2007年8月11日(土)「しんぶん赤旗」

戦前、特高に殺された加藤四海とは?


 〈問い〉 東京・目黒区の出身で、戦前、反戦活動をして特高警察に殺された加藤四海という人がいると聞きました。どんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 日本共産党という党の名前には、中国などへの侵略戦争と植民地支配に反対して、不屈にたたかった人びとの歴史が刻みこまれています。

 太平洋戦争が始まる前の年、1940年(昭和15年)5月11日に東京・目黒警察署に検挙され、翌12日に虐殺された加藤四海(よつみ)も、そんな日本共産党員の一人です。享年30歳の若さでした。

 四海は1910年、東京・港区下高輪で、農商務省の地質技官の5人きょうだいの末っ子に生まれ、14歳で中目黒に転居。麻布中学に入って社会主義運動に関心をもちます。27年4月、東京商科大学(現一橋大学)に入学したときは、第1次山東出兵(同年5月)で侵略戦争拡大が急テンポにすすみ日本共産党が「対支非干渉運動を全国に起せ!」とよびかけたころで、四海は学内で学生連合会や社会科学研究会のリーダーの役割を果たしていたとみられます。

 29年、四海が大学3年のとき、東京商大には、東大、法大、早大などとともに、反帝同盟の学生班がつくられ、9月4日、銀座街頭デモの計画が立てられます。しかし、開始直前、約100人が検挙され、四海は、進歩的な学者だった上田貞次郎の息子・正一とともに二人だけ退学処分になります。

 四海は、これにめげず、農民運動に参加する決意をかため、茨城県南部の農村へ。当時19歳の四海は「黒ぶちの眼鏡をかけ、やせ形で一見いかにもよわよわしい感じがする」青年だったといわれます。四海は、谷原誠二の別名で、現在の龍ケ崎市八代に事務所をつくり、源清田、生板、羽原、美並などの村々に農民組合を組織し、30年から翌年にかけての原村羽原と美並村の小作争議にかかわります。31年、大田村でおこなった演説会の弾圧で、四海は首謀者と目され一カ月勾留。その直後に、日本共産党に入党、29年の4・16事件後2年数カ月ぶりに再建された党茨城県委員会の責任者になりました。同年9月、満州事変がぼっ発。あらしのような弾圧のなかで、四海は農民運動だけでなく、水戸高校の学生運動も指導。32年秋、検挙され、水戸地方裁判所で「わたしは絶対に転向しない」と宣言して、函館刑務所で5年間の獄中生活を送ります。

 獄を出たときには、党中央は壊滅していましたが、四海は不屈な精神で、党の再建をめざして、山代吉宗、春日正一、山代巴、徳毛宜策らと連絡をとり京浜グループを形成、東京と神奈川にわかれて、工場別の学習サークルをつくり、党再建を準備、40年5月、25人が検挙されます。

 特高警察は、京浜グループにたいして残虐な拷問をおこない、山代吉宗は敗戦の年の1月14日に広島刑務所で、板谷敬は同年2月16日に横浜刑務所で獄死。茨城県で四海とともにたたかった米山真一も、34年1月、水戸警察署で拷問をうけ、釈放後まもなく死去しています。

 加藤四海については、作家・山岸一章が関係者に丹念に取材し『新版・不屈の青春―戦前日本共産党員の群像』(新日本出版社)に収録しています。(喜)

 〔2007・8・11(土)〕


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