2007年11月21日(水)「しんぶん赤旗」

シリーズ 命と暮らしの焦点――日本共産党国会議員に聞く

中国「残留孤児」

誰もが日本人らしく

――「尊厳取り戻す」粘り強い運動

仁比聡平参院議員


 中国「残留孤児」支援法の改正案が衆院を全会一致で通過(二日)し、審議の場は参院に移っています。日本共産党の中国「残留孤児」問題全面解決をめざすプロジェクトチームの仁比聡平事務局長(参院議員)に聞きました。


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 ――法案のポイントはどこでしょうか。

 現行法では、肝心の日常生活支援は、生活保護制度の枠内で対応されてきました。改正案では、老齢基礎年金の満額(月六万六千円)支給に加え、なおかつ生活の安定に不十分な場合は、特別給付金(最大月八万円)の支給をすることなどが盛り込まれました。

 今国会で、改正案を成立させ、来年四月から給付できるようにしようと、与野党で一致しています。早急に実現できるよう全力を尽くしたい。

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 ――超党派による改正の動きにはどんな背景があったのでしょうか。

 孤児の人たちは、国策として中国東北部(旧満州)に移民させられ、第二次世界大戦の終戦直後、関東軍(旧満州に駐留した日本軍)により置き去りにされた人たちです。幼少で枯れ草の根っこを食べて生き残った人、身売りされた人など筆舌につくし難い生活を余儀なくされてきました。

 戦後、日本人として生きることを求め、やっと帰国した日本でも、期待が裏切られた。言葉の壁にはばまれ仕事につけず生活は困窮し、子どもに教育を受けさせることができない人もいました。そうした人たちを、政府は、生活保護という一般法での救済しかしてきませんでした。現在、永住帰国できた約二千五百人は高齢化し、六割の人が生活保護という実態です。

 ――それで孤児たちが立ちあがったんですね。

 そうです。二千二百人を超える孤児や残留邦人らが二〇〇二年十二月、日本人としての尊厳を取り戻したい、老後の安定した生活をと、国家賠償請求訴訟を起こしました。十五の地裁で裁判を起こし、原告側の勝訴は神戸地裁だけでしたが、当事者をはじめ支援者の粘り強い運動を前に、与党も改正の検討に足を踏み出しました。

 ――政府はなぜ、十分な対策をしてこなかったのでしょうか。

 それは、残留邦人の問題の根本に、侵略戦争と植民地支配があるという責任を認めない姿勢があるからです。

 政府は敗戦後、自らがすすめた国策で入植した日本人たちを置き去りにし、そのことを知っていながら早期帰国実現義務を怠った。一九七〇年代に帰国が進んでからも、自立を支援する義務を放棄した―いわば三重の責任があります。

 ――その中で、日本共産党はどんな取り組みをしてきたのですか。

 日本共産党は戦前、侵略戦争と植民地支配に命がけで反対を貫いた政党として、八〇年代から、国の責任による孤児の受け入れ体制の確立や国負担での生活援助など支援策を提案してきました。

 二〇〇二年には、わが党の大森猛衆院議員(当時)が小泉首相から、「生活改善に努力していきたい」との答弁を引き出しました。

 党のプロジェクトチームは今年二月、政府に対し、孤児らへの謝罪や支援とあわせ、原告・弁護団と継続的、系統的な話し合いをしていくことを他党に先駆けて申し入れ、小池晃参院議員(プロジェクトチーム責任者)の質問でも政府の姿勢をただしてきました。話し合いに背を向けてきた政府も、参院選後に態度を改め、原告たちと協議を重ねるようになりました。

 現場では、少しでも生活になじめるように地域の党員や地方議員が励ましました。生活保護の運用も柔軟にするよう取り組み、支えました。

 こうした運動が世論を広げ、孤児のみなさんのたたかいとともに、政府を追い詰める力になったと思います。

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 ――仁比さん自身のこの取り組みへの思いは。

 私の母親は九歳のときに、終戦を中国で迎えました。命からがら逃げてきた体験を聞いて育ちました。孤児の方々は母と同世代であり、通訳などのボランティアで孤児を支えている二世は、私と同年代です。新しい施策を実現させ、今後求められる運用の具体化で孤児の要求を実らせ、どの世代も、日本人らしく生きていくことができるよう、私たちも力を尽くしたいと思います。

 聞き手・栗原千鶴

 写 真・山形将史


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