側が、どのように日本政府に説明していたか、この文書が中間的な記録なのか、合意文書なのか、など、問題の中心点を明らかにする二つの重要文書を発見した。

 この文書は、以下に見るように、アメリカ代表が、公式の席上、核兵器を積載した軍艦の日本への事前協議なしに日本に寄港することを、条約上の権利として最初から主張していたことを明らかにする点でも、日本政府が、「条約」、「交換公文」、「討論記録」の全体およびその解釈を、一体のものとして受け入れたことを示す点でも、「有識者委員会報告書」の所見をくつがえす内容をもったものである。

第一の文書―日米交渉第一日(五八年十月四日)の会談状況を知らせるマッカーサー大使の電報

 第一の文書は、一九五八年十月四日、日米安保交渉が開始された第一日に、アメリカ政府代表(マッカーサー大使)が、日本政府代表(岸信介首相、藤山愛一郎外相)に何を説明したかを示すマッカーサー大使自身の一通の電報である。電報のあて先は、フィリピン駐在の米国ボーレン大使、日付は十月二十二日である。アメリカは、当時、フィリピンにスビック湾軍港やクラーク空軍基地などをおいており、フィリピン政府とのあいだで基地・防衛関係の交渉をおこなっている最中で、核兵器の持ち込みについての事前協議の問題が、そこでも米比交渉の焦点の一つとなっていた。同じ東アジアで、共通のテーマでの外交問題に取り組むものとして、外交官同士が密接な情報交換をしていたのである。

 (イ)電報はまず、十月四日の交渉第一回の協議で、マッカーサー大使が、日本側に、米側の「一括提案(包括的パッケージ)」を提示した、ことを知らせている。この「一括提案」とは、「条約草案、〔事前〕協議の定式(フォーミュラ)、その〔協議〕定式についてのわれわれの解釈の説明」を含むものだった。この三つは、交渉が終結したときには、日米安保条約、事前協議についての「岸・ハーター交換公文」、「討論記録」として具体化されたものである。アメリカ側が、この三つを、一体をなす新安保条約の核心部分だとみなしていたことが、強くうかがわれる。

 (ロ)続いて電報は、〔事前〕協議の定式についての説明は、国務省・国防総省共同の交渉訓令に従っておこなわれた、と述べる。

 その訓令は、「米軍とその装備の日本への配置」にかかわる事前協議についての訓令で、中身は(A)(B)の二項があり、(A)では、事前協議の対象となるのは「核兵器」だけであること、(B)では、「核兵器を積載している米軍艦の日本の領海と港湾への立ち入りの問題は従来通り続けられ、〔事前〕協議の定式の対象にならない」ことが指示されていた。ここでは、米軍艦の立ち入りの問題について、「核兵器を積載している米軍艦」と、核兵器積載の問題が明記されていることが注目される。

 交渉の第一日に、核兵器を積んだ軍艦の寄港には事前協議を適用しない、という米側の立場が、誤解の余地のないあからさまな表現で、日本側に説明されたことは、間違いない。訓令では、「われわれの定式」の説明は「適切な時点」でやって「合意」を追求せよとして、時期の判断はマッカーサー大使に任されていたが、大使は、冒頭に米側の考えを説明した方が「合意」の形成に役立つと考えたのであろう。

 (ハ)マッカーサー大使は、この説明のあと、この問題での「合意とその解釈」を、「どうしたら最もよく記録に残せるか」について、岸と藤山の意見を聞いたとし、自分の見通しとして、〔事前〕協議の定式そのものは交換公文などの形で公表されるだろうが、解釈についての合意の方はおそらく秘密になるだろう、としている。この問題は、交渉のその後の経過のなかで、マッカーサー大使の見通しのとおり、「交換公文」(岸・ハーター)と秘密取り決め(「討論記録」)という形に具体化されてゆくことになる。

 (ニ)電報のそのあとの部分も重要である。交渉の第一日に、アメリカ側が見解を一括して述べたのだから、日本側が日本政府としての見解を述べるのが、当然の筋道であり、マッカーサー大使もそのことを期待していたようである。ところが、報告電報は、この日の会議では、外務省の実務関係者から質問があっただけで、日本側代表である「岸と藤山」の口からは「中身のある応答」はいっさい聞かれなかった、と述べている。

 こうして、日米交渉の第一日は、結局、アメリカの「一括提案」をベースにして、それをどういう形式で文書化するか、という技術的な問題を軸にすすんでゆくことが予想される展開で終わった。

 有識者委員会の「報告書」は、交渉が始まる前に、日本側が、事前協議についての独自案を用意していたことを明らかにしている。

 「合衆国は、日本国政府の事前の同意なくして、核兵器を日本国内に持ち込まない。これは、日本国内に配備される合衆国軍隊のみならず、臨時に日本国内に入る船舶及び航空機にも適用があるものとする」(「米軍の配備及び使用に関する日本側書簡案」一九五八年七月二日、八月十三日)。

 「報告書」はそのあと、「この書簡は米国側には提示されなかったようだが」と簡単に記しているが、ここに日本政府の真意があったのだったら、交渉以前にこの書簡を送る適切な機会がなかったとしても、交渉第一日は、当然、その主張を展開すべきであった。しかし、日本側代表は、そのことをしなかった。そして、有識者委員会がいくら探してみても、日米交渉の過程で、日本側が、用意した「書簡」の立場をアメリカ側に説明した「形跡」は見つからなかったようである。

 結局、五八年十月に始まった日米交渉の過程で、アメリカ側は、核積載の艦船の寄港は事前協議の対象外だとするという自分たちの「解釈」を最初の日から説明したが、日本側は、核積載の艦船は事前協議の対象だとする自分たちの立場を、アメリカ側に一度も主張しなかったのである。有識者委員会の「報告書」のように、「討論記録」を取り交わしたものの、その文面の日米双方の「解釈」は、最初から最後まで違っていたなどとする根拠は、この交渉過程のどこにあった、というのだろうか。

第二の文書―合意成立(五九年六月二十日)当時の交渉経過を伝えるマッカーサー大使の報告電報

 第二の文書は、翌年六月二十日、日米安保条約の核心部分についての交渉が完了し、日米両政府間に「完全な合意」が成立したことをハーター国務長官に報告したマッカーサー大使の報告電報である。

 この電報では、最終段階での交渉の模様がよく分かる。

 電報はまず、前々日の六月十八日に、藤山外相にアメリカ側の「包括提案」を渡し、この提案は、全体が「単一のパッケージ」をなしていて、答えはその全体についてイエスかノーかいうべきで、個別の回答は困る、と伝えておいたと述べている。このことは、交渉のこの段階においても、アメリカ側が、条約、交換公文、討論記録の全体を一体のものとして扱い、最終的な案文をつくって、その全体をのむかのまないかという、いわば最後通牒(つうちょう)的な言い方で日本側に受諾を求めたことを、示している。

 翌十九日夜、マッカーサー大使は藤山外相と連絡をとって、「包括提案」にたいする岸首相の反応を聞いた。岸首相の反応は、「パッケージの内容のすべてのポイントを受け入れた」というものだったが、訂正を求める点が一つあった。それは、公表される「交換公文」から、「その時点における全般的な状況にてらして」という一句を削ってほしい、というものだった。

 この一句はこの交渉で削られたために、どこに入っていたものかは確定できないが、「交換公文」は、全体が一つの文章として成り立っているから、おそらく、これこれの事項は「事前協議の主題となる」というさいの、条件・背景を説明する一句として入っていたものと、推測される。

 そして、重要なことは、条約、交換公文、討論記録の全体を「包括提案」として示された岸首相が、「全体はイエスだが、一点だけ修正してほしい」と求めたことは、その一点をのぞけば、文章の細部まで点検した上で、三つの文書の全体に合意する、という公式の回答をおこなった、という重い意味をもつ、という点である。

 マッカーサー大使は、即日、岸首相の要望を国務省に伝え、二十日朝、国務省から同意という回答をえて、それを藤山外相に伝えた。

 このことを、報告電報は、「私は藤山に、われわれは上記の文言の削除に同意する、と伝えた。これによって、条約、〔事前〕協議の定式(フォーミュラ)および討論記録についての合意は完了した」と記したあと、その他二つの交渉問題もあわせて、これまでに達成された合意を、次のように整理している。

 「上記に照らして、いまやわれわれは岸と藤山とのあいだで以下に関して完全な合意に達した。(A)新しい相互協力・安全保障条約、(B)公表用の〔事前〕協議の定式を含む交換公文、(C)その定式を説明する討論記録、(D)〔日米〕合同委員会の諸決定の有効性の継続などに関する交換公文、(E)ラスク・岡崎公式議事録の有効性継続に関する交換公文」。

 この報告電報が示すように、新安保条約と「岸・ハーター交換公文」と「討論記録」は、最後まで一括した条約文書(単一のパッケージ)として、日本政府とアメリカ政府とのあいだで交渉され、双方が字句のすみずみまで吟味し「解釈」も一致させた上で合意しあい、最後に、一括した条約文書として「完全な合意」を確認したものである。前の二つの文書と「討論記録」のあいだにあるのは、条約の公表部分と「条約の秘密部分」(国務省が使っている言葉)との区別だけである。有識者委員会がやっているように、交換公文までは、両政府が合意した条約文書だが、「討論記録」は、日米政府の解釈がちがったままでつくられたという議論は、両国政府の代表が署名しあったという文書の形式からも、その成立にいたる交渉経過からも、まったく成り立ちうるものではない。

 なお、密約交渉は実際にはここで完了とはならず、このあと、アメリカ側から、朝鮮有事のさいの米軍の行動についての新しい提起があったため、十二月まで継続され、六〇年一月六日の藤山・マッカーサーの会合では、朝鮮有事の密約がつけくわえられて、「討論記録」(マッカーサーのこの書簡での整理の〔C〕)、地位協定に関する合意覚書(書簡で整理の〔D〕)、「安全保障協議委員会第一回会合のための覚書」(追加して合意された朝鮮有事への対応の合意)の三つが、秘密協定として頭文字署名し、取り交わされることになった。

 私たちは、以上に説明したこの二つの文書(マッカーサー書簡)をも新たな材料として、日本政府が、核密約とそれにもとづく日米関係の実態を正面からとらえ、密約にもとづく日本の核持ち込みに終止符を打つために、核密約の廃棄など、必要な措置・方策をとることを、強く要望するものである。


〈資料〉

第一の文書―日米交渉第一日(五八年十月四日)の会談状況を知らせるマッカーサー大使の電報

一九五八年十月二十二日
東京・米大使館発、マニラ・米大使館あて電報
極秘
配布限定

マニラ ボーレン大使あて

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(写真)第一の文書(58年10月22日)

 貴下あての関連国務省電報1096で、(貴下にあてて九月十三日の国務省電報771で送られた)〔事前〕協議の定式は、十月四日の交渉第一回会議で、一括提案の一部として、私から岸と藤山に提示された。その提案には、条約草案、〔事前〕協議の定式(フォーミュラ)、その定式についてのわれわれの解釈の説明が含まれていた。その解釈は、国務省・国防総省共同の交渉訓令に従ったもので、その訓令は以下のとおりである。

 「米軍とその装備の日本への配置に関する日本側の協議の要請に応えるため、適切な時点で、われわれの定式を持ち出して、合意を追求すること。交渉の過程では、以下の諸点についてのわれわれの理解への確認を求めること。(A)米軍とその装備の日本への配置は核兵器にのみあてはまること、(B)核兵器を積載している米軍艦の日本の領海と港湾への立ち入りの問題は従来通り続けられ、〔事前〕協議の定式の対象にならないこと」。

 私は岸と藤山に、合意した解釈をどうしたら最もよく記録に残せるかについて、彼らの意見を尋ねた。現在の見通しでは、協議の定式そのものはおそらく合意覚書あるいは交換公文として公表されることになろう。合意した解釈は、おそらく秘密にされることになろうが、〔事前〕協議の定式が実際に何を意味するかについて双方が公に説明するさいの根拠として役立つことになるだろう。

 裁判権については、貴下あての国務省電報924にある通り、十月四日の会合で岸と藤山にわれわれの提案を示した。

 外務省の実務関係者からは一括提案のなかのいくつかの点について説明を求められたものの、岸も藤山も、十月四日の協議でも、その後の機会にも、われわれの提案のどの部分についても、中身のある応答はまったく聞いていない。今日、第二回目の会合があるので、そこでなんらかの反応を聞くことができるかもしれない。貴下の交渉にとり関心のあるこれら二点について、今後の進展のすべてを貴下に伝えてゆくつもりだ。

 どちらの問題についても、米日両政府間に合意ができたと判断できる段階に達するまでは、これらの問題をフィリピン政府と論議したり知らせたりしないことが、強く要請される。若干の“ギブ・アンド・テーク”もあるかもしれないので、交渉の進展方の厳重な秘匿がきわめて重要だ。とくに、最初の草案がわれわれの側から提示されたという事実がぼやかされることが、永遠にないことを願っている。日本側とのいかなる合意の最終結果も、それが日本で好意的に受けとられるなら、共同の協議、共同の草案作成の成果として、押しだすべきだろう。貴下が、このメッセージならびに関連のメッセージを、本当に知る必要のある人たちだけに限定して配布するだろうことを、あてにしている。

第二の文書―合意成立(五九年六月二十日)当時の交渉経過を伝える マッカーサー大使の報告電報   

一九五九年六月二十日
東京・大使館発 国務長官あて
第2745号

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(写真)第二の文書(59年6月20日)

 前日、私が藤山に手渡しておいた包括(パッケージ)提案への反応をつかむため、昨夜、藤山に会った。藤山は、この問題を岸と論議した、と述べた。私は、この提案は、単一のパッケージであって、まるごと全体を受け入れるか拒否するかすべきで、個々の項目ごとに処理するわけにはゆかないものだ、と伝えておいたので、藤山は、岸がこのパッケージの内容のすべてのポイントを受け入れた旨、私に伝える権限を与えられていた。ただし、岸が受け入れがたいと感じている形式上の一点があった。それは、公表用の〔協議の〕定式(フォーミュラ)の最後の部分に、「その時点における全般的な状況にてらして」という言葉が付け加えられていることだった。

 藤山は、〔岸〕首相が、この文言を付け加えたことで、公表用の定式全体を多義的な〔どうにでもとれる〕ものにすると、強く感じていると述べた。それは、われわれが現実には〔事前〕協議の義務を負っていないという主張にすぐ行き着くだろうし、そのような主張は、社会党との関係だけでなく、一般世論との関係でもある種のもっともらしさを持つだろう。藤山は次のように述べた。岸も藤山も、われわれが、文章の前の方の部分で言われていることを最後の節で取り消そうなどと考えていないことは理解している、しかし、そうした印象は必ずや作り上げられて、〔改定安保〕条約と〔事前〕協議の定式を世論が受け入れるのをはなはだしく妨げ、岸内閣にとって重大な困難を生みだすだろう。「その時点における全般的な状況にてらして」という文言は、実際には本質的な問題ではないから、われわれがそれを削除することに合意するなら、私〔マッカーサー〕が提示したパッケージ提案を基礎にして問題を解決することができる、岸はそのことを私に知ってもらいたいと望んでいる。

 第六条〔新安保条約の〕については、藤山は、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」という言葉で始まるわれわれの最後の提案を、岸も藤山も受け入れる、と述べた。

 「その時点における全般的な状況にてらして」の文言を〔事前〕協議の定式に挿入することは、私が強く主張したことだったから、私は藤山に、岸の意見を至急ワシントンに伝え、本日中にワシントンの反応を彼に知らせるよう望んでいる、と述べておいた。今朝になって、国務省電報1975の第一パラグラフで認められた通り、私は藤山に、われわれは上記の文言の削除に同意する、と伝えた。これによって、条約、〔事前〕協議の定式および討論記録についての合意は完了した。

 上記に照らして、いまやわれわれは岸と藤山とのあいだで以下に関して完全な合意に達した。(A)新しい相互協力・安全保障条約、(B)公表用の〔事前〕協議の定式を含む交換公文、(C)その定式を説明する討論記録、(D)〔日米〕合同委員会の諸決定の有効性の継続などに関する交換公文、(E)ラスク・岡崎公式議事録の有効性継続に関する交換公文(東京・大使館電報2744号)。

 藤山の説明によれば、上記の諸問題に関しわれわれのあいだでの合意は存在するが、日本政府の最終同意の前に、これらの問題は新しい党指導部と内閣で論議され承認されなければならない。もっとも藤山も岸も、大きな困難を想定してはいないとのことである。

マッカーサー





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