2008年12月7日(日)「しんぶん赤旗」

民衆弾圧 日米で相談

50年代の砂川闘争

新原氏が米文書公表


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(写真)砂川基地拡張に反対して座り込む人びと=1956年、東京都砂川町(現立川市)

 国際問題研究者の新原昭治氏は六日、東京都立川市で開かれた立川革新懇の総会で、「砂川闘争半世紀―米政府秘密文書が語る事件の内実」と題して講演しました。この中で新原氏は、米軍立川基地拡張計画とこれを阻止した歴史的な「砂川闘争」をめぐる日米間の秘密協議の内実=日本政府の異常な対米追従の実態を初めて生々しく明らかにしました。

 砂川闘争は、一九五五年五月四日に政府が当時の東京都砂川町(現立川市)に立川基地拡張計画を通告し、協力を求めたのが始まりです。しかし新原氏が米国立公文書館などで入手した解禁文書によると、日米両政府はかなり早い時期から基地拡張計画に関する協議を秘密裏に開始していました。

 米側は五三年から「計画に必要な不動産の迅速な提供を日本政府に繰り返し、繰り返し迫」り、五四年には計画の「緊急性」を「(吉田茂)首相あて書簡で全面的に説明」。五五年二月には日本側は土地提供に「原則的に同意」していました。(五六年十月二十五日、米極東軍司令部〈東京〉発、米陸軍省〈ワシントン〉あて電報)

 基地拡張の反対闘争に立ち上がった地元農民や町民は、多くの労働者や学生らの支援を受け、土地の強制収用のための測量に体を張って抵抗。日本政府はこん棒などを持った警官隊を大量動員して暴力で弾圧し、測量を強行しようとしました。これを米側は強く後押ししました。

実力行使賛美

 五五年七月の日米協議では、調達庁(旧防衛施設庁の前身)の福島慎太郎長官が「警官の実力行使なしには(基地拡張という)日本政府の約束を果たすことを保証できない」と表明。二千人の警察官を動員する計画が話し合われました。(同年七月七日付、日米協議の記録文書)

 これに対し米側は警官隊の実力行使を「これ以外の方法はわれわれにはない」と指摘。「暗い一方の雲行きの中で唯一光り輝いているのは、約束を果たそうとする日本政府の断固たる態度だ」と持ち上げました。(同年七月十八日付、パーソンズ駐日公使発、マクラーキン国務省北東アジア局長あて書簡)

 同年八月三十日の重光葵外相とダレス米国務長官との会談では米側が「現在のデモに対して対抗措置をとることが望ましいし、米国は喜んでそれを助けたい」(グレイ国防次官補)と直接的に実力行使を求めました。(重光外相とのワシントンでの第二回会談記録)

 一方で、日米両政府は、農民の「懐柔」策も検討。基地拡張で土地を失う農民を米国の「難民救済計画」に基づいて米国に移住させるという案まで検討します。(同年九月三十日の松本滝蔵官房副長官とパーソンズ駐日公使との懇談記録)

核保持の方針

 立川基地拡張計画はジェット機化のための滑走路延長が目的とされていました。同時に反対闘争の中では「原水爆基地」化の危険が警告されていました。

 米空軍は当時、「日本にこの地域での交戦に備えて航空/核能力…を保持する」方針でした(五七年六月十八日付、統合参謀本部「日本における米軍の削減」)。「『原水爆基地』化という批判は的を射た指摘」(新原氏)だったのです。

 新原氏は「砂川闘争を今日に受け継ぐということは、日本を米国との軍事同盟から解放し、本当に独立した国にすることを国民的課題にすること」と語りました。


 砂川闘争 一九五五年に始まった東京都砂川町での米軍立川基地拡張反対闘争。五七年に基地内の測量に抗議した労働者・学生が逮捕された事件(砂川事件)では、東京地裁が五九年に米軍駐留を違憲とする判決(伊達判決)を出しました。米国が最高裁での判決破棄へ圧力をかけていたことも、新原氏入手の米政府解禁文書で明らかになっています。米軍は反対闘争の前に基地拡張を断念。七七年に立川基地は全面返還されました。


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